今回は豊臣秀吉の妻、寧々の登場です。秀吉は信長の草履取りから頭角をあらわして武将にとりたてられ、信長の死後は天下統一を果たした人です。だけど、秀吉だけが偉かったのじゃなくて、寧々と結婚したおかげだというくらい、寧々もすごい人だったという話なんです。日本史のなかでも女性史に詳しいライターのあんじぇりかと一緒に寧々さんについて解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は女性のあんじぇりかから見ても嫌味がなくて会ってみたいと思うほど魅力的な、北政所寧々(ねね)をご紹介。

北政所寧々(きたのまんどころ ねね)は、豊臣秀吉の糟糠の妻

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豊臣秀吉が織田信長に仕え出世し、ついには天下統一を成し遂げたのは、北政所寧々(ねね)がそばにいたからだと言っても過言ではありません。色々な交渉や人事について、秀吉のもっとも信頼できる相談相手であっただけでなく、秀吉が戦地へ赴いても留守を安心して任せておけるし、秀吉のカバーも出来るという、ある意味秀吉以上の器量と肝っ玉を持ち、人脈も持っていました。

北政所寧々(ねね)がいかに秀吉の天下統一の過程、統一後に重要な役割を果たしたかについて5分読めばわかるようまとめました。

1、北政所寧々(ねね)の生い立ちは

北政所寧々(ねね)は、尾張の国で、杉原定利と妻朝日殿の次女として生まれました。
生まれた年ははっきりせずに諸説あり。きょうだいは姉くま、兄木下家定、妹やや。 寧々とややは、母の妹である浅野長勝と七曲殿夫妻に子供がなかったために、浅野家の養女に。

1-1 北政所寧々(ねね)の名前について

昔の女性は普通は呼び名程度で、夫の出世と共に官位を授かれば正式名が出来て記録されるもの。夫の秀吉が関白になったとき、寧々も従三位、次いで従一位を授かり、吉子という名前を名乗りました。が、出生時につけられた名前、呼び名は、残っている寧々あての秀吉や他の人たちの手紙などをみると、おね、寧々などとあり、ね ではないかという説もあります。

しかしいくらなんでも、ね、はないでしょう。
私事ですが、大正生まれの「さよこ」という名前の女性が子供の頃、江戸末期生まれの祖父に「おさ、おさ」と呼ばれたと聞いたことがあります。今でも、えっちゃん、まーちゃんなど、名前の最初の一文字にちゃんをつけた呼び名は珍しくないですが、最初の一文字におを付けて呼ぶこともあったのでは。

寧々の妹はややなので、やはり寧々という名で、愛称としておねと呼ばれていた、と考えるのが自然ではないでしょうか

2、足軽時代の秀吉と結婚

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寧々の幼少時の話は伝わっておらず、藤吉郎と名乗った25歳の秀吉と結婚後、寧々の人生が始まったと言っていいでしょう。寧々は14歳だったと言われています。

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2-1、母の反対を押し切った恋愛結婚だった

寧々もそれほど身分が高い武士の家の娘ではなかったけれど、秀吉は農民上りで織田信長の草履とりから始めてまだ数年だったので、寧々の母は結婚には反対、恋愛なのも気に入らなかった有様。
寧々と秀吉のなれそめは、信長が鷹狩りの途中で寧々の家に立ち寄り、お茶を出した寧々を見て気に入って、秀吉に嫁にもらえと勧めたという話もあるけれど、殿さまのお声がかりならば寧々の母がそれほど強硬に反対するはずがないですね。

でも、後年天下人となるほどの秀吉のこと、信長の草履を懐で温めていたとか機転の利く逸話に事欠かないほどなので、どんな顔かたち、格好をしていようが、身分が低かろうが、見る目のある人にはそのカリスマ性と頭の良さ、器量の大きさは、他人と違う、出世するような人であることが理解できたのでは。
寧々も若いながらも賢い女性なので、この人だという見る目を持って惚れ込んだのでしょう。結局は寧々の兄の家定が、秀吉を養子縁組すると母を説得して、永禄4年(1561年)8月、ふたりは長屋でわらと薄縁を敷き、質素な祝言を決行。

2-2、親戚の子供たちを預かって養育、母代わりに

武士というのは身分が高いほど先祖代々の家来、一族郎党が付属しているもの。
徳川家康も人質生活があったとしても、三河国に帰れば父祖以来、松平家に代々仕えた一族郎党が待っているし、織田信長もそうですね。
しかし秀吉は農民の出身なので、そういう家代々の家来はおらず、一から作って行かねばなりません。
秀吉は寧々の木下家に養子に入ったようなものですが、自分の弟や姉、妹の主人、寧々の兄、その子供たち、妹のややの浅野家の子供たちを自分の傘下に置いたのです。
また、後の加藤清正、福島正則は、秀吉の母なかの親戚で従弟や又従弟になり、秀吉は彼らを少年の頃から預かっていました。
司馬遼太郎小説に出て来る表現では、「我が台所で飯を食え」。
もちろん、実際にご飯を作って食べさせたり、着物を作ったり、喧嘩やいたずらをしたら叱ったり仲裁して、世話をして育てたのは、寧々でした。
自分の子供はなくても、兄の子供たちも、妹の子供たちも、秀吉の姉の子も、我が子のように可愛がりました。
彼らは成長すると、秀吉に付き従い戦に出陣し、武功を挙げてついには大大名になりましたが、その裏には秀吉から人事の相談を受けたときの寧々のさりげないプッシュもあったということです。
寧々が人を見る目があるのは秀吉も一目置いていたので、秀吉はなにごとも寧々に一番に相談していたそう。
寧々は体育会系が好みだったらしく、武闘派の加藤清正や福島正則をひいきして、秀吉の怒りを買ったときも、さりげなくとりなして許してもらったこともあったらしい。
また秀吉が出世した後も、親しかった前田利家とおまつの娘豪姫や、徳川家康の次男秀康、正親町天皇の孫八条宮を猶子(ゆうし、養子に準じる扱い)にするなど、実子でなくても大勢の子供を手もとで世話をしたほど。

それは人質として預かった黒田官兵衛の息子や徳川家康の息子、秀忠なども同じ。
もちろん寧々が自ら世話をしたので、秀忠などは将軍になっても、人質時代に優しく面倒を見てもらったことを忘れずに、晩年に京都へ行くたびに寧々を訪ね、寧々の知行もアップしたというほどの孝行ぶり。
彼らと個人的な信頼関係があったということは、寧々が世話好きで心から可愛がった証拠で、後々、秀吉の死後の関が原合戦にもつながっていくことになったはず。

2-3、前田利家の妻お松とも仲良しだった

秀吉の母は、なかといい、秀吉には姉と弟、妹がいました。
寧々はなかと同居していましたが、幸いに嫁姑の仲は非常によく、嫁いびりなどもなかったということです。
また、秀吉は前田利家とも信長に仕えた最初の頃からかなり親しかったのですが、寧々は利家の妻お松とも相当親しかったということで、岐阜城下の長屋では隣どうし、毎日のように「木槿垣ひとえの垣根越し」におしゃべりする仲だったと言います。
秀吉が信長に認められて出世していくと、部下も増えていきましたが、寧々は家のこともきちんとこなして秀吉を支えていました。

秀吉が一国一城の主となったのは、近江の長浜城をもらったときでした。
寧々は姑のなからとともに、長浜城に入り、その後姫路城に入った秀吉の留守を守っていました。
寧々は秀吉が次にもらった姫路城には行かずじまいで、本能寺の変のときは長浜城にいて、危険を感じて寺に逃げ込んだということです。
秀吉の後に長浜城に入った山之内一豊の妻千代も賢妻の誉れ高い人ですが、寧々とも親しかったのですよ。

2-4、寧々は信長の覚えもめでたかった

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寧々は賢いうえによく出来た女性でしたが、残念ながら子供が授からなかったうえ、秀吉はだんだん浮気症を発揮して側室も増え、さすがの寧々も悩まされましたが、夫婦仲を心配した信長が寧々を励ます手紙を送っていて、それが今に伝わっているのです。
この手紙は、秀吉が最初に築いた長浜城にいた頃に書かれたもので、寧々は土産物をたくさん持って安土城に信長を訪ね、浮気三昧の秀吉の愚痴まで言ったらしく、なんと信長はわざわざ寧々の訪問と土産物のお礼とともに、寧々の器量を誉め、あのはげねずみ(秀吉のこと)にはもったいないほどなので、くれぐれも悋気を起こすな、この手紙を秀吉にも見せろという内容で有名

あの残虐無慈悲な行為が印象的な信長のイメージを覆すような優しい手紙にはびっくり。
今に残っているということは、寧々が最晩年までこの手紙を大事にして何度も読み返し、心の支えにしていたのかも。

2-5、秀吉との仲は良好

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秀吉は女好きで名高い人で、しかも貴婦人好みでしたが、間違っても寧々を排除して彼女らを正妻にということはしなかったです。
正妻の寧々を軽んじることなく、小田原征伐とか朝鮮の役で九州に長くいたときでも、寧々に何通もの愛情あふれる手紙を送り、寧々を通して淀殿を小田原や九州へ派遣してくれるよう頼むなど、留守を任せた責任者として筋を通すような頼み方をしています。

また、関白、北政所という身分になっても、人前でもかまわず秀吉とは尾張の言葉で言い合いをしたというのは有名な話で、ふたりの気さくな信頼関係をあらわす逸話ですね。

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2-6、ルイス・フロイスは寧々を女王と表現

ポルトガル人でイエズス会の宣教師フロイスは、来日して「日本史」などを書き残していますが、そのなかで寧々のことを、「豊臣政権においては大きな発言力と高い政治力を持っていた。寧々自身は洗礼を受けることはなかったが、イエズス会の宣教師たちには色々と便宜を図っていた」、「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と書いています。

寧々の侍女のなかにはマグダレナというキリシタンもいたせいで、秀吉が伴天連追放令(ばてれん)を出したときに、近畿一帯から出ようとしているキリスト教司祭たちに食料を贈り、秀吉が帰ったら、自分が伴天連たちのためにとりなすという約束までしたそう。

寧々はキリシタンにも理解を示していたんですね。

3、後継ぎがなく、一族にも人材恵まれず

秀吉と寧々が傑出していたのか、せっかく可愛がって面倒を見ても、ふたりの親族の子らは人間的にもいまいちな人が多く、これも豊臣家が続かなかった原因でしょう。

3-1、秀吉の弟秀長は出来た人だった

秀吉の親族では異父弟の羽柴秀長が、秀吉の欠点を補うほど温厚で有能な人物でした。兄の信頼も篤く、補佐を務め、おまけに寛大な性格だったので、諸大名も彼に秀吉へのとりなしを頼んで事なきを得た人も多かったということ。また秀長は、大きな寺や神社も多いために、統治するのに困難だと言われた大和の国を任されてもうまく治めたが、天正19年(1591年)に52歳で病死

もし彼が長生きしていれば、豊臣家の行く末も違ったものになったであろうにと惜しまれる存在でした。

3-2、姉の子秀次を後継ぎにしようとしたが、秀頼が生まれた

前述のように、秀吉と寧々は子供がないために、寧々の兄の息子たち、妹の息子たち、秀吉の姉の息子たち、信長の遺児などを我が子のように可愛がり、後継ぎにしようとしましたが、若死にする人も多く後継者に悩まされたのでした。

秀吉は、淀殿が産んだ鶴松の死去後、ついに姉の息子秀次を後継ぎと決め、関白にまで昇進させましたが、なんと秀頼が生まれたのですね。秀吉は実子秀頼を後継ぎにするために、それまで独裁体制だったのを、五大老、五奉行を設置して政務にあたらせるなどして政権維持の態勢を整え始めたのはいいのですが、乱行だのなんだのと秀次に罪を着せて出家させ、さらに切腹を命じ、おまけに秀次の大勢いた側室や子供たちをほぼ全員処刑するという暴挙に。その後、秀次に譲った聚楽第を破壊し、秀次の近江八幡山城も壊してしまったという、いったい秀次が何をしたのだというほどの異常さで秀次の痕跡を失くしたのでした。

歴史家は残されたあらゆる史料を検討してあれこれ理由をつけますが、生まれたばかりの秀頼と28歳で関白までにした秀次の年の差と、秀次が多くの子供を持っているとか、諸大名に大金を貸し付けているので今後影響力を持つ可能性、朝廷の公家たちとも懇意だったことなどを知れば知るほど、秀吉は自分の死後権力を持った秀次が秀頼をどうするかと、恐怖に似た不安がおそい、あれこれこじつけてでも消してしまいたかったのでしょう。数少ない身内をこうまでして抹殺するなんて、若い頃の秀吉らしさはすっかりなくなっていますね。

4、寧々は関が原合戦にも影響を与えた

寧々は秀吉の側室たちにも慕われていて、淀殿とも敵対するということはなく、秀頼の嫡母として扱われ、秀吉の死後も淀殿と連携して秀頼の養育にあたっていたということです。
秀吉の死後は大坂城を出て京都新屋敷に移り住み、秀吉の遺言だった、秀頼と徳川家康の孫千姫との祝言が行われた後、出家して尼になり高台院と名乗りました
前述のように秀吉の死後も影響力を持つ寧々は、関が原合戦の前に、福島正則ら子飼いの大名たちに東軍の徳川方に付くようにと根回しをしたように言われていますが、最近の研究では、側近に西軍の石田三成や大谷吉継の身内女性もいたということや、関が原合戦で西軍が敗退したと聞いたとき、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により准后・勧修寺晴子の屋敷にはだしで駆け込むという事件もあり、かなり身の危険を感じていたそうな。

ただ、甥の小早川秀秋は、寧々の意向だという福島正則らの進言もあり、西軍から東軍に寝返ったのでしたが。

\次のページで「5、大坂の陣で豊臣家が滅びるのも見届ける」を解説!/

5、大坂の陣で豊臣家が滅びるのも見届ける

正室の寧々と秀頼の母淀殿とは敵対していたようにいわれますが、連携があったという見方もあります。尾張出身の寧々を慕う尾張以来の加藤清正らと、浅井家の娘である淀殿を中心にした石田三成ら近江出身者らの対立があったことは間違いありません。しかし、どんな事態になっても秀頼を外に出すまいとした淀殿のことですから、寧々ともほとんど会わせなかったのではないでしょうか。
徳川方も京都の寧々が大坂城へ行かないよう監視していたということで、寧々は高台寺から動くことは出来ませんでした。後に、「大坂のことは何と言っていいかわからない」と手紙に書いていたということです。

6、再晩年は京都東山の高台寺で隠棲

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寧々は家康に頼んで高台寺を建ててもらい、隠居料も1万6,923石余りもらって秀吉や兄らの身内の菩提を弔いつつ静かに余生を送りました。尚、織田信長に仕えていた頃から親しかった前田利家の妻お松や、山之内一豊の妻らも夫の死後は京都に住んでいて交流があったということです。
いずれも夫の出世に貢献したことで歴史に残る賢婦人たち、さぞ話があったでしょう。堅苦しくなくおしゃべりできて、心休まる晩年が過ごせたはず。

寧々は、寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年は76歳、77歳、83歳などの諸説あり。

歴史の大舞台で存在感を発揮した数少ない女性の寧々

男尊女卑が激しいと思われた武士社会で、成り上がりナンバーワン、出世街道まっしぐらの秀吉の最大の助言者、協力者が糟糠の妻寧々であったことは間違いありません。
北政所は、本来は関白の妻をあらわす名称でしたが、寧々以降、北政所と言えば寧々をさすことになってしまったほど存在感を持った女性だったのです。
信長も認めたその器量の大きさ、前田利家から加藤清正、徳川秀忠に至るまでの寧々を慕ってのリスペクトぶり、秀吉が亡くなった後の大坂城からのいさぎよい去り際なども相まって、寧々について調べれば調べるほど好きになることでしょう。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

北政所寧々(ねね)を女性史に詳しい筆者がわかりやすく解説!秀吉を支えて天下統一に貢献した寧々の生涯を5分でまとめる

今回は豊臣秀吉の妻、寧々の登場です。秀吉は信長の草履取りから頭角をあらわして武将にとりたてられ、信長の死後は天下統一を果たした人です。だけど、秀吉だけが偉かったのじゃなくて、寧々と結婚したおかげだというくらい、寧々もすごい人だったという話なんです。日本史のなかでも女性史に詳しいライターのあんじぇりかと一緒に寧々さんについて解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は女性のあんじぇりかから見ても嫌味がなくて会ってみたいと思うほど魅力的な、北政所寧々(ねね)をご紹介。

北政所寧々(きたのまんどころ ねね)は、豊臣秀吉の糟糠の妻

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豊臣秀吉が織田信長に仕え出世し、ついには天下統一を成し遂げたのは、北政所寧々(ねね)がそばにいたからだと言っても過言ではありません。色々な交渉や人事について、秀吉のもっとも信頼できる相談相手であっただけでなく、秀吉が戦地へ赴いても留守を安心して任せておけるし、秀吉のカバーも出来るという、ある意味秀吉以上の器量と肝っ玉を持ち、人脈も持っていました。

北政所寧々(ねね)がいかに秀吉の天下統一の過程、統一後に重要な役割を果たしたかについて5分読めばわかるようまとめました。

1、北政所寧々(ねね)の生い立ちは

北政所寧々(ねね)は、尾張の国で、杉原定利と妻朝日殿の次女として生まれました。
生まれた年ははっきりせずに諸説あり。きょうだいは姉くま、兄木下家定、妹やや。 寧々とややは、母の妹である浅野長勝と七曲殿夫妻に子供がなかったために、浅野家の養女に。

1-1 北政所寧々(ねね)の名前について

昔の女性は普通は呼び名程度で、夫の出世と共に官位を授かれば正式名が出来て記録されるもの。夫の秀吉が関白になったとき、寧々も従三位、次いで従一位を授かり、吉子という名前を名乗りました。が、出生時につけられた名前、呼び名は、残っている寧々あての秀吉や他の人たちの手紙などをみると、おね、寧々などとあり、ね ではないかという説もあります。

しかしいくらなんでも、ね、はないでしょう。
私事ですが、大正生まれの「さよこ」という名前の女性が子供の頃、江戸末期生まれの祖父に「おさ、おさ」と呼ばれたと聞いたことがあります。今でも、えっちゃん、まーちゃんなど、名前の最初の一文字にちゃんをつけた呼び名は珍しくないですが、最初の一文字におを付けて呼ぶこともあったのでは。

寧々の妹はややなので、やはり寧々という名で、愛称としておねと呼ばれていた、と考えるのが自然ではないでしょうか

2、足軽時代の秀吉と結婚

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寧々の幼少時の話は伝わっておらず、藤吉郎と名乗った25歳の秀吉と結婚後、寧々の人生が始まったと言っていいでしょう。寧々は14歳だったと言われています。

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