平安時代日本史歴史

平氏が栄光をつかんだ立役者「平清盛」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

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後白河院制の復活後、平清盛はわずか3ヶ月ほどだが太政大臣へと任命された。これが大きく取り上げられていないのは、この頃の太政大臣は実権のない名ばかりの名誉職であったからで、そのため平清盛もわずか3ヶ月で辞任したのだ。

平氏の全盛・後白河法皇との関係の亀裂

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平氏の全盛

病に倒れた平清盛でしたが、見事回復すると厳島神社の整備や日宋貿易(日本と中国・宋朝との間で行われた貿易)に尽力します。かねてから厳島神社を信仰していた平清盛にとっては太政大臣などよりも念願の仕事だったに違いありません。また、平清盛が病に倒れた翌年にあたる1169年に後白河上皇は出家して法皇へとなりました。

この頃、後白河法皇は福原を訪れ宋人に面会しており、そして平清盛の娘である平徳子が高倉天皇に入内、さらに福原にて後白河法皇と平清盛が千僧供養を行うなど、二人の関係は良好で友好的だったようです。この期間、平氏一門の勢いは著しく盛んに伸びていき、全国において実に500もの荘園を保有、日宋貿易による利益も相当な額となりました。

このことから、平時平は「平氏にあらずんば人にあらず」と述べており、平家一門の栄華をたたえたそうです。まさに平氏の全盛であり、その中心となっていたのは平清盛でした。ただ、そんな平清盛の勢力の拡大に対して不満を抱いたのが、意外にもこれまで平清盛と良き関係を築いていた後白河法皇であり、院政勢力の者達だったのです。

平清盛に不満を抱いた後白河法皇

平氏に不満を抱くようになった院政勢力は、平氏打倒を目的に陰謀を企てます。これが1177年に起こった鹿ヶ谷の陰謀ですが、ただこれは企てた計画が密告によって露わになり、それに関わったとされる人物を平清盛が処罰する結果に終わりました。

当然、後白河法皇も処罰の対象になると思いきや、この時に平清盛は後白河法皇に対して何の処罰も行っておらず、しかし二人の関係は修復不可能とされるほど悪化していたようです。それを象徴するかのように、後白河法皇はこの後さらなる強引な行動を起こします。

1179年、近衛基実の嫁いでいた平清盛の娘である平盛子が死去した後、後白河法皇は平盛子の荘園を無断で没収したのです。さらに、平清盛の嫡男である平重盛の死去の後も平盛子の時同様に無断で平重盛の領地を没収、もちろんこのことは平清盛は全く知りませんでした。

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平清盛の活躍で急激に勢力を伸ばした平氏だが、一方で友好関係にあった後白河法皇とは対立するようになった。平氏打倒を目的とする陰謀、さらには荘園や領地を無断で没収するなど、後白河法皇の行動は両者の対立をより深めることになる。

平氏の滅亡・壇ノ浦の戦い

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