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大政奉還実現に一翼担った「後藤象二郎」この土佐藩士について歴女がわかりやすく解説

今回は後藤象二郎を取り上げるぞ。

幕末の土佐藩士ですが、どんな働きをしたのかな。

その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、後藤象二郎ついて5分でわかるようにまとめた。

1-1、後藤象二郎は土佐の上士の生まれ

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By published by 東洋文化協會 (Tōyō Bunka Kyōkai) – The Japanese book 『幕末・明治・大正 回顧八十年史』 (Bakumatsu, Meiji, Taishō: Kaiko Hachijūnenn Shi), パブリック・ドメイン, Link

後藤象二郎(しょうじろう)は天保9年3月19日(1838年4月13日)馬廻格150石の土佐藩士後藤正晴の長男として高知城下片町で誕生。少年期に父が亡くなり、義理の叔父の吉田東洋の元で育てられ、東洋が開いた少林塾で学んだということ。幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗。

象二郎の名乗りは、容堂の「吉田東洋に象(かたど)れ」との言に基づいてのことだそう。

1-2、象二郎の子供時代

象二郎は乾退助(後の板垣退助)と幼馴染で、互いに「いのす」(猪之助、板垣のこと)「やす」(保弥太、後藤のこと)と呼び合う仲。そして喧嘩をしたときは、象二郎が蛇を苦手だと知っていた退助は、決まって蛇を持ち出して後藤を退散させ、象二郎は象二郎で潔癖症の退助に雲古を投げつけたという話も。

また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学んだとか、相撲が大好きで、役人になってからも顔を隠して相撲大会に参加したとか、独自に開発したトレーニングで鍛えていたほどだという説も。

1-3、象二郎、叔父の後押しで藩の役人に

image by PIXTA / 47916378

安政5年(1858年)、20歳のとき、叔父で執政の東洋の推挙で幡多郡奉行に。万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行に就任。翌年、御近習目付となるが、2年(1862年)に東洋が暗殺されると解任。文久3年(1863年)に勉学のため江戸に出て、開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士高橋金兵衛に航海術を学んだということ。

1-4、大観察として叔父東洋暗殺犯を取り調べ

象二郎は元治元年(1864年)に藩政に復帰。事実上藩政を執っていた前藩主山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就任。公武合体派の急先鋒で、慶応元年(1865年)閏5月11日、大監察として叔父吉田東洋の暗殺の疑いが持たれていた、武市半平太瑞山ら土佐勤王等の面々の調べに成果を上げて、武市らの断罪を行ったことは有名

1-5、象二郎、開成館を創立

象二郎は、吉田東洋が暗殺された後、その経済政策を受け継ぎ、山内容堂の強力な支援の元に土佐藩の産業を活発にし、 殖産興業や西洋風の科学教育振興のための総合的施設「開成館」を創立。経営にあたっては、保守派の反対をおしきって斬新な施策や事業を推進し、人材も登用。

1-6、象二郎、岩崎弥太郎を登用

岩崎彌太郎
By 不明不明, パブリック・ドメイン, Link

象二郎は、物産の販売や対外貿易のための「土佐商会」(開成館の長崎出張所)の主任に岩崎弥太郎を登用。弥太郎は叔父吉田東洋の塾で学んだ有能な人物だが、郷士よりもさらに身分の低い地下浪人。この頃は土佐藩も能力重視で人材登用するようになったとはいえ、かなり画期的なことだったそう。

2-1、象二郎、坂本龍馬と会見

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By 不明または上野彦馬写真館にて撮影。福井で撮影されたとの説もある。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

象二郎は慶応2年(1866年)、藩命によって薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究、長崎で土佐藩士溝淵広之丞を仲介にして坂本龍馬を酒席に招待、その後深く交わるように。

象二郎は、藩の参政も兼ねた土佐商会のボスだったのですが、長崎で坂本龍馬と会見した後、海援隊の資金援助なども行うように。尚、龍馬の方は象二郎が盟友の武市半平太の処刑に関わった仇のような存在として、故郷の乙女姉さんをはじめ、海援隊の同僚からも、後藤象二郎なんかと会うなんて裏切り者と、避難ごうごうだったということ。

象二郎のほうも、山内侍、掛川衆といわれる土佐藩山内家の上士の出身なので、郷士出身の坂本龍馬とは身分的に相容れないはずなのですが、龍馬は志士として名を成していること、時代の流れもあり、土佐藩の将来を考えるためにも坂本龍馬抜きではやっていけなかったよう。

象二郎と龍馬は会談で意気投合、その後は頻繁に会うようになり、3か月後に坂本龍馬の脱藩を免じて藩の機関として海援隊の隊長として龍馬を任命

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