今日は参勤交代について勉強します。江戸幕府の歴史を学ぶ時に必ず登場するのが参勤交代で、歴史に自信がなくてもこの言葉を知っている人は多いでしょう。

つまり参勤交代はそれくらい有名であり、絶対に知っておかなければならないぞ!制定された時代、内容、目的……覚えるべきことは多々ありますが、例を交えながら分かりやすく説明していくから安心してくれ。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から参勤交代をわかりやすくまとめた。

参勤交代の大まかな内容

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参勤交代とはどんな制度なのか

参勤交代とは一年ごとに江戸と藩元を行き来する制度で、対象となったのは日本全国の藩主です。江戸に赴いてからの期間中は江戸の藩邸で暮らすことになりますが、藩主の妻や子供はその藩邸に置かれており、これは事実上人質の意味合いを持っています。

また、参勤交代は江戸時代に制定されたものですが、歴史を辿ると制定以前にも似たような風習を聞いたことがある人かもしれません。と言うのも、そもそも参勤交代は過去の風習を制度化したものであり、制度の原型も豊臣秀吉が戦国大名の妻子を大阪に住まわせたことが由来になっているからです。

ちなみに参勤交代の「参勤」とは江戸に赴く旅、「交代」とは藩元に戻る旅のことを意味します。参勤交代は「藩主が一年ごとに江戸と藩元を行き来する」と一言で説明できるため、制度の内容を覚えるのは簡単でしょう。しかし、参勤交代の目的や制度がもたらした影響は少々分かりづらいため、このあたりはまた後で分かりやすく解説していきますね。

参勤交代と武家諸法度

参勤交代は1635年に武家諸法度で制度化されましたが、少し紛らわしいのは武家諸法度が1635年に制定されたわけではないということです。武家諸法度は江戸時代に江戸幕府が諸大名を統制する目的で制定したもので、1615年に徳川家康によって制定され、年号を取って元和令とも呼ばれました。

ただ、この武家諸法度はたびたび改定されており、1635年の参勤交代もまた武家諸法度の改定によって制度化されたものなのです。つまり参勤交代は「1635年の武家諸法度の制定によって制度化された」ではなく、「1635年の武家諸法度の改定によって制度化された」が正しい表現になります。

また、武家諸法度を制定したのは徳川家康ですが、武家諸法度を改定して参勤交代を制度化したのは徳川家光(とくがわいえみつ)です。現代の日本の法律はたびたび改定されますが、武家諸法度も同様に改定を繰り返しており、その改定によって参勤交代が制度化されたのだと覚えておきましょう。

参勤交代を制度化した目的

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参勤交代の目的1. 将軍と大名の主従関係の確立

参勤交代を制度化した目的は主に二つです。一つは将軍と大名の主従関係を確立させるためで、参勤交代によって将軍に対する大名の忠誠心を確認するのが最大の目的だったとされています。これはよく考えると、もちろん制度化されていないものの現代の日本でも似た風習がありますね。

お世話になっている人の元へはたびたび顔を出しますし、そうしなければお互いの関係が薄れていってしまうでしょう。将軍と大名には絶対的な主従関係が必要ですから、徳川家光はそれを確かなものとするために参勤交代を制度化したのです。

また、当時は各諸侯が独自の軍事力や領内の政治においてある程度の主導権を握っており、封建制社会の中心となっていた徳川家にとってそれは警戒すべき状況だったに違いありません。このため、徳川家は参勤交代を制度化することでより強固な支配体制を実現しようとも考えたのです。

参勤交代の目的2. 財政の圧迫によって謀反を抑制

参勤交代による行き来で発生する費用は莫大なものとなりますが、これは全て藩の自己負担になっています。当然江戸から距離が離れている藩ほど費用は高くなり、藩主にとって参勤交代は辛い制度となりました。

そして、参勤交代は各藩の財政を圧迫することになりますが、それが参勤交代を制度化した目的の一つでもあるのです。と言うのも、藩の財政が圧迫すればその藩は充分な資金を確保できず、軍事力を高められないために謀反を起こせなくなりますからね。

つまり、参勤交代の二つ目の目的は各藩が徳川家に謀反を起こすだけの軍事力を高めるのを防ぐためです。最も、参勤交代によって確かに各藩の財政は圧迫されましたが、日本全体の経済面において一部プラス効果をもたらす結果にもなりました。

参勤交代の大まかな流れ

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参勤交代のための準備

加賀藩の家老、横山政寛(よこやままさひろ)は御道中日記を書き残しましたが、その中で参勤交代について詳しく表記されています。まず参勤交代が行われるのは毎年四月のことで、そのために半年以上も前から準備が行われていたようです。

参勤交代のためにかかる莫大な費用……つまり予算の調達を行い、他の藩の大名と重複のないように宿を取らなければなりません。また、宿の重複だけでなく他の大名行列とのすれ違いもできるだけ避ける必要があったのです。さらに参勤交代の期日は厳守であったため、幕府に届け出を出した期日までの江戸への到着が不可欠でした。

仮に到着が遅れてしまった場合は藩が莫大な金額の損失を被ることになり、損失の金額はたった一日の遅れで現代にして数千万円から数億円相当だとされています。このため、橋や道の整備が整っていない場所についてはあらかじめ橋や道路を建設するなど入念に準備を行っていました。

参勤交代の大名行列による出発

参勤交代は江戸に到着して終了ではありません。確かに長い旅は一旦区切りがつきますが、その後の期間中は江戸での滞在が待っているのです。このため出発にあたって生活に不自由がないよう、医師や茶の湯の家元までもが参勤交代に参加しました。

ですから参勤交代に参加する人数は必然的に多くなり、藩によっては最大で四千人に到達したとされています。これがいわゆる大名行列と呼ばれるもので、圧巻で格式を感じるその大名行列は多くの農民が見物に訪れるほどのものでした。

旅の途中では自国の領地外を通過しますが、この時争いが起こるようなことはなかったようです。むしろ通行される側の大名は使者を遣わせて贈り物を差し出し、また通行する側の大名もその使者に返礼の品を贈るなど、お互い気を遣っていたことが伺えます。

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参勤交代が与えた影響

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参勤交代の影響1. 街道の整備

現代のように車や飛行機での移動手段はなく、参勤交代は徒歩による長旅となりました。天候や自然災害などで旅が困難になった時でも国元から江戸に期日までの到着が必須であり、そのため街道の整備が行われ、橋や道路が建設されていったのです。

そもそも当時は参勤交代のような長旅を想定していなかったためか、交通のインフラが整っていない状況でした。川を渡ろうにも橋がなく、橋を渡ろうにも橋が遠く、道を歩こうにも道と言える道がない状況だったのです。

このため、参勤交代をきっかけとして日本全体のインフラ設備が少しずつ整えられていきました。また、こうした道路整備の改革と整備は関ヶ原の戦い後の徳川家康も積極的に取り組んでおり、今でも中山道、東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道は有名ですね。

参勤交代の影響2. 経済と文化の発展

参勤交代は藩の財政を圧迫させたものの、一方で日本全体に大きな経済効果をもたらしました。まず街道を整備するのに費用がかかりますし、その道中には多くの宿屋も誕生したのです。それも参勤交代の長旅は数百人から数千人規模の大名行列ですから、宿泊費も相当な額になったことでしょう。

ちなみに、浮世絵師の歌川広重の作品には傑作と呼ばれる「東海道五十三次」がありますが、これは文字どおり東海道にある五十三の宿場町を描いたものです。さらに参勤交代では藩主は藩元……つまり国元と江戸の両方に住む必要があるため、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費がかかるようになりました。

また、遊郭も参勤交代によって繁栄した文化の一つです。各藩の家臣の多くは参勤交代で江戸に単身赴任していましたから、江戸の人口の約半数が武士という状況になり、そのため遊郭が繁栄する結果になりました。

参勤交代の制度廃止へ

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\次のページで「参勤交代の廃止の原因」を解説!/

参勤交代の廃止の原因

1853年、ペリーの来航がきっかけで参勤交代は廃止に向かうことになります。徳川幕府は鎖国体制を200年以上続けていましたが、ペリーは圧倒的な武力を背景にして日本に開国を要求しました。この時、徳川幕府は鎖国体制を守るために1862年の文久の改革によって参勤交代の規制緩和を行います。

規制緩和の目的は日本全体における軍備増強で、上記で解説したとおり、参勤交代は各藩の財政を圧迫させて軍事力を整えることが不可能な状況にしていました。これによって各藩の力が低下して徳川家の勢力維持は安定しましたが、一方で日本全体としての軍事力は低下してしまったのです。

欧米の圧倒的な武力に対抗するには、各藩を強化して日本全体の武力を高める必要がありますから、その意味で参勤交代が妨げになると判断しました。そこで参勤交代の頻度を三年に一度へと緩和しましたが、正妻と嫡子も藩元へ帰ることが可能になったため、結果的に徳川家……つまり幕府の権威は下がってしまったのです。

大政奉還による参勤交代の廃止

参勤交代が廃止されたのは、そもそもの政権が幕府から明治政府にうつったためです。1867年、江戸幕府の15代将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還を行って明治政府へ政権を返上しました。これに伴い、徳川家が制度化した参勤交代も廃止されたのです。

大政奉還の後、日本では旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が勃発します。この戦争で旧幕府軍は敗北し、長く続いていた幕府体制は終焉を迎えたのでした。以後、明治政府が政権を握ることで日本の政治体制は大きく変化します。

土地や戸籍を天皇に返上する版籍奉還、藩を廃止する廃藩置県、米にかわって土地を税金の要とする地租改正……これらの政治政策が次々と打ち出されていきました。参勤交代は江戸時代の終わりとともに姿と消したのです。

参勤交代の制度の説明と目的は必ず覚えておこう

参勤交代で覚えるべきポイントは、制度の説明と目的です。そこでこれらをまとめると、参勤交代とは日本全国の藩主が一年ごとに江戸と藩元を行き来する制度で、その目的は各藩の財政圧迫と大名の忠誠心の確認になります。

ではなぜ財政圧迫や大名の忠誠心を確認する必要があったのか……それは徳川家の支配体制をより強固なものへとするためです。また参勤交代は参勤交替と書くこともありますが、これはどちらも正しいと扱われていますよ。

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日本史歴史江戸時代

江戸の歴史を学ぶなら必須「参勤交代」を元塾講師が分かりやすくわかりやすく解説!

今日は参勤交代について勉強します。江戸幕府の歴史を学ぶ時に必ず登場するのが参勤交代で、歴史に自信がなくてもこの言葉を知っている人は多いでしょう。

つまり参勤交代はそれくらい有名であり、絶対に知っておかなければならないぞ!制定された時代、内容、目的……覚えるべきことは多々ありますが、例を交えながら分かりやすく説明していくから安心してくれ。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から参勤交代をわかりやすくまとめた。

参勤交代の大まかな内容

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参勤交代とはどんな制度なのか

参勤交代とは一年ごとに江戸と藩元を行き来する制度で、対象となったのは日本全国の藩主です。江戸に赴いてからの期間中は江戸の藩邸で暮らすことになりますが、藩主の妻や子供はその藩邸に置かれており、これは事実上人質の意味合いを持っています。

また、参勤交代は江戸時代に制定されたものですが、歴史を辿ると制定以前にも似たような風習を聞いたことがある人かもしれません。と言うのも、そもそも参勤交代は過去の風習を制度化したものであり、制度の原型も豊臣秀吉が戦国大名の妻子を大阪に住まわせたことが由来になっているからです。

ちなみに参勤交代の「参勤」とは江戸に赴く旅、「交代」とは藩元に戻る旅のことを意味します。参勤交代は「藩主が一年ごとに江戸と藩元を行き来する」と一言で説明できるため、制度の内容を覚えるのは簡単でしょう。しかし、参勤交代の目的や制度がもたらした影響は少々分かりづらいため、このあたりはまた後で分かりやすく解説していきますね。

参勤交代と武家諸法度

参勤交代は1635年に武家諸法度で制度化されましたが、少し紛らわしいのは武家諸法度が1635年に制定されたわけではないということです。武家諸法度は江戸時代に江戸幕府が諸大名を統制する目的で制定したもので、1615年に徳川家康によって制定され、年号を取って元和令とも呼ばれました。

ただ、この武家諸法度はたびたび改定されており、1635年の参勤交代もまた武家諸法度の改定によって制度化されたものなのです。つまり参勤交代は「1635年の武家諸法度の制定によって制度化された」ではなく、「1635年の武家諸法度の改定によって制度化された」が正しい表現になります。

また、武家諸法度を制定したのは徳川家康ですが、武家諸法度を改定して参勤交代を制度化したのは徳川家光(とくがわいえみつ)です。現代の日本の法律はたびたび改定されますが、武家諸法度も同様に改定を繰り返しており、その改定によって参勤交代が制度化されたのだと覚えておきましょう。

参勤交代を制度化した目的

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