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自由民権運動で有名な「板垣退助」この元土佐藩士について歴女がわかりやすく解説

4-3、自分を殺しに来た相手も許す寛大さ

退助は、武市半平太瑞山の命令で自分を斬りにきた中岡慎太郎に暗殺を思い留まらせたうえ、中岡と意気投合したという人で、岐阜遭難事件の犯人の相原尚褧に対しても、特赦嘆願書を明治天皇に提出して、相原は特赦に、そして改心した相原は退助に謝罪に訪れたそう。

4-4、呑敵流柔術が襲撃時に役に立った

呑敵流小具足術を本山団蔵に学んだ退助は、明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際、とっさに呑敵流の当身で反撃、警察が調べてみると相原の脇腹に黒いあざが。 そして事件のあと、退助は命が助かったのは師のおかげと本山団蔵に贈り物をしたところ、本山団蔵は実地に役立ったことを喜んで、呑敵流の皆伝免状を授けたということ。

4-5、日光東照宮を戦火から守ったことで銅像に

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退助は、戊辰戦争のとき日光東照宮に立てこもった大鳥圭介ら旧幕臣達に対し、「先祖の位牌の陰に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるだろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得。また、強硬に破壊を主張する味方の因州鳥取藩兵たちには、「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆の扁額があり、焼き討ちは天皇家への不敬にあたるため回避すべし」と、両者に対して上手に理由を使い分けて説得、日光山を戦火から守ったということ。

ということで昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代家達が銅像の題字を揮毫。この銅像は大東亜戦争末期に金属供出されたが、昭和42年(1967年)、彫刻家新関国臣の作による像が再建、銅像の題字も復元。

4-6、相撲が大好きで両国国技館の命名も

退助は後藤象二郎同様大の相撲好きで 山内容堂公と3日連続で相撲をとったとか、拝領した新田町の屋敷には相撲場と約20人の相撲取りが居たとか、国民の娯楽の大相撲を国技として、国技館と命名した話もあります。

4-7、子沢山

正式な妻は4人で子供は10人だが、他にも子供があちこちにいたらしい。土佐町に「板垣のおんちゃん」と言うそっくりの人がいて、彼の母親は中島町の退助の屋敷にお手伝いとして働いていたとの土佐町の地元で有名な情報があるそう。

戊辰戦争で軍人として有能さを発揮し、自由民権運動で政治家として新しい国を目指した人

板垣退助は、幕末の頃は容堂公の側でマイナーな存在でしたが、あの土佐藩の上士としては身分制に拘らない珍しい考え方で、また戊辰戦争での東北での対応も尊敬を集めたということでした。

お札になったのも40代から生やし始めたという髭が偽造を防ぐということと、没後も庶民の人気が絶大だったためだったということで、遊説中に暴漢に襲われたとき、本当に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったかは不明ですが、土佐の明るいエネルギーを感じる人であることは確かだと思います。

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