今回は野口英世を取り上げるぞ。

お札でよく見ているし、子供の頃に伝記読んだ人も多いでしょうけど、詳しい話も知りたいよな。

その辺のところを昔の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、子供用の偉人伝に載っていない野口英世について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、野口英世は福島県の生まれ

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野口英世(ひでよ)は、明治9年(1876年)11月9日 に 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)で誕生。父野口佐代助と母シカの長男、清作(せいさく)と名付けられたが、後に22歳で英世と改名。きょうだいは姉が1人。

父は郵便配達人で人の良い人だったが、お酒のみで借金癖があり、母は農業をするかたわら助産婦などで必死に働いたということ。

1-2、英世、1歳で左手に大やけどの障害残るも、猛勉強で認められる

英世、1歳のときの明治11年(1878年)4月、母が目を離した間に、囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、指が癒着して不自由に

明治16年(1883年)三ッ和小学校に入学、左手の障害のために農作業が難しく、学問で身を立てるよう母に諭されたが、小学校の頃は左手の障害のせいで「てんぼう」と言われていじめられ、そのことでがんばって猛勉強、成績優秀に。

明治22年(1889年)4月、猪苗代高等小学校の小林栄教頭に優秀な成績を認められて、小林の援助で猪苗代高等小学校に入学。当時、義務教育制度はなかったが小学校の学費は無料、小学校は英世の家の向かいにあり、母が奉公していた二瓶家の敷地内で、雇い主の二瓶橘吾が学務委員という環境もよかったそう。

明治時代の教師が、家庭の事情で進学できない優秀な生徒の親を説得して進学させる話がよくありますが、英世の先生はなんと学費まで援助してくれたなんて、よほど見込まれたということでしょう。

1-3、英世、募金で左手の手術を受けて医師を志す

明治25年(1892年)10月、英世は左手の障害がいかに不自由かなどを上手に書いた作文を書いたことで、小林を始めとする教師や同級生らが感動、左手を治すための手術費用を集める募金が行われて、会津若松の病院でアメリカ帰りの医師渡部鼎の執刀で左手の手術を受けることに。その結果、完全とは行かなくても癒着していた左手の指が使えるように。英世はこの手術の成功に感激、医師になると決めたということ

1-4、英世、医学の基礎を学ぶ

明治26年(1893年)3月、英世は猪苗代高等小学校を卒業、自分を手術してくれた渡部の経営する医院に書生として住み込みで働き、約3年半医学の基礎を学び、後に専門分野となる細菌学を知ったということ。この間に、渡部の友人の歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師、血脇守之助と知り合ったそう。

2-1、英世、東京へ行き医師免許取得を目指すが

明治29年(1896年)9月、19歳の英世は小林らから40円もの大金を借りて医師免許を取得するために東京へ。

必要な医術開業試験の前期の筆記試験に合格したが、放蕩しちゃってわずか2ヶ月で資金を使い果たし、下宿から立ち退きを求められたということ。そして後期試験に合格するまで、血脇の勤めていた高山高等歯科医学院の寄宿舎に血脇の一存で泊めてもらい、掃除や雑用をしながら学僕を。

2-2、英世、自分の学費のために策を弄する

英世は、ドイツ語の会得のためにエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を血脇に無心したが、月給4円の血脇には無理。そこで血脇に高山高等歯科医学院院長に昇給を交渉させ、交渉成功で血脇は月給7円となり、英世は学費を得ることに。

また、医術開業試験の後期試験は臨床試験だったため、実際の患者を相手に診断をするには英世の独学では合格不可能なので、医術開業試験予備校だった済生学舎(日本医科大学の前身)へ通いたいと、またまた血脇に院長と交渉させたそう。

そして血脇は院長に病院の経営を任せてもらうことになり、病院の予算を自由に動かせる立場になったことで、英世は血脇から月額15円の援助を受けることに成功。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿。

しかし英世に15円を全額渡すと即座に使ってしまい学費が払えなくなるので、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すように。英世はこの頃、英語、ドイツ語、フランス語の勉強に並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3月で読めるようになったそう。

\次のページで「2-3、英世、臨床医をあきらめ研究者に」を解説!/

2-3、英世、臨床医をあきらめ研究者に

明治30年(1897年)、英世は左手の障害で臨床試験に必須の打診ができないので、血脇の計らいで帝国大学外科学助教授近藤次繁に左手の無償再手術を受けて打診が可能になり、10月の後期試験にも一発合格、21歳で医師免許を取得

しかし医師免許は取得したものの開業資金がなく、左手を患者に見られたくないと臨床医を断念、基礎医学研究者の道を歩むことに。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わったということ。

2-4、英世、北里博士の伝染病研究所に務める

明治31年(1898年)10月、英世は順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司の雑誌編纂主任菅野に頼み込んで、順天堂医院長佐藤進の紹介という形で、世界的に著名な北里柴三郎博士が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤めることに。ここでの英世は研究ではなく、語学の能力を買われて外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳や研究所外の人間との交渉を担当。

2-5、英世、小説を読んでショックを受けて改名

英世は知人からすすめられ、坪内逍遥(しょうよう)の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、「弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作」が彼の名前の野口清作に似ていたことでショックを受けたそう。

英世自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があり小説のモデルと邪推されては困ると改名を決意。郷里の小林先生に相談して、世にすぐれるという意味の新しい名前「英世」に。尚、戸籍名の変更は法的に難しいので、英世は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込み、自分の生家の近所の別の野口家へ養子に入ってもらって、第二の野口清作を意図的に作り出し、「同一集落に野口清作という名前の人間が2人居るのは紛らわしい」と主張して、戸籍名を改名することに成功。

2-5、英世、サイモン・フレクスナー博士に出会う

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By 不明 - Rockefeller Foundation Archive, パブリック・ドメイン, Link

明治32年(1899年)4月、英世は伝染病研究所渉外係として、アメリカから志賀潔の赤痢研究視察に来日したサイモン・フレクスナー博士の案内役を任され、フレクスナー博士に渡米留学の可能性を打診。翌年5月にもフレクスナー博士宛にアメリカ留学を希望する手紙を出したということ。

2-6、英世、横浜港検疫所でペスト患者を発見

明治32年(1899年)5月に、伝染病研究所の蔵書が英世経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚し、英世はこの事件を理由に研究所内勤務から外されて、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補になったのですが、6月に横浜港に入港した亜米利加丸の船内でペスト患者を発見診断したということ。

そして10月には検疫官補の仕事ぶりが認められて、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった国際防疫班に選任されたそう。しかし支度金96円を放蕩で使い果たし、資金を血脇に工面してもらって渡航。清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療担当に。半年の任期終了後、国際衛生局、ロシア衛生隊の要請で残留。

英世は国際的な業務を体験、またこの時期は大変な高給に恵まれたのにまたもや放蕩で使い果たしたため、念願のアメリカ渡航のための資金を貯めるまでにいかず。

3-1、英世、アメリカで研究生活に

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By 不明 - 野口英世記念館, パブリック・ドメイン, Link

明治33年(1900年)6月 には義和団の乱が勃発して清国の社会情勢が悪化したので、英世は7月に帰国、福島県に帰郷して小林先生に留学資金をおねだりするも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭されて拒否。再び神田東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻ったということ。

そして12月5日に英世は箱根の温泉地で知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生の斉藤ます子と婚約を取り付けて、婚約持参金を渡航費に当てて、アメリカへ渡航。北里博士の紹介状を頼りに、フレクスナー博士のもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得たということ。
ここでは蛇毒の研究というテーマを与えられて、研究の成果を論文にまとめたところ、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、英世の名は一躍アメリカ医学界に知られることに。

\次のページで「3-2、英世、デンマークに留学して血清学の研究を」を解説!/

3-2、英世、デンマークに留学して血清学の研究を

明治36年(1903年)10月、英世はフレクスナー博士の指示で、デンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続けて物理学者アーレニウス・マドセンと連名で論文を執筆。翌年アメリカに戻り、設立されたばかりのロックフェラー医学研究所に移籍。尚、その翌年には血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済、英世は斉藤ます子との婚約を破棄。

3-3、英世、梅毒スピロヘータの研究で一躍有名に

1911年(明治44年)8月、英世は「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表、世界の医学界に名を知られることに。英世は京都帝国大学病理学教室に論文を提出、医学博士の学位を授与。

大正2年(1913年)には、梅毒スピロヘータを進行性麻痺、脊髄癆の患者の脳病理組織において確認、この病気が梅毒の進行した形と証明。英世は生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したそう。英世はまた小児麻痺の病原体を特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表したが、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定。

現在では、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は追試に成功した者がいないうえに、継代培養された野口株は病原性を失ってしまっているので、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されているということ。

英世がもっとも熱心に取り組み、成果をあげた研究は梅毒で、梅毒はスピロヘータ・パリダ、らせん形の微生物が病因となって肉体の接触で感染する性病。病原体はこの頃にはすでに発見されて有効治療薬サルバルサンも開発済み。が、梅毒の進行によって脳や神経の組織が破壊されて精神障害が起こる病状を「麻痺性痴呆(ちほう)」「脊ずい癆(ろう)」と言い、当時はこれが梅毒の一種であるとは知られていなかったそう。英世は患者の組織を顕微鏡で調べて梅毒スピロヘータを発見、病因を突き止めることに。

3-4、英世は実践的な研究派

英世は、論文の研究ではなくて徹底的に実験を行う実践派で、膨大な実験から得られるデータ収集を重視し、想定された実験パターンを完璧に実行したうえに作業は驚異的なスピードと正確さで行われたということで、睡眠時間が3時間ということもあり、アメリカでは英世は、実験マシーンとか人間発電機と言われたり、日本人は睡眠をとらないと誤解されたりも。

今では当時とは比べ物にならない精度の高い電子顕微鏡などの最新機器が使われていること、医学は日進月歩であるので、英世の発見した病原体は現在は否定されていたりするのですが、英世の顕微鏡観察による病理学、血清学的研究は評価が高いそう。

3-5、英世、ノーベル医学賞候補となり日本へ凱旋

大正3年(1914年)4月英世は東京大学より理学博士の学位を授与、またこの年の7月、ロックフェラー医学研究所正員に昇進、そしてノーベル医学賞候補に。受賞はしなかったが、3度候補になっています。

大正4年(1915年)、9月に英世は15年振りに帰国して年老いた母と再会。帝国学士院より恩賜賞を授与。ワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉、井戸泰の研究や伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察、恩師の小林栄と血脇守之助、古くからの親友の八子弥壽平には懐中時計を贈ったそう。

また母、小林先生と一緒に三重、大阪、京都などを講演旅行した後に11月4日に離日、これが英世の最後の帰国に。

3-6、英世、黄熱病の病原体発見のために南米へ

大正7年(1918年)6月に英世は、ロックフェラー財団に、ワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、黄熱病大流行中のエクアドルへ派遣されることに。英世は患者の症状がワイル病に酷似していたことで、試験的にワイル病病原体培養法を適用、9日ほど後に病原体特定に成功してレプトスピラ・イクテロイデスと命名。

この結果をもとに開発した野口ワクチンで、南米での黄熱病が収束し、英世はエクアドル軍の名誉大佐に任命され、3度目のノーベル医学賞の候補にも

英世は梅毒と類似のスピロヘータの一種が原因だと発表したが、現在は黄熱病と似た病状をあらわすワイル氏病の病原体で、黄熱病ととりちがえた結果とみなされているということ。

英世はその後もメキシコやペルーに派遣され、黄熱病の研究と撲滅に携わったり、ジャマイカの「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行い、キューバの研究医アグラモンテに、黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うだけではと指摘を受け、会議後にアグラモンテを招いて研究結果を見せて説得を試みたりしたそう。

3-7、英世、黄熱病の研究でアフリカへ

昭和2年(1927年)英世はトラコーマ病原体を発表、ただし、後年クラミジアが発見され否定。そしてロックフェラー医学研究所のラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で9月に死亡を受けて、英世は10月に アフリカへ黄熱病研究のため出張。11月にはイギリス領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラ到着。

しかしロックフェラー医学研究所ラゴス本部では、黄熱病の野口説に否定的見解を抱く研究者が多かったので、イギリス植民局医学研究所病理学者のヤング博士がロックフェラーの組織外の研究施設を貸与してくれて研究開始。

現地ではすでに黄熱病が収束していたためもあり、病原体がすぐ入手できなかったが、12月にウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受けて英世は血液を採取に向かったということ。昭和3年(1928年)、1月2日に英世は軽い黄熱病と自己診断して入院したが、別の医師にアメーバ赤痢と診断され、この時は黄熱病ではなかっただろうということ。1月7日に回復して退院、研究を再開、3月末にはフレクスナーにイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できたと電報を。そして秘書への手紙には、濾過性微生物(ウイルス)が病原だとそれまでの自説を否定したということ。

5月13日に黄熱病と診断されて、アクラの病院に入院。見舞いに来たヤング博士に、「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、英世は「どうも私には分からない」と発言したが、この言葉が最後の言葉。5月21日に51歳で死去。


英世の死後、血液をサルに接種したところ黄熱病を発症、英世の死因が黄熱病と確認。6月15日アメリカ、ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬。

黄熱病の研究は英世の死後すすみ、1930年代に黄熱病のワクチンが完成、電子顕微鏡の開発が進んだ1950年代になってやっとウイルスが確認されたということ。

英世は。平成16年(2004年)から発行の日本銀行券のE号千円札の肖像に採用。

4-1、英世の逸話

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By Eclipse2009 - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

趣味は浪花節、将棋、囲碁、油絵だったなど、子供用の伝記本にない逸話があります。

4-2、伝記と違う英世の両親

英世の伝記では、父の佐代助は酒好きの怠け者で、野口家の貧困の原因みたいに思われているようですが、本人は悪人ではなく、性格的には人好きで好印象だったそう。そして英世が恩師や友人たちに対して、再三多額の負債をお願いして借金の天才と呼ばれたことは、良くも悪くも父から受け継いだ才能だということ。英世が、酒好き放蕩好きな浪費家のエピソードは、子供向けの伝記ではスルーされることに。

また英世の母シカは、農作業の傍らで副業として助産婦に。明治32年(1899年)、助産婦の開業について、政府が新しい免許制度を創設、全ての助産婦に免許取得が義務付けられたのですが、シカは文字の読み書きができないため近所の寺の住職に頼み読み書きを教えてもらって国家試験に合格。生涯に2000件近くの出産に貢献したということ。

4-3、英世のパトロン血脇守之助

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By 不明 - http://www.tdc.ac.jp/chiwaki/, パブリック・ドメイン, Link

英世は、研究に没頭すると大変な集中力を発揮して結果を出しましたが、上京以来、金が入れば遊郭で豪遊して朝帰りという放蕩者で、金欠になると借金を繰り返していたそう。その英世を見捨てずに支えていたのが血脇でした。周囲の人は呆れて英世を悪く言うと、血脇は、「英世は稀代の天才だから、型にはめると天分を損ねる」と言ってたしなめたほど。

アメリカへの渡航費用だった血脇からの借金と斎藤ます子の婚約持参金を、英世が渡米前日に検疫所の同僚たちと一緒に送別会と称して遊郭でどんちゃん騒ぎをして一晩で使い切り、血脇に泣きついたときも、血脇は生まれて初めて高利貸しから300円を借りて用立て、斎藤ます子と破談になった後に、婚約持参金の300円を返金しています。(尚、英世は34歳で、同い年のアメリカ人女性メリー・ダージスと結婚。妻との間に子供はなく、時期は不明だが英世の姉イヌの長男を養子にし、夫人は英世の死後も福島の義姉に仕送りを欠かさなかったということ)

この血脇は、英世のわずか6歳年上ですが、後に東京歯科大学の創立者のひとりとなり、日本歯科医師会長に。大正11年(1922年)、血脇らが欧米を視察したとき、アメリカで英世と再会、英世は恩義を忘れず守之助を最大限に歓待、38日間の守之助の滞米中つきっきりで、ハーディング大統領の表敬訪問までセッティングしたよう。血脇は、「これで君に対する世話は帳消し」と言ったところ英世は「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消しはありません。昔のままに清作と呼び捨てにして下さい」と応えたということ。

英世は、大正12年の関東大震災で血脇の東京歯科医学専門学校がほとんど焼失したとき、「高雅学風撤千古」(高雅で気高い学風は、決して失われることはなく、永遠に続くであろう)の書を送り激励、英世の死に際しては、東京歯科医学専門学校を挙げて追悼会で業績をたたえたそう。また野口英世記念館の設立に尽力も。

欠点も含めた英世の実像は、大人にも勇気と希望を与えそう

野口英世は、小さい頃の障害や貧しさを乗り越え、才能を発揮して医学の道に進み、当時としては大変な業績をおさめました。しかしその人並み以上の努力、才能、仕事ぶりがクローズアップされて子供たちのお手本とされるばかりで、野心家で放蕩者で借金のほうも天才的で、世渡り上手だったことを隠してはいけないでしょう。

英世は人間離れした情熱を持った研究者ではあったが、欠点も多く、しかしそれをカバーしてくれる人々がいて成功につながったということ。なぜか必ず助けてくれる人がいた、道を開いてくれる人に不思議に出会った、特別な才能と魅力も持っていた英世の話は、大人たちにも元気をくれる、自分もがんばろうという希望を与えるのでは。

" /> 千円札と偉人伝でお馴染み「野口英世」意外な一面もある医学博士について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
大正日本史明治歴史

千円札と偉人伝でお馴染み「野口英世」意外な一面もある医学博士について歴女がわかりやすく解説

今回は野口英世を取り上げるぞ。

お札でよく見ているし、子供の頃に伝記読んだ人も多いでしょうけど、詳しい話も知りたいよな。

その辺のところを昔の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、子供用の偉人伝に載っていない野口英世について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、野口英世は福島県の生まれ

image by PIXTA / 41452825

野口英世(ひでよ)は、明治9年(1876年)11月9日 に 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)で誕生。父野口佐代助と母シカの長男、清作(せいさく)と名付けられたが、後に22歳で英世と改名。きょうだいは姉が1人。

父は郵便配達人で人の良い人だったが、お酒のみで借金癖があり、母は農業をするかたわら助産婦などで必死に働いたということ。

1-2、英世、1歳で左手に大やけどの障害残るも、猛勉強で認められる

英世、1歳のときの明治11年(1878年)4月、母が目を離した間に、囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、指が癒着して不自由に

明治16年(1883年)三ッ和小学校に入学、左手の障害のために農作業が難しく、学問で身を立てるよう母に諭されたが、小学校の頃は左手の障害のせいで「てんぼう」と言われていじめられ、そのことでがんばって猛勉強、成績優秀に。

明治22年(1889年)4月、猪苗代高等小学校の小林栄教頭に優秀な成績を認められて、小林の援助で猪苗代高等小学校に入学。当時、義務教育制度はなかったが小学校の学費は無料、小学校は英世の家の向かいにあり、母が奉公していた二瓶家の敷地内で、雇い主の二瓶橘吾が学務委員という環境もよかったそう。

明治時代の教師が、家庭の事情で進学できない優秀な生徒の親を説得して進学させる話がよくありますが、英世の先生はなんと学費まで援助してくれたなんて、よほど見込まれたということでしょう。

1-3、英世、募金で左手の手術を受けて医師を志す

明治25年(1892年)10月、英世は左手の障害がいかに不自由かなどを上手に書いた作文を書いたことで、小林を始めとする教師や同級生らが感動、左手を治すための手術費用を集める募金が行われて、会津若松の病院でアメリカ帰りの医師渡部鼎の執刀で左手の手術を受けることに。その結果、完全とは行かなくても癒着していた左手の指が使えるように。英世はこの手術の成功に感激、医師になると決めたということ

1-4、英世、医学の基礎を学ぶ

明治26年(1893年)3月、英世は猪苗代高等小学校を卒業、自分を手術してくれた渡部の経営する医院に書生として住み込みで働き、約3年半医学の基礎を学び、後に専門分野となる細菌学を知ったということ。この間に、渡部の友人の歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師、血脇守之助と知り合ったそう。

2-1、英世、東京へ行き医師免許取得を目指すが

明治29年(1896年)9月、19歳の英世は小林らから40円もの大金を借りて医師免許を取得するために東京へ。

必要な医術開業試験の前期の筆記試験に合格したが、放蕩しちゃってわずか2ヶ月で資金を使い果たし、下宿から立ち退きを求められたということ。そして後期試験に合格するまで、血脇の勤めていた高山高等歯科医学院の寄宿舎に血脇の一存で泊めてもらい、掃除や雑用をしながら学僕を。

2-2、英世、自分の学費のために策を弄する

英世は、ドイツ語の会得のためにエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を血脇に無心したが、月給4円の血脇には無理。そこで血脇に高山高等歯科医学院院長に昇給を交渉させ、交渉成功で血脇は月給7円となり、英世は学費を得ることに。

また、医術開業試験の後期試験は臨床試験だったため、実際の患者を相手に診断をするには英世の独学では合格不可能なので、医術開業試験予備校だった済生学舎(日本医科大学の前身)へ通いたいと、またまた血脇に院長と交渉させたそう。

そして血脇は院長に病院の経営を任せてもらうことになり、病院の予算を自由に動かせる立場になったことで、英世は血脇から月額15円の援助を受けることに成功。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿。

しかし英世に15円を全額渡すと即座に使ってしまい学費が払えなくなるので、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すように。英世はこの頃、英語、ドイツ語、フランス語の勉強に並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3月で読めるようになったそう。

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