今回は堺事件を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、新政府発足間もない頃に起こった外国人殺傷事件なのですが、新政府がうまく対応したのでしょうか知りたいよな。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の出来事には勤王佐幕関係なく興味津々。あまり知られていないがけっこう重要な堺事件について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、堺事件の背景

慶応3年(1867年)10月14日 に大政奉還が行われ、12月9日 には王政復古の大号令が、そして慶応4年(1858年)1月3日 から6日に鳥羽伏見の戦いが起こり、6日には徳川慶喜は船で江戸へ逃亡、そして戊辰戦争へという頃で、1月11日には神戸で備前岡山藩兵が外国人に発砲した神戸事件(備前事件)が、滝善三郎の切腹で解決したのが慶応4年2月9日(1868年3月2日)のこと。

1-2、堺事件の概要

写真は「デュプレクス」。
パブリック・ドメイン, Link

そういうわけで、まだ明治新政府として形を成していない頃、鳥羽伏見の戦いがあったばかりの関西は騒然としていて、攘夷論もまだおさまっていない泉州堺の港で事件は起きました。

慶応4年2月15日午後3時頃に、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるために堺港に入り、前年12月15日に大坂天保山沖でアメリカ海軍提督を乗せたボートが転覆し、提督らが溺死した事故を踏まえての指示であった港内の測量も行ったということ。

そして夕刻になっても帰艦しないフランス水兵たちについての近隣住民の苦情を受けて、この付近の警備を任されていた土佐藩の六番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らがフランス水兵に帰艦をうながしたのですが、言葉が通じず、土佐藩兵たちはフランスの水兵たちを捕縛しようとしたということ。しかしフランス水兵たちは、土佐藩の隊旗を奪った挙句に逃亡しようとしたために、土佐藩兵たちは発砲。そして双方銃撃戦の結果、フランス水兵は射殺、海に落として溺死、負傷者も、尚彼らの遺体は16日に引き渡されました。

例によって、土佐藩兵側とフランス水兵側、住民などの目撃談、供述にかなり食い違いがあり、フランス側は突如銃撃を受けたと主張したということ。フランス水兵の死亡は11名で20代の若者ばかり。

\次のページで「1-3、日本側の事情」を解説!/

1-3、日本側の事情

箕浦猪之吉率いる土佐藩六番隊は、鳥羽伏見の戦い直後の慶応4年(1868年)1月9日八つ時(午後2時)に京を出立、当初の目的は新政府軍総裁仁和寺宮彰仁親王警護の土佐藩兵先鋒と交代するためだったが、その後新たな任務として1月11日、堺町内の警護につくことに。当時の堺は大坂町奉行の支配下だったのが、1月7日の大阪開城後に大坂町奉行は事実上崩壊して、旧堺奉行所駐在の同心たちが逃亡、堺は無防備状態でした。

1月16日には箕浦隊長に神戸事件の情報が入り、儒学者の箕浦は怒りを覚えたそうで、その日のうちに箕浦は在京阪の土佐藩兵力を検討したということ。また京から西村佐平次率いる八番隊が2月8日に到着。

1-4、事件の前後

image by PIXTA / 54836532

そして2月15日、軍監府より急使が来て、今フランスの兵士らが大坂より陸路で堺を訪れようとしているという連絡が。しかし堺は条約にない土地なので、まだ外国事務係の伊達宗城から何の連絡もない以上、通行を差し止めて大和橋まで兵を率いて出向くよう命令されたということ。

そして堺見物のフランス人、神戸の副領事ヴィヨー、コルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長を含む数人と宇和島藩吏数名と通訳が、陸路堺に入ろうとしたので、箕浦隊長らが通訳に、堺は外人遊歩の区域外なので入るには外国事務係の証明書が必要であると伝えた後、一行は大坂へ引き返したそう。

同日の午後4時頃、フランスのコルヴェット艦デュプレックス号が堺沖に姿を見せ、同艦の乗組員20数名が2隻の蒸気ランチ艇に分乗して港内に入って上陸、善法寺竜神堂付近を歩き回ったので、外国人が来たということで町中大騒ぎとなって野次馬が港に殺到して人ごみができたそう。外国人がやって来たという知らせで、六番隊長箕浦猪之吉、八番隊長西村左平次は、50名ほどの藩兵(黒服)と鳶の者10名ほどを引き連れ、「のいたのいた」と叫びながら現場に急行。

フランス人が水陸両方面から堺にやって来たのは、オイエ提督の命令で、大坂堺間の沿岸測量と、大和橋まできた同胞の出迎えが目的であったらしいのですが、土佐藩兵はそういうフランス側の事情を知らなかったということ。

2-1、堺事件の経過

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By Le Monde Illustré - 不明, パブリック・ドメイン, Link

ランチ艇の水兵らは周辺の計測を開始、その後防波堤の上を散歩し始めた水兵が2人いて、土佐兵から何やらいわれたが言葉が通じず、2人は大勢の土佐藩兵に腕をとられて連れて行かれようとしたが、ひとりの水兵が逃げ出し、途中で往来に立ててあった軍隊旗を奪って走ったということ。

旗は早足の江戸の鳶梅吉という者に追いつかれて奪われたが、ランチ艇に飛び込んで艇を発進させようとしたが、艇めがけて土佐兵が銃撃して2人は即死し、その他11名も海中に飛び込んだりして逃げたが殺傷されたということ。
この事件を聞いた大監察杉紀平太は現場に駆けつけて射撃を止めさせ、箕浦隊長らとその部下たちを本陣に引き上げさせたそう。

この事件は、フランス水兵が堺の街で住民に迷惑をかけていると通報があり、水兵たちを咎めて連行しようとした土佐藩兵から逃げ出し、旗を奪ったために発砲したという説もありますが、水兵が堺に上陸したのは遊びではなくて、大坂から陸路で堺見物に来るはずだったが、箕浦隊長らに追い返された神戸の副領事ヴィヨー、コルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長らを迎えに来たのであって、言葉がわからないうえに行き違いがあったというのが原因のよう。

2-2、事件に対するフランス側の反応

事件については同日の夜、大坂にいたフランス公使レオン・ロッシュに伝えられ、愕然としたロッシュは、直ちに外国事務係に水兵の遺体を引き渡すことを要求。すぐに東久世通禧(外国事務総督)と五代才助(のち友厚、外国事務係)が堺に急行して事件の究明に着手。五代は漁師らに、フランス兵の死体を引き揚げれば、一体につき懸賞金を数十両与えると約束してすべての死体を収容、フランス艦に送り届けたということで、フランス水兵たちの葬儀は2月28日に神戸で行われ、小野浜墓地(神戸市中央区浜辺通り付近)に埋葬され、記念碑が建てられたということ。葬儀の際、ロッシュ公使は弔辞で「私は諸君の死の報復を、フランスと皇帝の名において誓う」と言ったということ。

葬儀の翌日、フランス公使レオン・ロッシュは敏速に行動し、各国公使らと協議の末、新政府に厳重なる抗議を申し込み、事件の加害者全員(土佐藩兵約二十名、鳶口を持った町民二十名)の死刑執行。土佐藩主(山内豊範)の被害者の家族に賠償金15万ドル支払い。外国事務総督の大坂での陳謝。土佐藩主の須崎(土佐の港)のフランス軍艦での陳謝。武装した土佐藩兵全員の開港場からの追放を要求、これらはすべて各国代表の同意を得たもので、ロッシュは3日以内に満足する回答が得られなければ強硬手段(戦争)をとると威嚇

この要求はあまりに苛酷で、岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く、隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰するのではと懸念、処罰の人数を減らすように要求、小松帯刀と五代才助がイギリス公使パークスに調停を依頼したが、パークスもフランス側の要求の妥当性を主張したので、要求を承諾したということ。

2-3、土佐の老侯の反応

土佐藩の隠居である前土佐藩主の山内容堂は、このとき京都にいての事件の知らせを受けました。たまたま病気でイギリス公使館のウィリアム・ウィリス医師の診察を受けていた容堂は、ウィリスと一緒に訪問したイギリス公使館職員A・J・ミットフォードに対し、真心を込めて謝罪して、この件に関わった藩士はきちんと処罰するとフランス公使に伝えてほしいと頼んだということ。

またミットフォードは京都の土佐藩邸の真っただ中に行ったのですが、この事件について声高に話す土佐藩士たちの会話を聞いたが、土佐藩士たちは犯人たちに同情する気持ちはまったくなかったようと回想録に

2-4、土佐藩兵たちの取り調べ

銃撃に加わった土佐藩兵らは、事件の翌々日に大坂藩邸に移って取り調べを受けた結果、六番隊と八番隊の兵合わせて25名が発砲したと申し出、両隊長と小頭2名が加わり、計29名の処罰者が決定したが、最終的には両隊長と兵18名が切腹することに。

そして2月23日土佐藩士20名は、肥後、安芸両藩士に警護されて大坂から堺に赴き、切腹に選ばれた場所である妙国寺(堺市材木町東四丁)に入り、検死役として、外国事務局の判事、土佐藩重役をはじめ、デュプレックス艦長デュプティ=トゥアールと多数のフランス人将校と水夫が立ち会うことに。

\次のページで「2-5、切腹はくじ引きで、しかし11人で中止に」を解説!/

2-5、切腹はくじ引きで、しかし11人で中止に

image by PIXTA / 47597515

隊長を含めた4人がまず死刑に決定、他の16名はくじ引きになり、くじ引きは土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)で行われたということ。尚、このくじ引きは神社で神様の前で行われる神聖な決定となっていて、現在とはちょっと感覚が違うのですね。処刑は、事件の8日後の2月23日切腹は午後4時頃から、堺にある妙国寺で執行されることに。

切腹の場で土佐藩士達は型通りの切腹ではなく、自らの腸を掴み出してフランス人たちを大喝。凄惨な場面を見て、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、フランス人水兵の被害者数と同じ11人が切腹したところで、外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請、9人が助命されることになったのですが、五代が土佐藩家老深尾鼎にそのことを告げたところ、「皆覚悟をもってこの席に臨んでいるので、事同じくして死生を異とすれば、何の顔あってか死者の家族に合わす顔がない。その死を免じられることは志士の恥じることとなるので、皆潔く腹を切らしてやってくれ」と頼んだが、五代は「彼に於いて既に足れりとあれば、強いて死を及ぼす必要はない」と答えたそう。

フランス側は、日暮れになってきたこともあって、軍艦長は帰途での襲撃を恐れたそうなんですが、本人の日記では、侍への同情もあるが、これではフランス側が望むように、処刑が戒めになるどころか逆に加害者の侍たちが英雄視されては困ると考えて中断させたということ。

しかしこの出来事は、日本人の「ハラキリ」が世界に伝えられるきっかけとなったそう。

切腹とは
簡単に言えば切腹は、武士の名誉を重んじた上での処刑方法で、戦国時代には腹を十文字に切ったり、内臓を引きずり出すなどすることもあったと言われていますが、江戸時代には切腹人が腹膜まで達せず表面的に腹を切る、または短刀の代わりに扇子を持って腹部を切るふりをしたら介錯人が首を落とすなど、苦痛を強いない洗練された作法になってきたということ。

しかし幕末には、土佐藩の武市半平太瑞山が、未だ誰もしたことがないと言われた三文字割腹の法で、腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した例があり、切腹人が切腹の場で、通常の切腹ではない方法を用いて無念をあらわすことも。

3-1、堺事件の外交決着と9人の藩士への恩赦

慶応4年(1868年)2月24日、外国事務局総督山階宮晃親王は、大阪鎮台外国事務兼務伊達宗城を伴ってフランス支那日本艦隊旗艦ヴェニスで、フランス公使ロッシュと会見。

明治天皇からの謝意と宮中へ招待したときに、宗城とロッシュとの間で生存者9名についての話し合いがされて、フランス側は死亡者と屠腹者の数が同じということでフランス側の寛大な処置を示す根拠になるとして、9名の助命を了承。翌25日には土佐藩主山内豊範がヴェニス号に来て、ロッシュらに謝罪したそう。ロッシュは30日御所に参内、明治天皇からも謝意を示したということ。これで政府間の問題解決は終了。

また9人については29日に東久世通禧、伊達宗城、鍋島直大の連名で流罪に決定、土佐藩に30日付で書面が下されて処置が決定、9名は熊本藩、広島藩に預かりに、そしてその後は土佐に配流されたということ。

3-2、9人のその後

処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流が決定。しかし「我々は国のために刀を抜いた者なのに、フランス人の訴えで縛に就き、死罪を免ぜられ無罪となって帰国したのに、このうえ流罪は納得できない」と不平を。藩側は、改めて朝廷の沙汰書を示し「ご処置は気の毒だが、そこをまげて承知してほしい。流罪といっても長期ではないから」と説得、ようやく了解を得たということ。

9人の藩士は、袴帯刀を許されて駕籠を用いるという、加害者にしては破格の処遇で入田へ向かい、庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後は明治新政府の恩赦で帰郷したそう。

3-3、大坂では事件が歌になり、墓に参詣も盛んにという後日談

土佐藩士供養塔.jpg
By 震天動地 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

大坂では事件についての流行歌「今度泉州沖で、土佐の攘夷が、大あたり、よか、敵は仏蘭西、よっ程 ゑじゃないか、よふか、よか、よか、よか、」「妙国寺、妙国寺、土佐のおさむらい腹を切る。唐人見物、ビックリシャックリと、おおさビックリシャックリと」などと歌われたということ。

そしてはじめ11人の墓は妙国寺に置かれる予定が、勅願寺なので切腹した者を葬るのは不都合だという伊達宗城の意見で、同じ堺市内の宝珠院に葬られたそう。

その後、切腹した11人の墓標には多くの市民が「ご残念様」と参詣し、墓前には花や供物が置き場所もないほど立て並べ、賽銭は山のごとくで、寺へ至る道筋には露店が並び、雑踏が幾列も続いたということで、生き残った9人は、「ご命運様」と言われ、彼らの死体を入れるはずであった空の大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったということです。

\次のページで「サムライの切腹を世界的に有名にしたと言われる堺事件」を解説!/

サムライの切腹を世界的に有名にしたと言われる堺事件

堺事件は、江戸幕府の将軍が大政奉還して、政治が明治新政府に引き継がれたばかりの頃に起きた事件でした。鳥羽伏見の戦いが終わって、官軍は戦費もままならないのに東征へ赴いており、バタバタどたばたとしたなかでまだ一寸先は闇みたいな状態で、フランス公使とイギリスら列強の公使たちを相手に交渉するのは大変だったはす。

また土佐藩兵たちも言葉がわからないことや行き違いなどが原因とはいえ、発砲して殺傷事件にするなどまだ攘夷の気運がありありとしていて、さっと表面的に歴史的事件をみると見落としがちな当時の雰囲気が伝わってくるよう。それが激烈な切腹となってあらわれ、結果的には世界にサムライの切腹として伝わったことを考えると、侍たちも本望かもしれませんね。

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幕末日本史歴史江戸時代

明治新政府が遭遇した「堺事件」土佐藩兵によるフランス水兵殺害事件について歴女がわかりやすく解説

今回は堺事件を取り上げるぞ。

あまり知られていないが、新政府発足間もない頃に起こった外国人殺傷事件なのですが、新政府がうまく対応したのでしょうか知りたいよな。

その辺のところを幕末にやたら詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の出来事には勤王佐幕関係なく興味津々。あまり知られていないがけっこう重要な堺事件について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、堺事件の背景

慶応3年(1867年)10月14日 に大政奉還が行われ、12月9日 には王政復古の大号令が、そして慶応4年(1858年)1月3日 から6日に鳥羽伏見の戦いが起こり、6日には徳川慶喜は船で江戸へ逃亡、そして戊辰戦争へという頃で、1月11日には神戸で備前岡山藩兵が外国人に発砲した神戸事件(備前事件)が、滝善三郎の切腹で解決したのが慶応4年2月9日(1868年3月2日)のこと。

1-2、堺事件の概要

写真は「デュプレクス」。
パブリック・ドメイン, Link

そういうわけで、まだ明治新政府として形を成していない頃、鳥羽伏見の戦いがあったばかりの関西は騒然としていて、攘夷論もまだおさまっていない泉州堺の港で事件は起きました。

慶応4年2月15日午後3時頃に、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるために堺港に入り、前年12月15日に大坂天保山沖でアメリカ海軍提督を乗せたボートが転覆し、提督らが溺死した事故を踏まえての指示であった港内の測量も行ったということ。

そして夕刻になっても帰艦しないフランス水兵たちについての近隣住民の苦情を受けて、この付近の警備を任されていた土佐藩の六番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らがフランス水兵に帰艦をうながしたのですが、言葉が通じず、土佐藩兵たちはフランスの水兵たちを捕縛しようとしたということ。しかしフランス水兵たちは、土佐藩の隊旗を奪った挙句に逃亡しようとしたために、土佐藩兵たちは発砲。そして双方銃撃戦の結果、フランス水兵は射殺、海に落として溺死、負傷者も、尚彼らの遺体は16日に引き渡されました。

例によって、土佐藩兵側とフランス水兵側、住民などの目撃談、供述にかなり食い違いがあり、フランス側は突如銃撃を受けたと主張したということ。フランス水兵の死亡は11名で20代の若者ばかり。

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