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『四面楚歌』の語源となった、西楚の覇王「項羽」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。今日は中国の武将「項羽」について、勉強していこう。「項羽」について勉強するには、有名な諺「四面楚歌」のことを知ると良いだろう。まわりが敵ばかりで、味方のいないことという意味の「四面楚歌」。言葉は知っていても、その成り立ちを知る人は少ないと思う。「項羽」の人生を追いながら、最後の戦い「垓下の戦い」までをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は項羽について、わかりやすくまとめた。

幼い頃に国が滅び、叔父の下で過ごした幼少時代

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By ShangGuan Zhou(上官周) – This image was carried on the book which is called “Wan hsiao tang-Chu chuang -Hua chuan(晩笑堂竹荘畫傳)”., パブリック・ドメイン, Link

 項羽(こうう)の本名は、「項籍」(こうせき)といいます。羽(う)とは字(あざな)であり、今回は一般的に知られている「項羽」(こうう)の名で勉強していきましょう。

 項羽の父は早死し、叔父の「項梁」(こうりょう)の下で育ちます。項羽は『楚』(そ)という国の将軍の家系に生まれ、祖父の「項燕」(こうえん)は楚の将軍にして、民衆の英雄でした。幼い頃からそんな環境にいた項羽は、当時としては非常に高い教育をうけました。

 ある時、項羽は文字を学びましたが、途中で学ぶことをやめてしまいました。ある時は剣術を学びましたが、これもまたすぐにやめてしまいます。叔父の項梁は、そんな項羽を叱りつけますが「文字は自分の名が書ければ良い、剣術は所詮1人の相手しかしない。もっと万人を相手にするようなことをしたい」と返す項羽に、項梁は兵法を教えることにしました。

 これには興味を引かれた項羽は、あっという間にその殆どを把握しまいました。しかし、全てを修めるまでにはいかず、途中でやめてしまうのです。

 項羽が9歳の時に、『秦』(しん)によって滅ぼされ、『呉』(ご)に亡命することとなります。この時に最期まで戦ったのが、項羽の祖父であり、将軍であった項燕でした。

始皇帝亡き後の秦王政に対して起こった大反乱、それに乗じて叔父と共に挙兵する

 項羽の一族は呉に亡命を果たし、この頃の項梁は、呉の官職達に慕われていたようでした。項羽は180cmを超える大男に成長し、当時の単位で三石(およそ90kg)ほどにもなるという鼎(かなえ・儀礼用の釜)を持ち上げることが出来たそうです。

 紀元前209年、項羽が24歳の時に、大反乱が起きました。この頃中央では、始皇帝の後を継いだ二世皇帝の信頼を得た宦官・「趙高」(ちょうこう)の専横が始まっていたのです。この反乱のリーダーは「陳勝」(ちんしょう)・「呉広」(ごこう)という者達でした。

 2人のリーダーはそれぞれ、扶蘇(ふそ)・項燕(こうえん)と名乗りました。扶蘇は趙高に冤罪で自害を強要され、項燕は項羽の祖父です。この2人は民衆の英雄であり、そのどちらも生死を確認出来ていなかったため、詐称した彼らに民衆はついていきました。彼らは、滅んだ項羽の故国『楚』の名を借り『大楚』と国号(国の名前)を打ち立てて、秦に向かいました。

 この時の項羽は項梁に連れられ、その地の守(守護役)である『殷頭』(いんとう)の下へと参じていました。項梁の目配せを受けた項羽は、その場にいた殷頭を始め、100人以上を斬り捨てました。こうして項梁は、守の地位を奪うと、項羽はその副将となりました。

反乱の中での、宿敵劉邦との共闘、そして叔父の死

image by iStockphoto

 反乱軍のリーダーの1人である陳勝は、連戦連勝を重ね、段々と傲慢になっていきました。なんと自ら王に即位し『大楚』を『張楚』と改めました。そんな陳勝らに不満を持つ将が、陳勝の命令と偽って、呉広を殺害してしまいます。全く身に覚えのない陳勝ですが、司令官の不在を危険とし、やむなく呉広を殺害した将を副将に任命しました。

 秦の将軍である『章邯』(しょうかん)は、囚人を強制的に取り立て大軍を形成すると、次第に秦軍有利となっていきました。そして張楚軍を打ち破ります。敗走中の陳勝は、間もなく発見・殺害され、その首を秦軍に献上されてしまいました。

 陳勝死すの知らせは、項梁の下にも届きます。この頃の項梁軍には、多くの軍勢が従い、大軍となっていました。項梁は諸将を集めると、今後の策を練り始めます。そこに参加したのは、猛将・「鯨布」(げいふ)、平民からのし上がった「劉邦」(りゅうほう)、そして齢70歳を超えた策士・「范増」(はんぞう)などでした。

 項梁は、范増の「陳勝の敗因は自ら王となったため。楚の将を従えるには、あなた自身は楚の将軍として、楚王の子孫を打ち立てる必要がある」という進言を聞き入れ、民間で羊飼いをしていた楚の前王である「壊王」(かいおう)の孫・「心」(しん)を迎え入れ『壊王心』として即位させました。

 一方項羽は、いずれ宿敵となる劉邦と共に別動隊として秦軍を攻め続けていました。彼らの活躍はすさまじく、連戦連勝でした。そのせいでしょうか、項梁にも先の陳勝と同じように、傲慢な一面が見え始めてきたのです。彼に仕えていた元楚の宰相「宋義」(そうぎ)は、項梁にその点を指摘しますが、宋義の懸念は的中し、項梁は秦の章邯軍の攻勢の前に、あえなく戦死してしまいました。

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そもそも楚軍を結成したのは叔父の項梁で、この頃の項羽は、まだ取り立てて目立ってはいないようだな。若き武将として力を蓄えていた時期だろう。

若干26歳の項羽は、上官である宋義を斬り楚軍のトップとなる

 叔父・項梁の死は、項羽の運命を大きく変えていきました。

 項梁の後釜には、彼へ忠告を行った宋義が任命されました。この時に、壊王心は諸将にとある約束をします。「咸陽(かんよう・秦の本拠地)に一番乗りを果たした者には、秦の土地をそのまま与える」というものです。

 宋義軍は、項羽を含めた各地の諸侯を終結させ、北へと軍を進めました。その先には同じく秦軍と戦っていた趙(ちょう・国のひとつ)がいました。しかし劉邦の軍だけは、なぜか西の『函谷関』(かんこくかん)を目指すこととなりました。

 趙軍が駐屯する砦は、既に秦軍に包囲されていました。その司令官は叔父・項梁の仇である章邯であり、その姿を前に項羽は熱り立ちます。さっそく救援を、というところで宋義軍は進軍を停止させてしまいました。趙軍の救援を進言する項羽でしたが、宋義は聞く耳を持ちません。真冬の大雨の中、震える兵達を目にした項羽は、すぐさま行動に移します。

 項羽は、宋義の陣中に侵入すると「宋義は謀反を企てていた。楚王は密かに私に誅殺を命じたのだ」と彼を殺害してしまいました。これを知った壊王心はやむなく項羽を将軍とし、諸侯は皆項羽を恐れて彼に従うことにしたのです。こうして、項羽は楚軍のトップに躍り出ます。この時の項羽は、わずか26歳でした。

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