
参勤交代の目的1. 将軍と大名の主従関係の確立
参勤交代を制度化した目的は主に二つです。一つは将軍と大名の主従関係を確立させるためで、参勤交代によって将軍に対する大名の忠誠心を確認するのが最大の目的だったとされています。これはよく考えると、もちろん制度化されていないものの現代の日本でも似た風習がありますね。
お世話になっている人の元へはたびたび顔を出しますし、そうしなければお互いの関係が薄れていってしまうでしょう。将軍と大名には絶対的な主従関係が必要ですから、徳川家光はそれを確かなものとするために参勤交代を制度化したのです。
また、当時は各諸侯が独自の軍事力や領内の政治においてある程度の主導権を握っており、封建制社会の中心となっていた徳川家にとってそれは警戒すべき状況だったに違いありません。このため、徳川家は参勤交代を制度化することでより強固な支配体制を実現しようとも考えたのです。
参勤交代の目的2. 財政の圧迫によって謀反を抑制
参勤交代による行き来で発生する費用は莫大なものとなりますが、これは全て藩の自己負担になっています。当然江戸から距離が離れている藩ほど費用は高くなり、藩主にとって参勤交代は辛い制度となりました。
そして、参勤交代は各藩の財政を圧迫することになりますが、それが参勤交代を制度化した目的の一つでもあるのです。と言うのも、藩の財政が圧迫すればその藩は充分な資金を確保できず、軍事力を高められないために謀反を起こせなくなりますからね。
つまり、参勤交代の二つ目の目的は各藩が徳川家に謀反を起こすだけの軍事力を高めるのを防ぐためです。最も、参勤交代によって確かに各藩の財政は圧迫されましたが、日本全体の経済面において一部プラス効果をもたらす結果にもなりました。
参勤交代のための準備
加賀藩の家老、横山政寛(よこやままさひろ)は御道中日記を書き残しましたが、その中で参勤交代について詳しく表記されています。まず参勤交代が行われるのは毎年四月のことで、そのために半年以上も前から準備が行われていたようです。
参勤交代のためにかかる莫大な費用……つまり予算の調達を行い、他の藩の大名と重複のないように宿を取らなければなりません。また、宿の重複だけでなく他の大名行列とのすれ違いもできるだけ避ける必要があったのです。さらに参勤交代の期日は厳守であったため、幕府に届け出を出した期日までの江戸への到着が不可欠でした。
仮に到着が遅れてしまった場合は藩が莫大な金額の損失を被ることになり、損失の金額はたった一日の遅れで現代にして数千万円から数億円相当だとされています。このため、橋や道の整備が整っていない場所についてはあらかじめ橋や道路を建設するなど入念に準備を行っていました。
参勤交代の大名行列による出発
参勤交代は江戸に到着して終了ではありません。確かに長い旅は一旦区切りがつきますが、その後の期間中は江戸での滞在が待っているのです。このため出発にあたって生活に不自由がないよう、医師や茶の湯の家元までもが参勤交代に参加しました。
ですから参勤交代に参加する人数は必然的に多くなり、藩によっては最大で四千人に到達したとされています。これがいわゆる大名行列と呼ばれるもので、圧巻で格式を感じるその大名行列は多くの農民が見物に訪れるほどのものでした。
旅の途中では自国の領地外を通過しますが、この時争いが起こるようなことはなかったようです。むしろ通行される側の大名は使者を遣わせて贈り物を差し出し、また通行する側の大名もその使者に返礼の品を贈るなど、お互い気を遣っていたことが伺えます。
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