お札でよく見ているし、子供の頃に伝記読んだ人も多いでしょうけど、詳しい話も知りたいよな。
その辺のところを昔の学者が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、野口英世は福島県の生まれ
- 1-2、英世、1歳で左手に大やけどの障害残るも、猛勉強で認められる
- 1-3、英世、募金で左手の手術を受けて医師を志す
- 1-4、英世、医学の基礎を学ぶ
- 2-1、英世、東京へ行き医師免許取得を目指すが
- 2-2、英世、自分の学費のために策を弄する
- 2-3、英世、臨床医をあきらめ研究者に
- 2-4、英世、北里博士の伝染病研究所に務める
- 2-5、英世、小説を読んでショックを受けて改名
- 2-5、英世、サイモン・フレクスナー博士に出会う
- 2-6、英世、横浜港検疫所でペスト患者を発見
- 3-1、英世、アメリカで研究生活に
- 3-2、英世、デンマークに留学して血清学の研究を
- 3-3、英世、梅毒スピロヘータの研究で一躍有名に
- 3-4、英世は実践的な研究派
- 3-5、英世、ノーベル医学賞候補となり日本へ凱旋
- 3-6、英世、黄熱病の病原体発見のために南米へ
- 3-7、英世、黄熱病の研究でアフリカへ
- 4-1、英世の逸話
- 4-2、伝記と違う英世の両親
- 4-3、英世のパトロン血脇守之助
- 欠点も含めた英世の実像は、大人にも勇気と希望を与えそう
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。昔の学者も大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、子供用の偉人伝に載っていない野口英世について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、野口英世は福島県の生まれ
野口英世(ひでよ)は、明治9年(1876年)11月9日 に 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)で誕生。父野口佐代助と母シカの長男、清作(せいさく)と名付けられたが、後に22歳で英世と改名。きょうだいは姉が1人。
父は郵便配達人で人の良い人だったが、お酒のみで借金癖があり、母は農業をするかたわら助産婦などで必死に働いたということ。
1-2、英世、1歳で左手に大やけどの障害残るも、猛勉強で認められる
英世、1歳のときの明治11年(1878年)4月、母が目を離した間に、囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、指が癒着して不自由に。
明治16年(1883年)三ッ和小学校に入学、左手の障害のために農作業が難しく、学問で身を立てるよう母に諭されたが、小学校の頃は左手の障害のせいで「てんぼう」と言われていじめられ、そのことでがんばって猛勉強、成績優秀に。
明治22年(1889年)4月、猪苗代高等小学校の小林栄教頭に優秀な成績を認められて、小林の援助で猪苗代高等小学校に入学。当時、義務教育制度はなかったが小学校の学費は無料、小学校は英世の家の向かいにあり、母が奉公していた二瓶家の敷地内で、雇い主の二瓶橘吾が学務委員という環境もよかったそう。
明治時代の教師が、家庭の事情で進学できない優秀な生徒の親を説得して進学させる話がよくありますが、英世の先生はなんと学費まで援助してくれたなんて、よほど見込まれたということでしょう。
1-3、英世、募金で左手の手術を受けて医師を志す
明治25年(1892年)10月、英世は左手の障害がいかに不自由かなどを上手に書いた作文を書いたことで、小林を始めとする教師や同級生らが感動、左手を治すための手術費用を集める募金が行われて、会津若松の病院でアメリカ帰りの医師渡部鼎の執刀で左手の手術を受けることに。その結果、完全とは行かなくても癒着していた左手の指が使えるように。英世はこの手術の成功に感激、医師になると決めたということ。
1-4、英世、医学の基礎を学ぶ
明治26年(1893年)3月、英世は猪苗代高等小学校を卒業、自分を手術してくれた渡部の経営する医院に書生として住み込みで働き、約3年半医学の基礎を学び、後に専門分野となる細菌学を知ったということ。この間に、渡部の友人の歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師、血脇守之助と知り合ったそう。
2-1、英世、東京へ行き医師免許取得を目指すが
明治29年(1896年)9月、19歳の英世は小林らから40円もの大金を借りて医師免許を取得するために東京へ。
必要な医術開業試験の前期の筆記試験に合格したが、放蕩しちゃってわずか2ヶ月で資金を使い果たし、下宿から立ち退きを求められたということ。そして後期試験に合格するまで、血脇の勤めていた高山高等歯科医学院の寄宿舎に血脇の一存で泊めてもらい、掃除や雑用をしながら学僕を。
2-2、英世、自分の学費のために策を弄する
英世は、ドイツ語の会得のためにエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を血脇に無心したが、月給4円の血脇には無理。そこで血脇に高山高等歯科医学院院長に昇給を交渉させ、交渉成功で血脇は月給7円となり、英世は学費を得ることに。
また、医術開業試験の後期試験は臨床試験だったため、実際の患者を相手に診断をするには英世の独学では合格不可能なので、医術開業試験予備校だった済生学舎(日本医科大学の前身)へ通いたいと、またまた血脇に院長と交渉させたそう。
そして血脇は院長に病院の経営を任せてもらうことになり、病院の予算を自由に動かせる立場になったことで、英世は血脇から月額15円の援助を受けることに成功。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿。
しかし英世に15円を全額渡すと即座に使ってしまい学費が払えなくなるので、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すように。英世はこの頃、英語、ドイツ語、フランス語の勉強に並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3月で読めるようになったそう。
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