世界遺産に登録されている施設が世界には約千件の登録がされているようです。

当然ながら日本も多数の世界遺産が存在しているようですが、今回紹介するフランスは五位と約四十件も美しい歴史的建造物がある。

数ある中で、観光スポットとしても人気の高い修道院施設のモンサンミッシェルを歴史マニアでもあるライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

国内の歴史だけでなく、国外の歴史にも興味がある。特にフランスは行ってみたい国の一位でもあり、モンサンミッシェルにいつか必ず足を運んでみたい。

モンサンミッシェルの始まり

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大規模な修道院施設の始まりから見ていきましょう。

大天使からのお告げ

五世紀に設立されたアヴランシュ司教のオベールによって作られました。アヴランシュはケルト人の一部部族から由来したといわれラテン語が用いられていたようです。アヴランシュを直訳すると河口に住む戦士と訳され主にヴァイキングの襲来から身を守っていました。

またオベールがある時、夢を見ていた際に大天使ミカエルからのお告げで岩山に聖堂を建てよと受けたが悪魔のお告げだと思い込み当初は信じなかったようです。ところが三度目のお告げ時に、夢から覚めると頭に穴が開いていたことでお告げが本当であると気づき建築に取り掛かりました。

十世紀頃に現在地のフランスの西海岸に位置した場所に移動したとされ、リシャール一世にベネディクト会の修道院を建てて現在に近い形になります。

王位継承権を巡る戦いの舞台となる

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十四世紀から十五世紀にかけてフランス王国の王位継承と領土争いによって、フランス王朝内が二つに分かれて戦いが発生しました。当初はフランスの王位継承をしたフィリップ六世を認め臣従していたイギリス国王のエドワード三世が、スコットランド王がフランスの下へ亡命しこれをフィリップ六世は受け入れます。

亡命を受け入れたことに賛成できていなかったエドワード三世は、フランス王位継承権を再び主張し始めフィリップ六世に敵対していきました。この戦いによってイギリスとフランスの間にあったモンサンミッシェルが封鎖され、要塞として利用されていたようです。

島に渡るために干潮時に現れる道を辿っていくしかなかったことで、大きな被害を受けることなくモンサンミッシェルは乗り切りました。

百年戦争終結

長きに渡って行われた百年戦争は、フランス側の統一したことで勝利したことになりました。勝利に貢献したヴァロワ王朝のルイ十一世が大天使ミカエルを称えたことで人々の崇拝意識が高まり多くの人達がモンサンミッシェルを訪れるようになっていきます。

多数の人が訪れるようになってきましたが、交通手段が限られていたためモンサンミッシェルへ向かう道中で盗賊と遭遇し病によって倒れてしまいました。やっとたどり着いたとしても、道は干潮時にしか渡ること出来なかったことでモンサンミッシェル前で足踏みしてしまったようです。

当時は干潮と満潮の時間を図る術もありません。渡っている最中に満潮となり命を落としてしまった人も多くいました。

\次のページで「モンサンミッシェルの構造と地形」を解説!/

モンサンミッシェルの構造と地形

歴史的な建造物ということで、建築方法や内部の様子やモンサンミッシェル一帯の様子を見ていきましょう。

中世の建築物

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建物はゴシック様式ともゴシック建築とも呼ばれた建築様式で主に十二世紀から用いられたフランスを発祥としたものでした。主要部がゴシック建築で作られていましたが、教会堂に関してはカロリング朝時代のもので設計され建築されております。

入り口から主祭壇に向かうまでの身廊をノルマン様式で、百年戦争で破壊されてしまった内陣を西ヨーロッパで栄えた洋式からフランボワイヤン様式のゴシックスタイルで再建されました。特に内陣部分は光に照らされた光景はとても神秘的で目を奪われてしまい心が穏やかになることでしょう。

ゴシック建築

ゴシックの呼称は罵ったりする意味合い。何故ゴシックが罵りになった理由は十五世紀から十六世紀の間にイタリアの建築家が中世の芸術を野蛮な物として扱ったことから由来。野蛮な物といわれながらも、伝統として残され続け近代文化が発展し始めていた十八世紀に力学的観点で評価が高まり多数の政治家や作家からも注目されたことで賞賛を受けました。

モンサンミッシェル以外には、ノートルダム大聖堂やシャルトル大聖堂もゴシック様式を用いて作られています。装飾することにも意味があり中世の人達からすると、美は神の創造と同じであると考え神への奉仕であると捉えていました。

修道院の内部

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修道院の入り口だった哨兵の間は、巡礼する者達は必ずここから通り武器などをここに置いて中に入っていきましたが高位な者は武器を置かずに入ることが許されていたようです。そして九十段と長い大階段を上り終えると回廊に出ることができ百三十七本の柱で支えられた美しい緑に覆われた中庭が作られていて修道士達の瞑想場所でした。

食堂は今の様に賑やかに食事する場所ではなかったようで、話すことが禁じされていたためジェスチャー方式で語り合っていたようです。また食堂下には迎賓の間があり綺麗に位置した列柱が建てられてイノシシやシカなどの肉を焼くために煙突が設置しフランス王などの身分が高い人達を数多くもてなした場所でした。

特徴的な地形

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サン・マロ湾に浮かぶ島であり、周囲は九百メートルで全高は八十メートルしかない孤立した島だったモンサンミッシェル。ヨーロッパ地域でもこの場所は、満潮と干潮が特に激しく満潮になった時には湾に浮かんでいたような島でもありました。

1877年に島との間に道路工事が行われ地続きとなり、満潮と干潮を気にすることなく行き来することが可能になります。しかし今までのような景観が見ることが出来なくなってしまい、近年になってから地続きの場所を壊し橋を開通されました。これによって以前のような光景を取り戻し西洋の脅威とも呼ばれた存在に戻っていきます。

\次のページで「世界遺産登録」を解説!/

世界遺産登録

西洋の脅威といわれたモンサンミッシェルは、フランスの代表的な観光名所として世界遺産へ登録されていきます。

登録基準

十項目の中で最低一つは該当していないと世界遺産に登録されません。文化遺産の場合は一から四の中で一つ、自然遺産は五から十の中で一つ満たしたうえで審査し決定されます。

一:人類の創造的な才能を表す傑作。

二:建築・科学技術・記念碑・都市計画・景観設計に重大な影響を与え、価値観の交流又は文化圏内での価値観の交流を示すもの

三:現存・消滅しているにかかわらず、文化的な伝統又は文明の存在を伝承する物証として唯一無二の存在。

四:歴史上の重要な段階を物語る複合建築物・集合体・科学技術の集合体又は景観を代表する見本。

五:ある一つの文化又は複合文化を特徴づけるような伝統的な居住若しくは陸・海の土地形態を利用した見本。人類と環境とのふれあいを代表するもの。

六:普遍的価値を有する出来事や生きた伝統・思想・信仰・芸術作品と文学的作品と関連があるもの。

七:最上級の自然現象と類なまれる自然美や美術的価値を有する地域を包含。

八:生命進化の記録及び地形形成における重要な地質学的な過程などの地球の歴史で重要な段階を代表する見本。

九:海洋生物の生態系や動植物群衆の進化などの発展において重要な進行中の生態学的過程や生物学的な過程を代表する見本。

十:学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅の恐れのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然生息地を包含する。

登録された理由

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建築されてから、戦いの舞台になっていても小規模の損害で済んだおかげ現在まであまり形を変えることなく残されました。一時的な工事によって外観が損なわれたり周辺の海抜が上昇したことがありましたが、自然界によって作られた景観の美しさと多様な建築様式で施工されたことが登録された理由だと思います。

世界遺産に登録された1979年から観光客数は増加していき、今では年間で約三百万人もの人達が観光に訪れるフランス随一の名所となりました。

スポーツの開催場所にもなっている

世界遺産に登録された場所でスポーツが開催されることはあまりありませんが、モンサンミッシェルでは二つのスポーツがここからスタートしていた種目がありました。

ツールド・フランス

ヨーロッパ地域では、世界三大スポーツの一つとして数えられているロードレースが非常に人気で観戦するために多くの人が沿道に集まってきます。その中でもひと際人気とされているのがツールド・フランス。二十三日間でフランスを含むイギリスやイタリアなどを舞台としたロードレースです。

1990年7月に初めてモンサンミッシェルを舞台にしてレースが行われ、正確な記録は残れされていないですが数多くのファンや観戦者が集ったことでしょう。2013年には開幕地として選ばれ第一ステージをモンサンミッシェルから開始されました。

モンサンミッシェルマラソン

東京オリンピックが近づき、人気が一層高まりつつあるマラソンもモンサンミッシェルにて行われている大会があります。フランス国内で五番目に大きな大会でありエントリー数は毎年五千人までとなり国内だけでなく世界各国から多数の人がエントリーする規模の大きい大会。

ブルターニュ地方から開始してフランス西海岸沿いを走り抜けていき最後にモンサンミッシェルへゴールしていきます。日本国内からもツアーで行くことが可能で、日本語やフランス語の通訳が出来る人と同行してくれるので一人旅でも行きやすいのでマラソン好きな方で海外で走ってみたいと思っている方は是非挑戦してみましょう。

\次のページで「モンサンミッシェル見どころ」を解説!/

モンサンミッシェル見どころ

モンサンミッシェルの見どころを見ていきましょう。

営業時間

時期によって営業時間が異なっているので、観光する際は注意しましょう。5月から8月は九時から十九時までで9月から4月は九時半から十八時までとなっております。入場料は基本十ユーロですが、11月から3月の第一月曜日は無料と十八歳以下も無料となっており日本語ガイドとも同行することが可能。

やはりその土地の歴史を知るには、見るだけでは分からない部分も多いと思いますのでガイドの方からお話を聞いた方がネットなどで見ている以上の情報や知識を深めることができるでしょう。

景色を楽しむ

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昼間の満潮と干潮だけでも素晴らしい景色となるモンサンミッシェルですが、早朝と夜にも息を吞むほど綺麗な光景が目の前に広がってきます。夜には島全体がライトアップされて、光輝くように映し出されて現実と思えないような光景。日没となるとモンサンミッシェル全体がピンクに染まったようになり日の出は、美術作品みたいな絶景です。

アクセス方法

パリから行くとすると個人で全て決めて行くパターンと、ツアーに申し込んで旅行するのどちらかになると思います。モンパルナス駅からレンヌ駅に到着しバスに乗り換えしていく方法。TGVという高速鉄道を利用して三時間ほどです。格安バスを利用することも可能ですが、移動時間に六時間かかるのであまりお勧めはできません。

ツアーであればガイド付きとなっているので、安心して参加することが出来るため一人旅でも気軽に参加できます。また、様々なプランがありますので、自身あったものを選ぶといいでしょう。

プラールおばさん

モンサンミッシェルは島の他に、食べ物が名物となっているものがあります。当時モンサンミッシェルで宿屋を経営していたプラールおばさんという方が、巡礼者のために何か美味しい食べ物を提供したいと考えていました。今の様に何時でも渡れる場所ではなかったため料理をするにも食材を確保するが大変難しかったようです。

そこで、モンサンミッシェル内で辛うじて手に入れることが出来た卵があったため試行錯誤して作られたのがオムレツでした。日本のようなオムレツではなかったようで、スフレ状の卵で食材を包んでいたようです。

長い年月でも姿をあまり変えずに保っていた

今から約1300年前に建てられて、一度は戦争の舞台となってもあまり姿を変えずに形を保つことが出来た建造物は世界でもあまりないと思います。私個人として修道士さんとはお会いしたことがありませんが、現地でも数名の方が運営に関わってモンサンミッシェルを守っているので直にお会いして歴史を肌で感じてみるといいでしょう。

現地での光景は、写真では感じられない気持ちになると思います。

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フランスヨーロッパの歴史世界史歴史

フランスの歴史的修道院「モンサンミッシェル」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

世界遺産に登録されている施設が世界には約千件の登録がされているようです。

当然ながら日本も多数の世界遺産が存在しているようですが、今回紹介するフランスは五位と約四十件も美しい歴史的建造物がある。

数ある中で、観光スポットとしても人気の高い修道院施設のモンサンミッシェルを歴史マニアでもあるライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

国内の歴史だけでなく、国外の歴史にも興味がある。特にフランスは行ってみたい国の一位でもあり、モンサンミッシェルにいつか必ず足を運んでみたい。

モンサンミッシェルの始まり

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大規模な修道院施設の始まりから見ていきましょう。

大天使からのお告げ

五世紀に設立されたアヴランシュ司教のオベールによって作られました。アヴランシュはケルト人の一部部族から由来したといわれラテン語が用いられていたようです。アヴランシュを直訳すると河口に住む戦士と訳され主にヴァイキングの襲来から身を守っていました。

またオベールがある時、夢を見ていた際に大天使ミカエルからのお告げで岩山に聖堂を建てよと受けたが悪魔のお告げだと思い込み当初は信じなかったようです。ところが三度目のお告げ時に、夢から覚めると頭に穴が開いていたことでお告げが本当であると気づき建築に取り掛かりました。

十世紀頃に現在地のフランスの西海岸に位置した場所に移動したとされ、リシャール一世にベネディクト会の修道院を建てて現在に近い形になります。

王位継承権を巡る戦いの舞台となる

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十四世紀から十五世紀にかけてフランス王国の王位継承と領土争いによって、フランス王朝内が二つに分かれて戦いが発生しました。当初はフランスの王位継承をしたフィリップ六世を認め臣従していたイギリス国王のエドワード三世が、スコットランド王がフランスの下へ亡命しこれをフィリップ六世は受け入れます。

亡命を受け入れたことに賛成できていなかったエドワード三世は、フランス王位継承権を再び主張し始めフィリップ六世に敵対していきました。この戦いによってイギリスとフランスの間にあったモンサンミッシェルが封鎖され、要塞として利用されていたようです。

島に渡るために干潮時に現れる道を辿っていくしかなかったことで、大きな被害を受けることなくモンサンミッシェルは乗り切りました。

百年戦争終結

長きに渡って行われた百年戦争は、フランス側の統一したことで勝利したことになりました。勝利に貢献したヴァロワ王朝のルイ十一世が大天使ミカエルを称えたことで人々の崇拝意識が高まり多くの人達がモンサンミッシェルを訪れるようになっていきます。

多数の人が訪れるようになってきましたが、交通手段が限られていたためモンサンミッシェルへ向かう道中で盗賊と遭遇し病によって倒れてしまいました。やっとたどり着いたとしても、道は干潮時にしか渡ること出来なかったことでモンサンミッシェル前で足踏みしてしまったようです。

当時は干潮と満潮の時間を図る術もありません。渡っている最中に満潮となり命を落としてしまった人も多くいました。

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