2-5、切腹はくじ引きで、しかし11人で中止に
隊長を含めた4人がまず死刑に決定、他の16名はくじ引きになり、くじ引きは土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)で行われたということ。尚、このくじ引きは神社で神様の前で行われる神聖な決定となっていて、現在とはちょっと感覚が違うのですね。処刑は、事件の8日後の2月23日切腹は午後4時頃から、堺にある妙国寺で執行されることに。
切腹の場で土佐藩士達は型通りの切腹ではなく、自らの腸を掴み出してフランス人たちを大喝。凄惨な場面を見て、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、フランス人水兵の被害者数と同じ11人が切腹したところで、外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請、9人が助命されることになったのですが、五代が土佐藩家老深尾鼎にそのことを告げたところ、「皆覚悟をもってこの席に臨んでいるので、事同じくして死生を異とすれば、何の顔あってか死者の家族に合わす顔がない。その死を免じられることは志士の恥じることとなるので、皆潔く腹を切らしてやってくれ」と頼んだが、五代は「彼に於いて既に足れりとあれば、強いて死を及ぼす必要はない」と答えたそう。
フランス側は、日暮れになってきたこともあって、軍艦長は帰途での襲撃を恐れたそうなんですが、本人の日記では、侍への同情もあるが、これではフランス側が望むように、処刑が戒めになるどころか逆に加害者の侍たちが英雄視されては困ると考えて中断させたということ。
しかしこの出来事は、日本人の「ハラキリ」が世界に伝えられるきっかけとなったそう。
切腹とは
簡単に言えば切腹は、武士の名誉を重んじた上での処刑方法で、戦国時代には腹を十文字に切ったり、内臓を引きずり出すなどすることもあったと言われていますが、江戸時代には切腹人が腹膜まで達せず表面的に腹を切る、または短刀の代わりに扇子を持って腹部を切るふりをしたら介錯人が首を落とすなど、苦痛を強いない洗練された作法になってきたということ。
しかし幕末には、土佐藩の武市半平太瑞山が、未だ誰もしたことがないと言われた三文字割腹の法で、腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した例があり、切腹人が切腹の場で、通常の切腹ではない方法を用いて無念をあらわすことも。
3-1、堺事件の外交決着と9人の藩士への恩赦
慶応4年(1868年)2月24日、外国事務局総督山階宮晃親王は、大阪鎮台外国事務兼務伊達宗城を伴ってフランス支那日本艦隊旗艦ヴェニスで、フランス公使ロッシュと会見。
明治天皇からの謝意と宮中へ招待したときに、宗城とロッシュとの間で生存者9名についての話し合いがされて、フランス側は死亡者と屠腹者の数が同じということでフランス側の寛大な処置を示す根拠になるとして、9名の助命を了承。翌25日には土佐藩主山内豊範がヴェニス号に来て、ロッシュらに謝罪したそう。ロッシュは30日御所に参内、明治天皇からも謝意を示したということ。これで政府間の問題解決は終了。
また9人については29日に東久世通禧、伊達宗城、鍋島直大の連名で流罪に決定、土佐藩に30日付で書面が下されて処置が決定、9名は熊本藩、広島藩に預かりに、そしてその後は土佐に配流されたということ。
3-2、9人のその後
処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流が決定。しかし「我々は国のために刀を抜いた者なのに、フランス人の訴えで縛に就き、死罪を免ぜられ無罪となって帰国したのに、このうえ流罪は納得できない」と不平を。藩側は、改めて朝廷の沙汰書を示し「ご処置は気の毒だが、そこをまげて承知してほしい。流罪といっても長期ではないから」と説得、ようやく了解を得たということ。
9人の藩士は、袴帯刀を許されて駕籠を用いるという、加害者にしては破格の処遇で入田へ向かい、庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後は明治新政府の恩赦で帰郷したそう。
3-3、大坂では事件が歌になり、墓に参詣も盛んにという後日談
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By 震天動地 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
大坂では事件についての流行歌「今度泉州沖で、土佐の攘夷が、大あたり、よか、敵は仏蘭西、よっ程 ゑじゃないか、よふか、よか、よか、よか、」「妙国寺、妙国寺、土佐のおさむらい腹を切る。唐人見物、ビックリシャックリと、おおさビックリシャックリと」などと歌われたということ。
そしてはじめ11人の墓は妙国寺に置かれる予定が、勅願寺なので切腹した者を葬るのは不都合だという伊達宗城の意見で、同じ堺市内の宝珠院に葬られたそう。
その後、切腹した11人の墓標には多くの市民が「ご残念様」と参詣し、墓前には花や供物が置き場所もないほど立て並べ、賽銭は山のごとくで、寺へ至る道筋には露店が並び、雑踏が幾列も続いたということで、生き残った9人は、「ご命運様」と言われ、彼らの死体を入れるはずであった空の大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったということです。
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