1-3、日本側の事情
箕浦猪之吉率いる土佐藩六番隊は、鳥羽伏見の戦い直後の慶応4年(1868年)1月9日八つ時(午後2時)に京を出立、当初の目的は新政府軍総裁仁和寺宮彰仁親王警護の土佐藩兵先鋒と交代するためだったが、その後新たな任務として1月11日、堺町内の警護につくことに。当時の堺は大坂町奉行の支配下だったのが、1月7日の大阪開城後に大坂町奉行は事実上崩壊して、旧堺奉行所駐在の同心たちが逃亡、堺は無防備状態でした。
1月16日には箕浦隊長に神戸事件の情報が入り、儒学者の箕浦は怒りを覚えたそうで、その日のうちに箕浦は在京阪の土佐藩兵力を検討したということ。また京から西村佐平次率いる八番隊が2月8日に到着。
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1-4、事件の前後
そして2月15日、軍監府より急使が来て、今フランスの兵士らが大坂より陸路で堺を訪れようとしているという連絡が。しかし堺は条約にない土地なので、まだ外国事務係の伊達宗城から何の連絡もない以上、通行を差し止めて大和橋まで兵を率いて出向くよう命令されたということ。
そして堺見物のフランス人、神戸の副領事ヴィヨー、コルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長を含む数人と宇和島藩吏数名と通訳が、陸路堺に入ろうとしたので、箕浦隊長らが通訳に、堺は外人遊歩の区域外なので入るには外国事務係の証明書が必要であると伝えた後、一行は大坂へ引き返したそう。
同日の午後4時頃、フランスのコルヴェット艦デュプレックス号が堺沖に姿を見せ、同艦の乗組員20数名が2隻の蒸気ランチ艇に分乗して港内に入って上陸、善法寺竜神堂付近を歩き回ったので、外国人が来たということで町中大騒ぎとなって野次馬が港に殺到して人ごみができたそう。外国人がやって来たという知らせで、六番隊長箕浦猪之吉、八番隊長西村左平次は、50名ほどの藩兵(黒服)と鳶の者10名ほどを引き連れ、「のいたのいた」と叫びながら現場に急行。
フランス人が水陸両方面から堺にやって来たのは、オイエ提督の命令で、大坂堺間の沿岸測量と、大和橋まできた同胞の出迎えが目的であったらしいのですが、土佐藩兵はそういうフランス側の事情を知らなかったということ。
2-1、堺事件の経過
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ランチ艇の水兵らは周辺の計測を開始、その後防波堤の上を散歩し始めた水兵が2人いて、土佐兵から何やらいわれたが言葉が通じず、2人は大勢の土佐藩兵に腕をとられて連れて行かれようとしたが、ひとりの水兵が逃げ出し、途中で往来に立ててあった軍隊旗を奪って走ったということ。
旗は早足の江戸の鳶梅吉という者に追いつかれて奪われたが、ランチ艇に飛び込んで艇を発進させようとしたが、艇めがけて土佐兵が銃撃して2人は即死し、その他11名も海中に飛び込んだりして逃げたが殺傷されたということ。
この事件を聞いた大監察杉紀平太は現場に駆けつけて射撃を止めさせ、箕浦隊長らとその部下たちを本陣に引き上げさせたそう。
この事件は、フランス水兵が堺の街で住民に迷惑をかけていると通報があり、水兵たちを咎めて連行しようとした土佐藩兵から逃げ出し、旗を奪ったために発砲したという説もありますが、水兵が堺に上陸したのは遊びではなくて、大坂から陸路で堺見物に来るはずだったが、箕浦隊長らに追い返された神戸の副領事ヴィヨー、コルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長らを迎えに来たのであって、言葉がわからないうえに行き違いがあったというのが原因のよう。
2-2、事件に対するフランス側の反応
事件については同日の夜、大坂にいたフランス公使レオン・ロッシュに伝えられ、愕然としたロッシュは、直ちに外国事務係に水兵の遺体を引き渡すことを要求。すぐに東久世通禧(外国事務総督)と五代才助(のち友厚、外国事務係)が堺に急行して事件の究明に着手。五代は漁師らに、フランス兵の死体を引き揚げれば、一体につき懸賞金を数十両与えると約束してすべての死体を収容、フランス艦に送り届けたということで、フランス水兵たちの葬儀は2月28日に神戸で行われ、小野浜墓地(神戸市中央区浜辺通り付近)に埋葬され、記念碑が建てられたということ。葬儀の際、ロッシュ公使は弔辞で「私は諸君の死の報復を、フランスと皇帝の名において誓う」と言ったということ。
葬儀の翌日、フランス公使レオン・ロッシュは敏速に行動し、各国公使らと協議の末、新政府に厳重なる抗議を申し込み、事件の加害者全員(土佐藩兵約二十名、鳶口を持った町民二十名)の死刑執行。土佐藩主(山内豊範)の被害者の家族に賠償金15万ドル支払い。外国事務総督の大坂での陳謝。土佐藩主の須崎(土佐の港)のフランス軍艦での陳謝。武装した土佐藩兵全員の開港場からの追放を要求、これらはすべて各国代表の同意を得たもので、ロッシュは3日以内に満足する回答が得られなければ強硬手段(戦争)をとると威嚇。
この要求はあまりに苛酷で、岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く、隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰するのではと懸念、処罰の人数を減らすように要求、小松帯刀と五代才助がイギリス公使パークスに調停を依頼したが、パークスもフランス側の要求の妥当性を主張したので、要求を承諾したということ。
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2-3、土佐の老侯の反応
土佐藩の隠居である前土佐藩主の山内容堂は、このとき京都にいての事件の知らせを受けました。たまたま病気でイギリス公使館のウィリアム・ウィリス医師の診察を受けていた容堂は、ウィリスと一緒に訪問したイギリス公使館職員A・J・ミットフォードに対し、真心を込めて謝罪して、この件に関わった藩士はきちんと処罰するとフランス公使に伝えてほしいと頼んだということ。
またミットフォードは京都の土佐藩邸の真っただ中に行ったのですが、この事件について声高に話す土佐藩士たちの会話を聞いたが、土佐藩士たちは犯人たちに同情する気持ちはまったくなかったようと回想録に。
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2-4、土佐藩兵たちの取り調べ
銃撃に加わった土佐藩兵らは、事件の翌々日に大坂藩邸に移って取り調べを受けた結果、六番隊と八番隊の兵合わせて25名が発砲したと申し出、両隊長と小頭2名が加わり、計29名の処罰者が決定したが、最終的には両隊長と兵18名が切腹することに。
そして2月23日土佐藩士20名は、肥後、安芸両藩士に警護されて大坂から堺に赴き、切腹に選ばれた場所である妙国寺(堺市材木町東四丁)に入り、検死役として、外国事務局の判事、土佐藩重役をはじめ、デュプレックス艦長デュプティ=トゥアールと多数のフランス人将校と水夫が立ち会うことに。
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