
- 北政所寧々(きたのまんどころ ねね)は、豊臣秀吉の糟糠の妻
- 1、北政所寧々(ねね)の生い立ちは
- 1-1 北政所寧々(ねね)の名前について
- 2、足軽時代の秀吉と結婚
- 2-1、母の反対を押し切った恋愛結婚だった
- 2-2、親戚の子供たちを預かって養育、母代わりに
- 2-3、前田利家の妻お松とも仲良しだった
- 2-4、寧々は信長の覚えもめでたかった
- 2-5、秀吉との仲は良好
- 2-6、ルイス・フロイスは寧々を女王と表現
- 3、後継ぎがなく、一族にも人材恵まれず
- 3-1、秀吉の弟秀長は出来た人だった
- 3-2、姉の子秀次を後継ぎにしようとしたが、秀頼が生まれた
- 4、寧々は関が原合戦にも影響を与えた
- 5、大坂の陣で豊臣家が滅びるのも見届ける
- 6、再晩年は京都東山の高台寺で隠棲
- 歴史の大舞台で存在感を発揮した数少ない女性の寧々
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。今回は女性のあんじぇりかから見ても嫌味がなくて会ってみたいと思うほど魅力的な、北政所寧々(ねね)をご紹介。
北政所寧々(きたのまんどころ ねね)は、豊臣秀吉の糟糠の妻

豊臣秀吉が織田信長に仕え出世し、ついには天下統一を成し遂げたのは、北政所寧々(ねね)がそばにいたからだと言っても過言ではありません。色々な交渉や人事について、秀吉のもっとも信頼できる相談相手であっただけでなく、秀吉が戦地へ赴いても留守を安心して任せておけるし、秀吉のカバーも出来るという、ある意味秀吉以上の器量と肝っ玉を持ち、人脈も持っていました。
北政所寧々(ねね)がいかに秀吉の天下統一の過程、統一後に重要な役割を果たしたかについて5分読めばわかるようまとめました。
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1、北政所寧々(ねね)の生い立ちは
北政所寧々(ねね)は、尾張の国で、杉原定利と妻朝日殿の次女として生まれました。
生まれた年ははっきりせずに諸説あり。きょうだいは姉くま、兄木下家定、妹やや。 寧々とややは、母の妹である浅野長勝と七曲殿夫妻に子供がなかったために、浅野家の養女に。
1-1 北政所寧々(ねね)の名前について
昔の女性は普通は呼び名程度で、夫の出世と共に官位を授かれば正式名が出来て記録されるもの。夫の秀吉が関白になったとき、寧々も従三位、次いで従一位を授かり、吉子という名前を名乗りました。が、出生時につけられた名前、呼び名は、残っている寧々あての秀吉や他の人たちの手紙などをみると、おね、寧々などとあり、ね ではないかという説もあります。
しかしいくらなんでも、ね、はないでしょう。
私事ですが、大正生まれの「さよこ」という名前の女性が子供の頃、江戸末期生まれの祖父に「おさ、おさ」と呼ばれたと聞いたことがあります。今でも、えっちゃん、まーちゃんなど、名前の最初の一文字にちゃんをつけた呼び名は珍しくないですが、最初の一文字におを付けて呼ぶこともあったのでは。
寧々の妹はややなので、やはり寧々という名で、愛称としておねと呼ばれていた、と考えるのが自然ではないでしょうか。
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