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自由民権運動で有名な「板垣退助」この元土佐藩士について歴女がわかりやすく解説

2-3、退助、江戸で洋式兵法修行に

退助は、容堂公から吉田東洋暗殺の犯人捜索を命令されたが拒否したため、慶応元年(1865年)1月14日、洋式騎兵術修行を命ぜられて、江戸で幕臣倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎(騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学んだということ。この頃、退助は将来、江戸で戦争が起こったときのことを考えて、馬で江戸市中を駆け回って戦術を考えたそう。

慶応2年(1866年)11月、薩摩藩士の吉井友実らと交流し、慶応3年(1867年)2月、水戸浪士の中村勇吉、相楽総三、里見某らを独断で江戸の土佐藩邸に匿ったということ。

2-4、薩土密約を締結

前藩主容堂が公武合体論だったので、当時の土佐藩上士は公議政体論が主流だったのが、退助は武力倒幕を一貫して主張。慶応3年(1867年)5月には上洛し、前月に脱藩の罪を許された中岡慎太郎の手紙を受けて、5月18日、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次、船越洋之助らとともに中岡と会見し武力討幕について議論。さらに5月21日、中岡の仲介で、京都の小松帯刀清廉邸で、土佐藩の谷干城、毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷隆盛らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語って、薩土密約を結んだということ。

翌日、退助は容堂へ拝謁し、時勢が武力討幕へ向かっていると説明、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っていることを告げて、5月27日、薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入、6月2日に土佐に帰国。藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令。8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受けるが後に中止。9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放、七郡勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移すなど、大忙しに。

2-5、戊辰戦争勃発前後

退助は、慶応3年(1867年)12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚し、退助を残して土佐藩兵隊が上洛。12月28日には、土佐藩の山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につき、薩摩藩の西郷隆盛は土佐藩士谷干城に薩長芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったので、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促したそう。
谷は、執政山内隼人に報告し、下横目森脇唯一郎を伴って土佐に行き、1月9日に退助の失脚が解かれて、1月13日、深尾成質を総督、退助を大隊司令として土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊(じんしょうたい)を編成し土佐を出し、戊辰戦争に参戦することに。

尚、1月3日には鳥羽伏見で戦闘が開始されたので、1月4日には容堂公の戦いに参加するなの命令も聞かず、薩土密約を履行して土佐藩兵が参戦したということ。

2-6、退助、官軍の参謀として従軍

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退助が編成した迅衝隊は近代的軍隊で画期的な組織だったということ。そして慶応4年(1868年)2月、朝廷から土佐藩に東山道先鋒の命が下ったが、資金不足のため断りかけたところ、容堂公がお金は何とかする、とにかく出陣せよ、「天なお寒し、自愛せよ」と退助らを送り出したそう。

また、この年は退助の祖先である板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であると示して、甲斐国民衆の支持を得るように」と、岩倉具視らの助言を得て、板垣に復姓。 退助の板垣復姓のおかげもあり、、甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊(旧新選組)を撃破、その後江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多かった八王子千人同心たちを懐柔させるのに絶大な効果をもたらしたそう。

その後、退助は東北戦争で三春藩を無血開城、二本松藩、仙台藩、会津藩などを攻略。これらの軍功で賞典禄1000石を。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督、家老格に進んで家禄600石に加増。

また退助は、維新後すぐに、賊軍とされた会津藩の名誉回復に努めるなど、官軍の将として徹底して公正な態度であったために多くの会津人が維新後、感謝の気持ちで土佐を訪れ、長州のような恨みを持たれなかったということ。

3-1、明治後の退助

退助は、明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任。明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令。明治4年(1871年)には参議。

明治6年(1873年)、征韓論争が起こって世論が沸騰し、退助は率先して征韓論を主張、しかし欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされ、激憤した西郷隆盛らとともに下野。世論も圧倒的に支持し、退助、西郷に倣って職を辞する官僚が600名あまり、退助と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機に。

3-2、自由民権運動に

退助は、下野後に五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠にして、明治7年(1874年)に愛国公党を結成、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出するも、却下。また、高知に立志社を設立。明治8年(1875年)、大阪会議で参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指して辞職、再び自由民権運動に。

3-3、退助、自由党党首として遊説中に襲われる

明治14年(1881年)、退助は、国会開設の詔が出されたのをきっかけに自由党を結成して総理(党首)就任。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていたが、明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢相原尚褧に襲われ負傷。退助は襲われた後、竹内綱に抱きかかえられて起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い 、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることに。11月、後藤象二郎とヨーロッパを視察旅行して翌年の6月に帰国。明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起きて自由党を一旦解党。

3-4、退助、叙爵を断るが断り切れずに伯爵に

退助は自由民権運動家の立場として華族制度には消極的で、授爵の勅を二度断り、明治20年(1887年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲に諭されてやむなく伯爵位を授爵。その結果、華族当主には衆院選の被選挙権がないため衆議院議員になれず、また貴族院でも、伯爵議員の互選と勅選議員の任命も辞退したため帝国議会員にはならなかったということ。

3-5、帝国議会開設以後

退助は、明治23年(1890年)の帝国議会開設後、河野広中や大井憲太郎らと旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興。翌年、自由党に改称して党総理に就任。 明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力、退助は内務大臣で入閣。第2次松方内閣でも留任するもすぐ辞任。明治30年(1897年)3月には、自由党総理を辞任。

明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織、日本初の政党内閣となった第1次大隈内閣に内務大臣で入閣。しかし内閣は内紛が激しく、4か月で総辞職。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退。

3-6、退助の晩年

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政界引退後の退助は、明治37年(1904年)に機関誌「友愛」を創刊、明治40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行い、大正2年(1913年)2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役となり、大正3年(1914年)に二度台湾を訪問して台湾同化会の設立に携わったそう。

大正8年(1919年)7月16日83歳で死去。
昭和23年(1948年)に発行された50銭政府紙幣、昭和28年(1953年)12月1日から、昭和49年(1974年)8月1日まで発行された日本銀行券B100円券に退助の肖像が使用。

4-1、退助の逸話

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司馬遼太郎、海音寺潮五郎らによれば、退助は政治家よりも軍人向き。しかし、退助の戊辰戦争の功績を考えると、西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいの地位だが、土佐藩にそこまでの力がなかったので政治家になったそう。他にも色々な逸話があります。

4-2、庶民派だった

土佐藩上士の生まれの退助が、けんかのおしおきで神田村に蟄居になったとき、身分の上下関係なく人と交わる機会を得たことで、後に庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったそう。

また、藩の免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をしたときも、「万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てください」と語った話もあり、身分の上下に厳しかった土佐藩では変人とみられるほど寛大な態度だったということで、明治になって自由民権運動で全国を遊説したときも、庶民派として大衆の人気が絶大。

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