

江戸っ子で龍馬の師匠として有名だが、咸臨丸でアメリカへ行ったんだよな。
その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、勝海舟は江戸の旗本御家人の生まれ
- 1-2、ユニークな父小吉
- 1-3、海舟の子供時代
- 1-4、海舟、島田虎之助に入門、蘭学も学ぶ
- 2-1、海舟、意見書が認められ役付きに
- 2-2、海舟、長崎伝習所に入門
- 2-3、海舟、島津斉彬に出会う
- 2-4、海舟、咸臨丸で渡米
- 2-5、海舟、海軍創設に奔走
- 2-6、海舟、坂本龍馬に出会う
- 2-7、海舟、神戸海軍操練所を設立
- 2-8、海舟、西郷隆盛と会う
- 2-9、第二次長州征伐と宮島談判の交渉は失敗に
- 3-1、海舟、江戸城無血開城の交渉役に
- 3-2、海舟の作戦とは
- 4-1、明治時代の海舟
- 4-2、海舟、徳川家の復興と幕臣たちの世話に奔走
- 4-3、西郷隆盛に同情、名誉回復にも奔走
- 4-4、晩年は回顧録の口述筆記を残す
- 幕臣ながら、幕府の枠を超えて新しい時代への転換期に役目を果たした勝海舟
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、勝海舟ついて5分でわかるようにまとめた。
1-1、勝海舟は江戸の旗本御家人の生まれ
By 不明。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link
勝海舟は、文政6年(1823年)に、江戸本所亀沢町で誕生。父は旗本小普請組(無役のこと)御家人で41石の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘の信、きょうだいは妹順子(佐久間象山と結婚)。幼名、通称は麟太郎(りんたろう)、諱は義邦 (よしくに)、明治維新後に改名して安芳(やすよし)。幕末に安房守(あわのかみ)を名乗り、勝安房(かつ あわ)として知られていたので維新後は同音で字の違う安芳に代えたそう。海舟は号で、義弟にあたる佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったそう。ここでは海舟で統一。
尚、徳川将軍直参家臣団のうち、将軍に直接謁見できる家格と石高を持ちお目見え以上を旗本といい、お目見え以下は御家人。
1-2、ユニークな父小吉
海舟の父勝小吉は幕末の剣客男谷信友(精一郎)の親戚。酒はあまり好まず、博打もしなかったが、吉原遊びをしたり、剣の腕も優れた喧嘩好きで世話好き、また道場破りをしたりと、何度も座敷牢に入れられた不良旗本で、まるで時代劇に出てくる用心棒とか浪人みたいな人だったそう。隠居後は夢酔(むすい)と号して「夢酔独言」という自伝を書いているのですが、無銭旅行で柄杓を一つ持って抜け参り(伊勢参り)をしたりという話が話し言葉で書かれていて、かなり面白い内容。
尚、小吉の甥の男谷精一郎信友は幕末の江戸で、力の斎藤、位の桃井、技の千葉と称された三大道場でも歯が立たないといわれた剣の達人ですが、小吉は片手で捻ったという話があり、侠客の新門辰五郎曰く「喧嘩で右に出る者なし」と。
勝家のルーツ
海舟の曽祖父銀一は、越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人で、江戸へ出て鍼医となり、また高利貸しで成功、巨万の富を得て、朝廷から目の不自由な人に賜る最高位の「検校」を金で買って「米山検校」を名乗った人。銀一は長男には水戸家の武士の株を買い与え、三男の平蔵に御家人男谷(おだに)家の株を買い与えて武士にしたということ。そして 銀一の孫で男谷平蔵の末子が海舟の父の小吉。小吉は庶子で3男だったので勝家に婿養子に行き、生まれたのが海舟。
1-3、海舟の子供時代
海舟は、6歳のときの文政12年(1829年)、男谷の親類で大奥に務める阿茶の局の紹介で、11代将軍家斉の孫で後の12代将軍家慶の5男の初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城に出仕。が、慶昌が天保9年(1838年)に早世。同年、海舟は父小吉の隠居で家督を相続。海舟は、父小吉の道楽のせいでお正月の餅にも事欠く貧窮生活を強いられたということ。
父の小吉著の「夢酔独言」には、「9歳になった息子が御殿から下って来たので、本の稽古に3つ目向こうの多羅尾七郎三郎と云う用人の処へ通わせていたが、ある日その途中の道で、病犬に出会って金玉を噛まれた」との記述があり、当時9歳の海舟は野良犬に襲われて重傷を負った話が。この事件で海舟は晩年まで犬が苦手だったそう。
1-4、海舟、島田虎之助に入門、蘭学も学ぶ
海舟は10代の頃、男谷一門の高弟である島田虎之助に入門、剣術と禅を学び直心影流剣術の免許皆伝に。そして16歳で家督を継いだ後、蘭学は、江戸の蘭学者箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、弘化2年(1845年)から永井青崖に学び、兵学は窪田清音の門下生の若山勿堂から山鹿流を習得。
海舟はこの頃に妻たみと結婚したためか、蘭学辞書「ドゥーフ・ハルマ」を1年かけて2部筆写、1部は自分のために、1部は売るためだった話は有名。そして蘭学者佐久間象山の知遇も得て、象山の勧めで西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開塾、時期は嘉永3年(1850年)とされているが不明。
2-1、海舟、意見書が認められ役付きに
嘉永6年(1853年)、海舟30歳のとき、ペリー艦隊が来航して開国を要求。幕府老中首座阿部正弘は海防に関する意見書を幕臣から諸大名、町人に至るまで広く募集、海舟も海防意見書を提出、この意見書は阿部の目に留まり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て、海舟は安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に。
2-2、海舟、長崎伝習所に入門
海舟は安政2年(1855年)1月から洋学所創設の下準備に取り掛かり、勘定奉行石河政平と大久保一翁が命じられた大阪湾検分調査に参加、7月29日に長崎海軍伝習所に入門。伝習所では海舟はオランダ語ができたため教監も兼ねて、伝習生とオランダ人教官カッテンディーケとの連絡役も。以後3年半に渡って勉強に取り組み、足掛け5年間を長崎で過ごしたが、海舟は船酔いの体質があり、特に数学が苦手で船乗りには向かなかったよう。
2-3、海舟、島津斉彬に出会う
安政5年(1858)3月、長崎海軍伝習所の教官カッティンディーケは、海舟や官軍伝習所練習生たちと練習艦咸臨丸で航海演習を兼ねて薩摩を訪問、島津斉彬は自ら咸臨丸に出向い海舟と面会、海舟と島津斉彬は開国や国防について語り合って意気投合し、斉彬は側近の西郷隆盛に「幕臣にも人あり」と語ったそう。この遠洋航海は薩摩から琉球に向かう予定が、島津斉彬が海舟に密貿易が幕府にばれると困ると琉球行きの中止を要請、海舟は天候悪化を理由に琉球行きを取り止めに。海舟も賢公斉彬の大きな影響を受けた一人ということに。
尚、この年の安政の大獄で、海舟の推薦者である大久保一翁が左遷されたものの、長崎の海舟には影響は無し。そして8月、外国奉行の永井尚志(なおゆき、または、なおむね)と水野忠徳(ただのり)が遣米使節を建言、海舟は永井と水野に手紙でアメリカ行きを希望して了解を得、安政6年(1859年)1月江戸に帰府、軍艦操練所教授方頭取となり海軍技術を教えることに。
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2-4、海舟、咸臨丸で渡米
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万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節をアメリカへ派遣。この計画は日米修好通商条約締結に関わった岩瀬忠震(ただなり)ら一橋派の幕臣の発案だったが、安政の大獄で左遷されたため、正使に新見正興、副使に村垣範正、目付に小栗忠順(ただまさ)らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で渡米。
咸臨丸(かんりんまる)は、ポーハタン号の護衛と言う名目で同行。品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日(新暦で3月17日)、閏3月19日(5月8日)にサンフランシスコを旅立ち、品川への帰着は5月6日、旅程は37日で全日数は140日。 咸臨丸には軍艦奉行木村喜毅、教授方頭取として海舟、教授方として佐々倉桐太郎、鈴藤勇次郎、小野友五郎などが乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が同乗。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉も。
咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃したが、実際は日本人乗組員は船酔いで役に立たず、ブルックらがいなければ航海は無理だった説もあるそうですが、帰路は日本人乗組員だけで無事に太平洋を横断して帰国。
アメリカ滞在中は他の日本人同様にカルチャーショックを受けた海舟ですが、船酔い体質のためずっと船室にこもっていたということで、また、正使の木村喜毅と徳川家の旗を掲げるか、木村の家紋を掲げるかでもめたり、木村喜毅の従者だった福沢諭吉との確執は明治になってからも続いたそう。
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2-5、海舟、海軍創設に奔走
海舟はアメリカから帰国後に蕃書調所頭取助に異動、文久元年(1861年)9月5日に講武所砲術師範となったが、老中安藤信正には海軍強化の提案もロシア軍艦対馬占領事件の献策も採用されず不満の日々。
文久2年(1862年)に老中の安藤信正らが失脚して松平春嶽、一橋慶喜ら一橋派が島津久光の台頭で復帰、その後の文久の改革で、海舟も7月5日に軍艦操練所頭取として海軍に復帰、閏8月17日に軍艦奉行並に就任。大久保一翁も7月4日に御側御用取次として復帰、海舟は一翁および春嶽とその顧問横井小楠らと手を組み、公議政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)の実現に向けて動き出すことに。
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2-6、海舟、坂本龍馬に出会う
後年の海舟の回顧談では、文久2年(1862年)12月頃、坂本龍馬が桶町千葉道場の千葉貞吉の長男千葉重太郎(じゅうたろう)と一緒に開国派の巨魁の海舟を斬りに来たが、海舟が会って話をすると、龍馬は感心して弟子入りしたという話。
海舟は龍馬の天性を見抜き、海軍の技術を教え、龍馬に、大久保一翁、横井小楠、松平春嶽、西郷隆盛などなど、色々な人に紹介して会いに行かせ、また土佐の前藩主容堂に龍馬の脱藩の罪を許す一筆を書いてもらったりと、龍馬が後に活躍するための素地を作ったのは海舟その人ということ。
司馬遼太郎著「竜馬がゆく」には、海舟が、「薩長連合、大政奉還、あれはみんな龍馬ひとりでやったことさ」という言葉が出てきますが、海舟は自身で動く以外にも、まるで妖精のように明治維新で仕事を成し遂げる西郷や龍馬らに必要な人脈や知識を与える役割を果たしたという文もあり、海舟の存在価値が明白に。
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おお、龍馬が日本第一の人物と言ったというんだろ、俺でも知ってるぞ。
2-7、海舟、神戸海軍操練所を設立
海舟は文久3年(1863年)4月23日に京都から大坂へ下った将軍家茂を順動丸に乗せて神戸まで航行し、天然の良港である神戸港を日本の欧米との貿易拠点にと提案、27日には神戸海軍操練所設立許可が下り、年3000両の援助金も約束されて、操練所とは別に海舟の私塾も許可。
そして私塾が先に始動し、塾頭の坂本龍馬を始めとする薩摩や土佐藩の脱藩者が塾生に。塾生には後に初代連合艦隊司令長官となり、日露戦争の黄海海戦で指揮をとった伊東 祐亨(ゆうこう)も。幕府からは製鉄所の設立も命じられ、勝の提案した海軍強化となりそうだったが、元治元年(1864年)に池田屋の変、その後の禁門の変に巻き込まれた塾生が数人いたせいもあり、慶応元年(1865年)に閉鎖。
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2-8、海舟、西郷隆盛と会う
海舟と西郷は、元治元年(1864年)9月11日に大坂で初会談、第一次長州征伐の幕軍の参謀だった西郷は盟友の大久保利通に手紙で「勝海舟は実に驚いた人物で、どれだけ知略があるのか底知れない英雄肌の人物」と賞賛したということ。海舟は元治元年(1864年)11月10日に軍艦奉行を罷免されて約2年の蟄居生活に。罷免の理由は、海舟の持論の諸侯と幕府の提携が権力強化を進めていた幕府に危険視されたこと、神戸の私塾で脱藩浪人を抱えていたことなどが理由。海舟は蟄居生活で多くの書物を読んだそう。
しかしじつは海舟と西郷は、この3年前の文久元年(1860年)6月に西郷の流刑地の大島に海舟が訪ねて行って会ったと、昭和になって海舟の従者だった人が語ったそう。このとき西郷は密貿易をしていて海舟にもそれを見せたため、海舟は従者に口止めし、維新後もこの話はしなかったそう。
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2-9、第二次長州征伐と宮島談判の交渉は失敗に
慶応2年(1866年)5月28日、海舟は長州藩と幕府の緊張関係が高まるなか軍艦奉行に復帰して大坂へ向かい、老中板倉勝静の命令で出兵を拒否した薩摩藩と会津藩の対立解消、および薩摩藩を出兵させる約束を取り付けようとしたが、失敗。
海舟は7月20日に家茂が死去後、宗家を継承し12月に将軍職も継承した慶喜に、8月に京都で第二次長州征討の停戦交渉を任され、単身宮島大願寺での談判に臨んで、長州藩の広沢真臣、井上馨らと交渉したが、幕府軍の敗色濃厚で交渉は難航、征長軍撤退の際は追撃しないという約束だけに終わったそう。海舟は長州側と再交渉の余地を残したつもりが、慶喜が停戦の勅命引き出しに成功して無駄になり、海舟は憤慨し御役御免を願い出て江戸に帰ったということ。しかし辞職は却下、軍艦奉行職のまま事務仕事に。
3-1、海舟、江戸城無血開城の交渉役に
By 江戸村のとくぞう – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link
慶応4年(1868年)、大政奉還後、鳥羽伏見の戦いが勃発し幕府軍が敗北、官軍の東征が開始。慶喜は徹底抗戦を主張する小栗忠順を1月14日に罷免、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬を江戸から追放。
海舟は、最後の陸軍総裁に起用、陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿いフランスとの関係を清算した後、会計総裁となった一翁らと共に朝廷と交渉することに。海舟は3月9日、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕され処刑寸前の薩摩の益満休之助を説得し案内役に、幕臣の山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせ、江戸城総攻撃予定の3月15日直前の13日と14日に海舟と西郷隆盛が会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行った結果、江戸城下の市街戦は回避。
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3-2、海舟の作戦とは
海舟は西郷との交渉に当たって、新政府側を援助していたイギリス公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせ、交渉が完全に決裂したときは、ナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年の戦術を参考に、江戸の民衆を千葉に避難させて空になった江戸へ新政府軍を誘い込み火を放ち、武器、兵糧を焼き払い、ゲリラ的掃討戦を仕掛け官軍を殲滅させる作戦の準備をして西郷に決断を迫ったという話。
海舟は、江戸火消し衆「を組」の長、侠客新門辰五郎に、大量の火薬を用意して市街地への放火を依頼、江戸市民の避難のため江戸と周辺地域の船を調達、避難民のための食料を確保という準備まで。また幕府の軍艦は、新政府軍の兵糧と退路を絶つため東京湾内に配置、東海道への艦砲射撃の準備、慶喜を横浜沖に停泊中のイギリス艦隊で亡命させる計画だったそう。ただし、以上の戦略については否定的な意見もあり、時間的に余裕がなかったとも。
海舟は榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対で、一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難だということと、内戦が長引けば、イギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で日本が2分される恐れがあったと考えていたそう。
ともあれ、海舟の交渉で徳川家は田安亀之助(後の徳川家達)が継承し、慶喜と幕臣たちは駿府藩として静岡に移住することに。

ほほう、やっぱり交渉事は色々な手を打ってから行うんだな。しかし実際に江戸の街を焼かれちゃたまらんぞ。
4-1、明治時代の海舟
海舟は、明治維新後も旧幕臣の代表格として、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を授爵。しかし明治政府での役職は辞退したり短期間務めて辞職、元老院議官を最後に公職には付かず。
4-2、海舟、徳川家の復興と幕臣たちの世話に奔走
海舟は徳川慶喜とは幕末の混乱期には何度も意見が対立、慶喜に嫌われていたのですが、慶喜の赦免に30年間尽力し、慶喜は明治2年9月28日に謹慎解除、明治31年(1898年)3月2日に明治天皇に拝謁を許されて公爵を授爵、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことに。また明治25年(1892年)海舟は長男小鹿が亡くなった後、友人の溝口勝如を通じて子沢山だった慶喜の末子精(くわし)を勝家の養嗣子に迎えて慶喜と和解。
海舟はまた、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による士族の混乱や反乱を最小限に抑える努力をし、明治13年(1880年)に徳川一族から積立金を集めて日光東照宮保存のための民間団体保晃会を設立(初代会長は日光宮司で会津元藩主松平容保)。
明治19年(1886年)、徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立。駿府藩から政府や諸藩に人材を送ったり、明治2年に精鋭隊長中条景昭らを金谷原へ移住させ茶畑開墾を奨励、静岡がお茶の名産地となる原動力を仕掛け、旧幕臣の前島密を駿府藩公用人に抜擢したりしたそう。
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4-3、西郷隆盛に同情、名誉回復にも奔走
海舟は、西郷隆盛が征韓論で下野した後も気にかけ、明治10年(1877年)に西南戦争が起こると、自宅を訪れたアーネスト・サトウに西郷軍への同情論を語ったということ。また、西南戦争後、西郷の名誉回復にも奔走し、明治天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援。しかし政府からの西郷との調停役依頼は断ったそう。
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4-4、晩年は回顧録の口述筆記を残す

晩年の海舟は、政府に対して不満は持っても意見書は藩閥協力を呼びかける程度で、民権運動には無関心。
そして政府から依頼されて資金援助を受け「吹塵録」(江戸時代の経済制度大綱)、「海軍歴史」「陸軍歴史」「開国起源」「氷川清話」などの執筆、口述、編纂に当たったということ。海舟は頭の切れる人だが大口を叩くところもあったので、その通り信用することはできないもの大変興味深い話が多いことは間違いないです。
明治32年(1899年)1月19日、脳溢血により意識不明となり、77歳で死去。
最期の言葉は「コレデオシマイ」。
幕臣ながら、幕府の枠を超えて新しい時代への転換期に役目を果たした勝海舟
海舟は、今に残る写真を見ても小柄でちょっと日本人離れした西洋顔、幕臣時代、非常に頭が切れるのに、相手の気持ちを考えずにずけずけ言うために敵も多く、慶喜にも嫌われたたものの、自分が見込んだ西郷や龍馬にはとことん親切で色々な情報や知識を伝え、しかも幕府が倒れた後の新しい世の中の青写真も持っていた数少ない人。
また、かなり長生きしたので、自分で回想録も書き、明治半ば以降に江戸時代や明治維新についての古老の聞き書きを残す作業が盛んになったときも協力し、江戸っ子口調でほら吹きと言われることもある独特の語り口で色々な言葉を残しました。
「竜馬がゆく」にある、「維新史を竜馬、西郷、木戸らの行動家の行動だけで理解するのは間違い、そこには常に勝の頭脳が存在」、「勝には妖精のにおいがして、いたずらっぽさ、底知れぬ知恵、幕臣を超越した発想力、しかも時流の脇にいながら、神だけが知っているはずの時流の転轍機がどこにあるかを知っているよう」という文が、海舟の明治維新での役目を如実に表しているのではないでしょうか。