平安時代日本史歴史

平氏が栄光をつかんだ立役者「平清盛」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

治承三年の政変

死去した平盛子や平重盛の荘園や領地を無断で没収、さらには平清盛と関係の深い近衛家の家督に対しても無断で口出しを行った後白河法皇、これを知った平清盛は当然激しく怒り、1179年の11月に後白河法皇に対して政変……つまりクーデターを起こします。

平清盛は軍勢を率いて挙兵、京都を制圧して後白河院政を停止させたのです。このクーデターこそ治承三年の政変と呼ばれるもので、平氏に反発していた39名もの公卿や院近臣全てを解任して親平家派に入れ替えます。そして後白河法皇も幽閉させると、1180年には高倉天皇が譲位、代わって安徳天皇を天皇の位に受け継がせました。

京都制圧を果たした平清盛、計画したクーデターは成功しましたが、ただこのクーデターは平氏に反対する勢力を多く誕生させる要因にもなったのです。こうして各地に広まった反平氏勢力、そして平氏打倒の行動を起こしたのは後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)でした。

平清盛の死と壇ノ浦の戦い

平氏打倒の計画が進む中、この計画には源頼政、源頼朝……すなわち源氏も参加していました。言わば平氏と源氏の戦いであり、その中で平氏側の者達は次々と討ち取られていきます。平清盛はそれでも京都に新体制を築こうと尽力しますが、1181年に熱病で倒れて死去、そのため新体制が整うことはありませんでした。

平清盛の死去した後は、平清盛の三男である平宗盛が棟梁を受け継ぎますが、もはや各地で勃発する反乱に対処する術はなく、平氏は徐々に追い詰められていきます。そして1185年、壇ノ浦の戦いにて平氏と源氏は最後の戦いを繰り広げますが、ここで平氏は敗北して完全に滅亡しました

海上戦となったこの戦いは関門海峡の海流の流れを知る平氏が有利でしたが、源氏軍の総攻撃の前に敗北、この壇ノ浦の戦いの戦いによって約25年にわたって行ってきた平治政権の歴史に幕を降ろすことになったのです。平清盛の人生の終わり……それは平氏の終わりでもありました。

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後白河法皇の身勝手な行動をクーデターで対応した平清盛、しかしそれが命取りとなった。クーデターは平氏に反発する者を増加させ、結果壇ノ浦の戦いで源氏に敗れて平氏は滅亡した。以後、歴史は鎌倉時代へと進むことになるぞ。

太政大臣の任命と死去のタイミングに注意

平清盛については2つ注意点があります。1つは平清盛は太政大臣に就いている点で、彼の一生の中では目立たないことながらも武士が太政大臣に任命されたのは日本で初であり、そのためこのことはしっかりと覚えておきましょう。

もう1つは壇ノ浦の戦いで、平清盛は平氏の代表のような存在であるため、壇ノ浦の戦いで死去したと勘違いする人が多いのです。確かに壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しましたが、平清盛は戦いの前の段階で病気にて死去しています。

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