昔お札だったのと、暴漢に襲われて、板垣死すとも自由は死せずと言った人ですが、詳しい話も知りたいよな。
その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、板垣退助は土佐藩上士の生まれ
- 1-2、退助の子供時代
- 1-3、退助、蟄居をくらい、同じく蟄居中の吉田東洋の影響を受ける
- 2-1、退助、容堂公の側用人に
- 2-2、退助、前藩主容堂公に可愛がられる
- 2-3、退助、江戸で洋式兵法修行に
- 2-4、薩土密約を締結
- 2-5、戊辰戦争勃発前後
- 2-6、退助、官軍の参謀として従軍
- 3-1、明治後の退助
- 3-2、自由民権運動に
- 3-3、退助、自由党党首として遊説中に襲われる
- 3-4、退助、叙爵を断るが断り切れずに伯爵に
- 3-5、帝国議会開設以後
- 3-6、退助の晩年
- 4-1、退助の逸話
- 4-2、庶民派だった
- 4-3、自分を殺しに来た相手も許す寛大さ
- 4-4、呑敵流柔術が襲撃時に役に立った
- 4-5、日光東照宮を戦火から守ったことで銅像に
- 4-6、相撲が大好きで両国国技館の命名も
- 4-7、子沢山
- 戊辰戦争で軍人として有能さを発揮し、自由民権運動で政治家として新しい国を目指した人
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、板垣退助ついて5分でわかるようにまとめた。
1-1、板垣退助は土佐藩上士の生まれ
板垣退助は、天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格300石)乾正成(まさしげ)の嫡男として、高知城下中島町(現高知県高知市本町通2丁目)で誕生。きょうだいは姉と姉妹二人と夭折した弟が一人。幼名は猪之助。退助は通称、諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)、号は無形(むけい)。乾家は武田信玄の重臣の板垣信方を祖とした家柄。
同じ上士の子である後藤象二郎保弥太(やすやた)とは幼馴染で親友、お互い「いのす」、「やす」と呼びあった仲。
退助は猪之助と言った若い頃、猪突猛進のけんか好き、けんかでたびたび謹慎処分を受けたのですが、藩主容堂公から可愛がられていて、「猪突猛進に突き進むのでなく、一歩退いたぐらいを心掛けるように」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜ったということ。
こちらの記事もおすすめ
大政奉還実現に一翼担った「後藤象二郎」この土佐藩士について歴女がわかりやすく解説
1-2、退助の子供時代
退助は、「蝦蟇の油を塗ると、川に潜っても呼吸ができる」という言い伝えを信じて、後藤象二郎と一緒に、蛙をとって釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川を潜水したが呼吸ができなかったので、迷信を疑うようになったということ。
その翌日は神社のお守りを厠に捨てて、神罰が本当に起こるのか試したが、何事も起こらず。同じように神田村(こうだむら)に蟄居していたときに、食べ合わせると死ぬと言われた、うなぎと梅干、てんぷらと西瓜などを、人を集めて目の前で食べてみせて無害なことを実証したそう。
また退助自身が晩年になって、自分の少年時代を回顧して、母に、けんかしても弱い者をいじめるなと言われ、けんかに負けて帰れば、母に叱られてすぐ門に入れてもらえなかった。成長すると、卑怯なまねをして祖先の家名を汚してはいけないと教えられたと述懐したそう。
1-3、退助、蟄居をくらい、同じく蟄居中の吉田東洋の影響を受ける
退助は、嘉永4年(1851年) 15歳のとき、腕白盛りで「盛組(さかんぐみ)」の首領として名を売っていて、同輩藩士と喧嘩、罪を得て「屹度遠慮(きっとえんりょ/「謹真」のこと)」の処分に。
そして安政元年(1854年)18歳で江戸勤番に。しかし、安政3年(1856年)20歳のときに、またまた喧嘩で「惣領職褫奪(そうりょうしょくちだつ、乾家の当主を相続する権利を取上げられた)、城下四ケ村禁足」の重罰を受けて、土佐郡神田村に4年間謫居生活に。
退助と同じ頃に神田村に謫居していた人物が、吉田東洋と岩崎弥太郎。吉田東洋は家塾を開いていて、そこに退助の幼馴染で東洋の甥の後藤象二郎が通っていたのですが、吉田東洋に勉学に励むように諭されて、態度を改めて文武の修行に励んだが、ただし塾へ通わず独学。
このときに上士の退助は身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得て、下士である郷士たちとも付き合うように。そして一時は家督相続すら危ぶまれたけれど、父正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督相続出来たそう。
こちらの記事もおすすめ
三菱財閥の創設者『岩崎弥太郎』1代で巨大な財を成した男の生涯を幕末マニアが5分で詳しくわかりやすく解説
2-1、退助、容堂公の側用人に
万延元年(1860年)24歳 で土佐藩の免奉行加役(年貢の調査役)に登用。
文久元年(1861年)、御納戸方として江戸へ赴き、軍備庶務掌理(土佐藩江戸藩邸の会計軍事係)となり、この年、江戸留守並びに御内用役に。そして文久2年(1862年)26歳で
品川の鮫洲に幽居していた前藩主山内容堂の側用人となり、土佐藩江戸藩邸の総裁に。
2-2、退助、前藩主容堂公に可愛がられる
文久元年(1861年)10月25日、江戸留守居役兼軍備御用となり、11月21日に高知を出て江戸へ。文久2年(1862年)6月、小笠原唯八と佐々木高行に会って勤皇に尽忠を誓ったということ。10月17日、容堂の御前で、寺村道成と時勢について対論に及び、尊皇攘夷を唱えたそう。文久3年(1863年)1月11日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着し、1月15日、容堂の本陣に勝海舟を招聘、坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議、4月12日、土佐に帰藩。
文久2年(1862年)、退助が江戸滞在中、土佐では吉田東洋が土佐勤王党員に暗殺されたが、退助は土佐藩上士には珍しい勤王派で、江戸で土佐勤王党のひとりで武市半平太瑞山から最も重用された間崎哲馬と連絡を取りあっていたということ。間崎は土佐藩の田野学館で教えた後、江の口村で私塾を開いて、中岡慎太郎、吉村虎太郎などを教えた人。文久3年(1863)退助は藩主に従って上洛。
こちらの記事もおすすめ
幕末の四賢侯のひとり「山内容堂」個性的な土佐藩主について歴女がわかりやすく解説
\次のページで「2-3、退助、江戸で洋式兵法修行に」を解説!/