
参勤交代の廃止の原因
1853年、ペリーの来航がきっかけで参勤交代は廃止に向かうことになります。徳川幕府は鎖国体制を200年以上続けていましたが、ペリーは圧倒的な武力を背景にして日本に開国を要求しました。この時、徳川幕府は鎖国体制を守るために1862年の文久の改革によって参勤交代の規制緩和を行います。
規制緩和の目的は日本全体における軍備増強で、上記で解説したとおり、参勤交代は各藩の財政を圧迫させて軍事力を整えることが不可能な状況にしていました。これによって各藩の力が低下して徳川家の勢力維持は安定しましたが、一方で日本全体としての軍事力は低下してしまったのです。
欧米の圧倒的な武力に対抗するには、各藩を強化して日本全体の武力を高める必要がありますから、その意味で参勤交代が妨げになると判断しました。そこで参勤交代の頻度を三年に一度へと緩和しましたが、正妻と嫡子も藩元へ帰ることが可能になったため、結果的に徳川家……つまり幕府の権威は下がってしまったのです。
大政奉還による参勤交代の廃止
参勤交代が廃止されたのは、そもそもの政権が幕府から明治政府にうつったためです。1867年、江戸幕府の15代将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還を行って明治政府へ政権を返上しました。これに伴い、徳川家が制度化した参勤交代も廃止されたのです。
大政奉還の後、日本では旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が勃発します。この戦争で旧幕府軍は敗北し、長く続いていた幕府体制は終焉を迎えたのでした。以後、明治政府が政権を握ることで日本の政治体制は大きく変化します。
土地や戸籍を天皇に返上する版籍奉還、藩を廃止する廃藩置県、米にかわって土地を税金の要とする地租改正……これらの政治政策が次々と打ち出されていきました。参勤交代は江戸時代の終わりとともに姿と消したのです。
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参勤交代の制度の説明と目的は必ず覚えておこう
参勤交代で覚えるべきポイントは、制度の説明と目的です。そこでこれらをまとめると、参勤交代とは日本全国の藩主が一年ごとに江戸と藩元を行き来する制度で、その目的は各藩の財政圧迫と大名の忠誠心の確認になります。
ではなぜ財政圧迫や大名の忠誠心を確認する必要があったのか……それは徳川家の支配体制をより強固なものへとするためです。また参勤交代は参勤交替と書くこともありますが、これはどちらも正しいと扱われていますよ。