平安時代日本史歴史

平氏が栄光をつかんだ立役者「平清盛」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

1159年・平治の乱

保元の乱の後、勝利に貢献した平清盛はその恩恵によって大きく出世しますが、これを良しと思わなかったのが源義朝でした。なぜなら、平清盛と源義朝……すなわち平氏と源氏は保元の乱で共に戦ったにもかかわらず、恩恵の点で源義朝は明らかな差を感じたからです。

そんな恩恵を取り仕切る立場だったのが後白河天皇の側近・信西であり、源義朝が恩恵の差を特に感じたのは「信西が源義朝の娘と自分の息子との結婚を断り、その一方で平清盛の娘と自分の息子を結婚させたこと」でしょう。怒った源義朝はその怒りの矛先を信西と平清盛に向けました。

そんな源義朝と意気投合したのが藤原信頼で、彼もまた信西に不満を持つ一人だったのです。そこで、源義朝と藤原信頼は手を組んで平清盛の留守中に信西を自害に追い込みますが、彼らもまた帰還した平清盛によって滅ぼされてしまいます。この一連の出来事こそ1159年の平治の乱で、これで平氏は完全に政権を掌握したのです

天皇と上皇の双方に仕える平清盛

平清盛の継室・平時子が後白河上皇の第一子である二条天皇の乳母となったため、平清盛は二条天皇の後見役となり、検非違使別当、中納言の地位が与えられます。そして一方では後白河上皇の院庁の別当にもなり、平清盛は天皇と上皇の双方に仕えたことで盤石と呼べる体制を築いていきました。

ちなみに、後白河天皇が後白河上皇になっているのは院政のためです。院政とは、天皇が皇位を後継者に譲ると上皇になり、政務も天皇の代わりに上皇が行うという少々特殊な政治形態で、平安時代の末期から鎌倉時代の始まりまでに見られていました。

つまり、後白河天皇は二条天皇に皇位を譲ったことで上皇……すなわち後白河上皇となったのです。さらに上皇が出家すると法皇となりますが、上皇は「院」とも呼ばれており、そのため院政と名付けられました。そして、そんな院政に問題が勃発したのは1161年のことでした。

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平治の乱は平氏の政権掌握を決定的なものとした戦いのため、絶対に覚えておこう。この戦いでは保元の乱で共に戦った仲間が敵となっており、ただ戦いの名前を覚えるだけでなく人物関係の把握もしておかなければならないぞ。

後白河上皇の院政停止と復活

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後白河院制の停止

1161年、後白河上皇と平滋子の間に憲仁親王が誕生します。すると平時忠と平教盛が憲仁親王を皇太子として正式に定める計画を立てますが、これに腹を立てたのが二条天皇でした。二条天皇は後白河院政をただちに停止させ、平清盛は武士を派遣して御所の警護にあたるようになります。

ただ、ここで平清盛は見事な配慮を見せたのです。御所の警護という形で二条天皇を支持する姿勢を見せた平清盛でしたが、一方で院政を停止させられた後白河上皇にも配慮、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を建造して、後白河上皇の経済基盤を強化させました。

こうすることで、二条天皇を支持しつつも後白河上皇と対立することのように配慮したのです。最も、二条天皇は後白河上皇に対しての警戒を怠らず、平重盛を参議に任命して平家頼りの状態を維持しますが、1165年に二条天皇は死去、そのため二条天皇の息子である六条天皇が後継者となりました。

後白河院制の復活

二条天皇の後を継いだ六条天皇でしたが、実際に政権を握っていたのは摂政の近衛基実であり、これは当時六条天皇がまだ幼かったためです。一方、平清盛は大納言へと昇進して近衛基実の補佐役を務めるようになりますが、この時の平清盛は不安な気持ちだったとされています。

と言うのも、六条天皇は後白河上皇の孫にあたるため、そうなると停止されていた後白河上皇の院政が再び始まるからです。後白河院政派が次第に勢力を盛り返す一方で、平清盛は後白河上皇の性格や行動を冷静に考え、その不安から院政の復活を望んではいませんでした。

そんな中、平清盛は1168年に病によって倒れて出家、そしてこれに危機感を抱いたのが後白河上皇です。「平清盛が病に倒れたことで政治に影響をもたらすに違いない」……そう考えた後白河上皇は六条天皇を退位させると、自分の第七皇子にあたる高倉天皇(憲仁親王)を即位させました。

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