今日は平清盛(たいらのきよもり)について勉強していきます。織田信長、豊臣秀吉など多くの武将が日本の歴史に名を残しているが、平安時代末期に活躍したのは大河ドラマでもおなじみの平清盛でしょう。

鎌倉幕府をはじめとして日本で長く続いた武家政権ですが、平清盛は日本で初めて武家政権を誕生させた人物でもあるのです。そこで、今回は平清盛について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から平清盛をわかりやすくまとめた。

平清盛の誕生と順調な出世

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平清盛・肥後守になるまで

1118年、平清盛は平忠盛の長男として誕生します。父である平忠盛は伊勢平氏の棟梁ですが、現代だと「棟梁=大工さんの親方」の認識ですね。しかし棟梁とは国家の組織の重要人物も意味しており、「頭領」「統領」と表記することもあるのです。

母は不明、一説では祇園女御と呼ばれる女性を母と考える意見もあり、確かに平清盛は祇園女御に育てられました。しかしそれは平清盛が3歳の頃に実の母が死去したためで、祇園女御は平清盛の実の母ではなく、実の母は祇園女御の妹ではないかと推測されています。

1137年には父・平忠盛が熊野本宮を建てたことで肥後守に命じられた平清盛、翌1138年に高階基章の娘を正室に迎えると2人の子供が誕生、それが平重盛平基盛です。ただ高階基章の娘とは死別しており、平清盛は後となる1147年に平時信の娘である平時子を継室に迎え、この2人の間には平宗盛が誕生しています。

保元の乱と平清盛の出世

安芸守に任命された平清盛は瀬戸内海の制海権を手に入れると莫大な利益をあげ、これを機に父・平忠盛と共に西国へと勢力を広げていきます。また、この頃から平清盛は宮島の厳島神社を信仰するようになったそうです。そんな中、1153年に父・平忠盛が死去したため、平清盛は平氏一門をまとめる棟梁へとなりました。

こうして順調に力を伸ばして出世の道を進む平清盛でしたが、1156年に朝廷で大きな政変が起こります。それが保元の乱と呼ばれるもので、天皇の後継者・摂関の座を巡った摂関家の内部の争いによって、朝廷内で後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して対立が起こったのです

この対立は戦いまで発展しますが、平清盛は後白河天皇の側につきます。そして戦いでは後白河天皇は見事勝利、勝利に貢献した平清盛も播磨守、大宰大弐となりました。保元の乱の後は、後白河天皇の側近である信西が主導権を握るようになり、平清盛の武力を背景にして「保元の新制」を出し、後白河天皇と共に国政改革を立案・推進を行っていったのです。

政権掌握・盤石な体制を築く平清盛

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1159年・平治の乱

保元の乱の後、勝利に貢献した平清盛はその恩恵によって大きく出世しますが、これを良しと思わなかったのが源義朝でした。なぜなら、平清盛と源義朝……すなわち平氏と源氏は保元の乱で共に戦ったにもかかわらず、恩恵の点で源義朝は明らかな差を感じたからです。

そんな恩恵を取り仕切る立場だったのが後白河天皇の側近・信西であり、源義朝が恩恵の差を特に感じたのは「信西が源義朝の娘と自分の息子との結婚を断り、その一方で平清盛の娘と自分の息子を結婚させたこと」でしょう。怒った源義朝はその怒りの矛先を信西と平清盛に向けました。

そんな源義朝と意気投合したのが藤原信頼で、彼もまた信西に不満を持つ一人だったのです。そこで、源義朝と藤原信頼は手を組んで平清盛の留守中に信西を自害に追い込みますが、彼らもまた帰還した平清盛によって滅ぼされてしまいます。この一連の出来事こそ1159年の平治の乱で、これで平氏は完全に政権を掌握したのです

天皇と上皇の双方に仕える平清盛

平清盛の継室・平時子が後白河上皇の第一子である二条天皇の乳母となったため、平清盛は二条天皇の後見役となり、検非違使別当、中納言の地位が与えられます。そして一方では後白河上皇の院庁の別当にもなり、平清盛は天皇と上皇の双方に仕えたことで盤石と呼べる体制を築いていきました。

ちなみに、後白河天皇が後白河上皇になっているのは院政のためです。院政とは、天皇が皇位を後継者に譲ると上皇になり、政務も天皇の代わりに上皇が行うという少々特殊な政治形態で、平安時代の末期から鎌倉時代の始まりまでに見られていました。

つまり、後白河天皇は二条天皇に皇位を譲ったことで上皇……すなわち後白河上皇となったのです。さらに上皇が出家すると法皇となりますが、上皇は「院」とも呼ばれており、そのため院政と名付けられました。そして、そんな院政に問題が勃発したのは1161年のことでした。

後白河上皇の院政停止と復活

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後白河院制の停止

1161年、後白河上皇と平滋子の間に憲仁親王が誕生します。すると平時忠と平教盛が憲仁親王を皇太子として正式に定める計画を立てますが、これに腹を立てたのが二条天皇でした。二条天皇は後白河院政をただちに停止させ、平清盛は武士を派遣して御所の警護にあたるようになります。

ただ、ここで平清盛は見事な配慮を見せたのです。御所の警護という形で二条天皇を支持する姿勢を見せた平清盛でしたが、一方で院政を停止させられた後白河上皇にも配慮、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を建造して、後白河上皇の経済基盤を強化させました。

こうすることで、二条天皇を支持しつつも後白河上皇と対立することのように配慮したのです。最も、二条天皇は後白河上皇に対しての警戒を怠らず、平重盛を参議に任命して平家頼りの状態を維持しますが、1165年に二条天皇は死去、そのため二条天皇の息子である六条天皇が後継者となりました。

後白河院制の復活

二条天皇の後を継いだ六条天皇でしたが、実際に政権を握っていたのは摂政の近衛基実であり、これは当時六条天皇がまだ幼かったためです。一方、平清盛は大納言へと昇進して近衛基実の補佐役を務めるようになりますが、この時の平清盛は不安な気持ちだったとされています。

と言うのも、六条天皇は後白河上皇の孫にあたるため、そうなると停止されていた後白河上皇の院政が再び始まるからです。後白河院政派が次第に勢力を盛り返す一方で、平清盛は後白河上皇の性格や行動を冷静に考え、その不安から院政の復活を望んではいませんでした。

そんな中、平清盛は1168年に病によって倒れて出家、そしてこれに危機感を抱いたのが後白河上皇です。「平清盛が病に倒れたことで政治に影響をもたらすに違いない」……そう考えた後白河上皇は六条天皇を退位させると、自分の第七皇子にあたる高倉天皇(憲仁親王)を即位させました。

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平氏の全盛・後白河法皇との関係の亀裂

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平氏の全盛

病に倒れた平清盛でしたが、見事回復すると厳島神社の整備や日宋貿易(日本と中国・宋朝との間で行われた貿易)に尽力します。かねてから厳島神社を信仰していた平清盛にとっては太政大臣などよりも念願の仕事だったに違いありません。また、平清盛が病に倒れた翌年にあたる1169年に後白河上皇は出家して法皇へとなりました。

この頃、後白河法皇は福原を訪れ宋人に面会しており、そして平清盛の娘である平徳子が高倉天皇に入内、さらに福原にて後白河法皇と平清盛が千僧供養を行うなど、二人の関係は良好で友好的だったようです。この期間、平氏一門の勢いは著しく盛んに伸びていき、全国において実に500もの荘園を保有、日宋貿易による利益も相当な額となりました。

このことから、平時平は「平氏にあらずんば人にあらず」と述べており、平家一門の栄華をたたえたそうです。まさに平氏の全盛であり、その中心となっていたのは平清盛でした。ただ、そんな平清盛の勢力の拡大に対して不満を抱いたのが、意外にもこれまで平清盛と良き関係を築いていた後白河法皇であり、院政勢力の者達だったのです。

平清盛に不満を抱いた後白河法皇

平氏に不満を抱くようになった院政勢力は、平氏打倒を目的に陰謀を企てます。これが1177年に起こった鹿ヶ谷の陰謀ですが、ただこれは企てた計画が密告によって露わになり、それに関わったとされる人物を平清盛が処罰する結果に終わりました。

当然、後白河法皇も処罰の対象になると思いきや、この時に平清盛は後白河法皇に対して何の処罰も行っておらず、しかし二人の関係は修復不可能とされるほど悪化していたようです。それを象徴するかのように、後白河法皇はこの後さらなる強引な行動を起こします。

1179年、近衛基実の嫁いでいた平清盛の娘である平盛子が死去した後、後白河法皇は平盛子の荘園を無断で没収したのです。さらに、平清盛の嫡男である平重盛の死去の後も平盛子の時同様に無断で平重盛の領地を没収、もちろんこのことは平清盛は全く知りませんでした。

平氏の滅亡・壇ノ浦の戦い

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治承三年の政変

死去した平盛子や平重盛の荘園や領地を無断で没収、さらには平清盛と関係の深い近衛家の家督に対しても無断で口出しを行った後白河法皇、これを知った平清盛は当然激しく怒り、1179年の11月に後白河法皇に対して政変……つまりクーデターを起こします。

平清盛は軍勢を率いて挙兵、京都を制圧して後白河院政を停止させたのです。このクーデターこそ治承三年の政変と呼ばれるもので、平氏に反発していた39名もの公卿や院近臣全てを解任して親平家派に入れ替えます。そして後白河法皇も幽閉させると、1180年には高倉天皇が譲位、代わって安徳天皇を天皇の位に受け継がせました。

京都制圧を果たした平清盛、計画したクーデターは成功しましたが、ただこのクーデターは平氏に反対する勢力を多く誕生させる要因にもなったのです。こうして各地に広まった反平氏勢力、そして平氏打倒の行動を起こしたのは後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)でした。

平清盛の死と壇ノ浦の戦い

平氏打倒の計画が進む中、この計画には源頼政、源頼朝……すなわち源氏も参加していました。言わば平氏と源氏の戦いであり、その中で平氏側の者達は次々と討ち取られていきます。平清盛はそれでも京都に新体制を築こうと尽力しますが、1181年に熱病で倒れて死去、そのため新体制が整うことはありませんでした。

平清盛の死去した後は、平清盛の三男である平宗盛が棟梁を受け継ぎますが、もはや各地で勃発する反乱に対処する術はなく、平氏は徐々に追い詰められていきます。そして1185年、壇ノ浦の戦いにて平氏と源氏は最後の戦いを繰り広げますが、ここで平氏は敗北して完全に滅亡しました

海上戦となったこの戦いは関門海峡の海流の流れを知る平氏が有利でしたが、源氏軍の総攻撃の前に敗北、この壇ノ浦の戦いの戦いによって約25年にわたって行ってきた平治政権の歴史に幕を降ろすことになったのです。平清盛の人生の終わり……それは平氏の終わりでもありました。

太政大臣の任命と死去のタイミングに注意

平清盛については2つ注意点があります。1つは平清盛は太政大臣に就いている点で、彼の一生の中では目立たないことながらも武士が太政大臣に任命されたのは日本で初であり、そのためこのことはしっかりと覚えておきましょう。

もう1つは壇ノ浦の戦いで、平清盛は平氏の代表のような存在であるため、壇ノ浦の戦いで死去したと勘違いする人が多いのです。確かに壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しましたが、平清盛は戦いの前の段階で病気にて死去しています。

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平安時代日本史歴史

平氏が栄光をつかんだ立役者「平清盛」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は平清盛(たいらのきよもり)について勉強していきます。織田信長、豊臣秀吉など多くの武将が日本の歴史に名を残しているが、平安時代末期に活躍したのは大河ドラマでもおなじみの平清盛でしょう。

鎌倉幕府をはじめとして日本で長く続いた武家政権ですが、平清盛は日本で初めて武家政権を誕生させた人物でもあるのです。そこで、今回は平清盛について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から平清盛をわかりやすくまとめた。

平清盛の誕生と順調な出世

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平清盛・肥後守になるまで

1118年、平清盛は平忠盛の長男として誕生します。父である平忠盛は伊勢平氏の棟梁ですが、現代だと「棟梁=大工さんの親方」の認識ですね。しかし棟梁とは国家の組織の重要人物も意味しており、「頭領」「統領」と表記することもあるのです。

母は不明、一説では祇園女御と呼ばれる女性を母と考える意見もあり、確かに平清盛は祇園女御に育てられました。しかしそれは平清盛が3歳の頃に実の母が死去したためで、祇園女御は平清盛の実の母ではなく、実の母は祇園女御の妹ではないかと推測されています。

1137年には父・平忠盛が熊野本宮を建てたことで肥後守に命じられた平清盛、翌1138年に高階基章の娘を正室に迎えると2人の子供が誕生、それが平重盛平基盛です。ただ高階基章の娘とは死別しており、平清盛は後となる1147年に平時信の娘である平時子を継室に迎え、この2人の間には平宗盛が誕生しています。

保元の乱と平清盛の出世

安芸守に任命された平清盛は瀬戸内海の制海権を手に入れると莫大な利益をあげ、これを機に父・平忠盛と共に西国へと勢力を広げていきます。また、この頃から平清盛は宮島の厳島神社を信仰するようになったそうです。そんな中、1153年に父・平忠盛が死去したため、平清盛は平氏一門をまとめる棟梁へとなりました。

こうして順調に力を伸ばして出世の道を進む平清盛でしたが、1156年に朝廷で大きな政変が起こります。それが保元の乱と呼ばれるもので、天皇の後継者・摂関の座を巡った摂関家の内部の争いによって、朝廷内で後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して対立が起こったのです

この対立は戦いまで発展しますが、平清盛は後白河天皇の側につきます。そして戦いでは後白河天皇は見事勝利、勝利に貢献した平清盛も播磨守、大宰大弐となりました。保元の乱の後は、後白河天皇の側近である信西が主導権を握るようになり、平清盛の武力を背景にして「保元の新制」を出し、後白河天皇と共に国政改革を立案・推進を行っていったのです。

政権掌握・盤石な体制を築く平清盛

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