今日は中国の武将「項羽」について、勉強していこう。「項羽」について勉強するには、有名な諺「四面楚歌」のことを知ると良いでしょう。まわりが敵ばかりで、味方のいないことという意味の「四面楚歌」。言葉は知っていても、その成り立ちを知る人は少ないと思う。「項羽」の人生を追いながら、最後の戦い「垓下の戦い」までをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は項羽について、わかりやすくまとめた。

幼い頃に国が滅び、叔父の下で過ごした幼少時代

Xiang Yu.jpg
By ShangGuan Zhou(上官周) - This image was carried on the book which is called "Wan hsiao tang-Chu chuang -Hua chuan(晩笑堂竹荘畫傳)"., パブリック・ドメイン, Link

 項羽(こうう)の本名は、「項籍」(こうせき)といいます。羽(う)とは字(あざな)であり、今回は一般的に知られている「項羽」(こうう)の名で勉強していきましょう。

 項羽の父は早死し、叔父の「項梁」(こうりょう)の下で育ちます。項羽は『楚』(そ)という国の将軍の家系に生まれ、祖父の「項燕」(こうえん)は楚の将軍にして、民衆の英雄でした。幼い頃からそんな環境にいた項羽は、当時としては非常に高い教育をうけました。

 ある時、項羽は文字を学びましたが、途中で学ぶことをやめてしまいました。ある時は剣術を学びましたが、これもまたすぐにやめてしまいます。叔父の項梁は、そんな項羽を叱りつけますが「文字は自分の名が書ければ良い、剣術は所詮1人の相手しかしない。もっと万人を相手にするようなことをしたい」と返す項羽に、項梁は兵法を教えることにしました。

 これには興味を引かれた項羽は、あっという間にその殆どを把握しまいました。しかし、全てを修めるまでにはいかず、途中でやめてしまうのです。

 項羽が9歳の時に、『秦』(しん)によって滅ぼされ、『呉』(ご)に亡命することとなります。この時に最期まで戦ったのが、項羽の祖父であり、将軍であった項燕でした。

始皇帝亡き後の秦王政に対して起こった大反乱、それに乗じて叔父と共に挙兵する

 項羽の一族は呉に亡命を果たし、この頃の項梁は、呉の官職達に慕われていたようでした。項羽は180cmを超える大男に成長し、当時の単位で三石(およそ90kg)ほどにもなるという鼎(かなえ・儀礼用の釜)を持ち上げることが出来たそうです。

 紀元前209年、項羽が24歳の時に、大反乱が起きました。この頃中央では、始皇帝の後を継いだ二世皇帝の信頼を得た宦官・「趙高」(ちょうこう)の専横が始まっていたのです。この反乱のリーダーは「陳勝」(ちんしょう)・「呉広」(ごこう)という者達でした。

 2人のリーダーはそれぞれ、扶蘇(ふそ)・項燕(こうえん)と名乗りました。扶蘇は趙高に冤罪で自害を強要され、項燕は項羽の祖父です。この2人は民衆の英雄であり、そのどちらも生死を確認出来ていなかったため、詐称した彼らに民衆はついていきました。彼らは、滅んだ項羽の故国『楚』の名を借り『大楚』と国号(国の名前)を打ち立てて、秦に向かいました。

 この時の項羽は項梁に連れられ、その地の守(守護役)である『殷頭』(いんとう)の下へと参じていました。項梁の目配せを受けた項羽は、その場にいた殷頭を始め、100人以上を斬り捨てました。こうして項梁は、守の地位を奪うと、項羽はその副将となりました。

反乱の中での、宿敵劉邦との共闘、そして叔父の死

image by iStockphoto

 反乱軍のリーダーの1人である陳勝は、連戦連勝を重ね、段々と傲慢になっていきました。なんと自ら王に即位し『大楚』を『張楚』と改めました。そんな陳勝らに不満を持つ将が、陳勝の命令と偽って、呉広を殺害してしまいます。全く身に覚えのない陳勝ですが、司令官の不在を危険とし、やむなく呉広を殺害した将を副将に任命しました。

 秦の将軍である『章邯』(しょうかん)は、囚人を強制的に取り立て大軍を形成すると、次第に秦軍有利となっていきました。そして張楚軍を打ち破ります。敗走中の陳勝は、間もなく発見・殺害され、その首を秦軍に献上されてしまいました。

 陳勝死すの知らせは、項梁の下にも届きます。この頃の項梁軍には、多くの軍勢が従い、大軍となっていました。項梁は諸将を集めると、今後の策を練り始めます。そこに参加したのは、猛将・「鯨布」(げいふ)、平民からのし上がった「劉邦」(りゅうほう)、そして齢70歳を超えた策士・「范増」(はんぞう)などでした。

 項梁は、范増の「陳勝の敗因は自ら王となったため。楚の将を従えるには、あなた自身は楚の将軍として、楚王の子孫を打ち立てる必要がある」という進言を聞き入れ、民間で羊飼いをしていた楚の前王である「壊王」(かいおう)の孫・「心」(しん)を迎え入れ『壊王心』として即位させました。

 一方項羽は、いずれ宿敵となる劉邦と共に別動隊として秦軍を攻め続けていました。彼らの活躍はすさまじく、連戦連勝でした。そのせいでしょうか、項梁にも先の陳勝と同じように、傲慢な一面が見え始めてきたのです。彼に仕えていた元楚の宰相「宋義」(そうぎ)は、項梁にその点を指摘しますが、宋義の懸念は的中し、項梁は秦の章邯軍の攻勢の前に、あえなく戦死してしまいました。

若干26歳の項羽は、上官である宋義を斬り楚軍のトップとなる

 叔父・項梁の死は、項羽の運命を大きく変えていきました。

 項梁の後釜には、彼へ忠告を行った宋義が任命されました。この時に、壊王心は諸将にとある約束をします。「咸陽(かんよう・秦の本拠地)に一番乗りを果たした者には、秦の土地をそのまま与える」というものです。

 宋義軍は、項羽を含めた各地の諸侯を終結させ、北へと軍を進めました。その先には同じく秦軍と戦っていた趙(ちょう・国のひとつ)がいました。しかし劉邦の軍だけは、なぜか西の『函谷関』(かんこくかん)を目指すこととなりました。

 趙軍が駐屯する砦は、既に秦軍に包囲されていました。その司令官は叔父・項梁の仇である章邯であり、その姿を前に項羽は熱り立ちます。さっそく救援を、というところで宋義軍は進軍を停止させてしまいました。趙軍の救援を進言する項羽でしたが、宋義は聞く耳を持ちません。真冬の大雨の中、震える兵達を目にした項羽は、すぐさま行動に移します。

 項羽は、宋義の陣中に侵入すると「宋義は謀反を企てていた。楚王は密かに私に誅殺を命じたのだ」と彼を殺害してしまいました。これを知った壊王心はやむなく項羽を将軍とし、諸侯は皆項羽を恐れて彼に従うことにしたのです。こうして、項羽は楚軍のトップに躍り出ます。この時の項羽は、わずか26歳でした。

\次のページで「相対した敵軍を取込み、楚軍は大軍となる、そして秦の本拠地である咸陽へ到達する」を解説!/

相対した敵軍を取込み、楚軍は大軍となる、そして秦の本拠地である咸陽へ到達する

 将軍となった項羽はまず、目の前の趙軍の救援に向かいましたが、秦軍は思ったよりも強く救援は難航してしまいます。そこで項羽は、将兵の覚悟を決めるため、退却用の船を沈め、3日分の食料を残し、残り全てを焼いてしまいました。後の無い楚軍の猛攻は、まさに死にもの狂いです。あっという間に秦軍を撃破してしまうと、項羽の名声は諸侯に知れ渡ります。諸侯は皆項羽を恐れ、敢えて仰ぎ見る者はいませんでした。

 敗走した章邯は、急ぎ本拠地の趙高へと使者を出しますが、功績を上げていた章邯を快く思わない趙高は、使者に会おうともしませんでした。章邯は悩みに悩みますが、趙高を信用することは出来ないと項羽と盟約を果たし、項羽の指揮下に加わりました。

 しかし、秦兵達の祖国、家族を心配する声が項羽の耳に入ると、彼ら20万の捕虜兵を全て生き埋めにするという暴挙に出ます。項羽を恐れる諸侯たちは、瞬く間に秦の地を平定、咸陽近くの函谷関に辿り着くことになりました。

しかし、咸陽には既に反乱軍の姿が。項羽は後れをとってしまった

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 紀元前206年、函谷関に到着した項羽の目の前には、楚軍の姿が映りました。それはなんと劉邦の軍でした。この時の劉邦は、項羽の軍とは違い、殆ど戦いをせず敵の降伏も悉く許したため、それほど被害を受けずに進軍したといいます。

 秦では、二世皇帝が趙高によって殺害されると、その甥である「子嬰」(しえい)を『秦王』として即位させました。しかし、趙高はその秦王の裏切りにあい、処刑されてしまいます。咸陽の防衛はもぬけの殻となっていました。そうして劉邦は咸陽と容易く落とすと、財宝には一切手を出さず、秦王もそのまま咸陽に留め置いていたのです。

 この時の項羽の怒りは計り知れません。実質的には、項羽の活躍で秦軍を降したようなもの。そんな自負があったのです。しかし、壊王心の諸侯への約束は絶対。いくら敵を倒そうとも、劉邦が一番乗りであることは事実。項羽は劉邦に大きく後れをとってしまったのです。

項羽と劉邦。2人の英雄の邂逅。後世に伝わる『鴻門の会』

 先に咸陽に到達していた劉邦も、項羽ら諸侯の行動は予測済みであり、函谷関に兵を伏せていました。そんな時項羽の下に、劉邦配下の「曹無傷」(そうむしょう)が現れます。彼は「劉邦は子嬰の宰相となり、財宝を悉く手中に収めています」と、これを項羽はあっさりと信じました。この時の項羽にとって、曹無傷の言葉の真偽はどうでもよかったのでしょう、ただ、劉邦を打ち取るきっかけが欲しかったのだと思います。

 怒りのままに劉邦軍に進軍しようとする項羽の前に、范増が現れ「確かに劉邦は山東にいる時は、財宝・美姫を好んでいたようだ。しかし、ここ咸陽では、財宝も婦女も一切取らずにいるようです」実際に、劉邦は財宝や婦女を好んでいたそうですが、ここでは配下の進言に従い、一切手を出してはいなかったようです。そんな項羽の陣に、劉邦が現れました。

 項羽の怒りを感じた劉邦が、自ら『鴻門』(こうもん)の項羽の陣に赴いたのです。劉邦は陣に入ると開口一番「臣(私)は将軍(項羽)と力を合わせ秦を攻めました。図らずとも臣は先に咸陽に到着してしまいました。小人のつまらぬ戯言で我々が離反してしまうことの、なんと悲しいことでしょうか」自ら臣と遜ることで、劉邦は項羽の下である、と表明します。

謝罪のために訪れた劉邦を、剣舞に見せかけ殺害しようと企む

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 劉邦の挨拶を受けた項羽は毒気を抜かれ「小人の戯言であり、私は何も思っていない、さぁ、今日は大いに飲もう」と宴を始めます。しかし、劉邦は客でありながらも、北側、下座に座らされてしまいました。

 宴の最中、項羽は劉邦を殺害しようとしていましたが、さきほどの挨拶で毒気を抜かれ、もはや項羽に劉邦を斬る気は失せていたのです。そんな項羽を見止めた范増は、項羽の従弟「項壮」(こうそう)に、剣舞を装って劉邦を暗殺するよう命じます。項壮は卓中に入り、その剣は何度も劉邦に迫りました。すると、劉邦の配下の一人が「剣舞には相手が必要でしょう」と項壮の刃から劉邦を庇うように、剣を振り続けます。

 そこへ、劉邦の親友「樊噲」(はんかい)が乱入してきました。劉邦は冷静に樊噲を紹介すると、項羽は彼に酒を進めます。樊噲はそれを一気に飲み干すと「我が主は、咸陽に一番に入り将軍様をお待ち申し上げていたのに、小人の下らぬ戯言を信じて誅殺しようとしていたのですな。それでは天下の人心は離反するでしょう」

 樊噲の真っ直ぐな物言い、項羽に返す言葉はありませんでした。

暗殺は失敗に終わり、劉邦との溝はもはや埋まられないほどに

 宴のなかで、酒に酔った項羽は眠ってしまいます。劉邦が厠に行きたいと言うと、配下たちもお伴を、と席を立ってしまいました。この隙に劉邦は自陣へと帰還しました。念のために、馬車を留め置いていたため、項羽軍は劉邦が帰ったことにしばらく気付きませんでした。

 劉邦は自陣に着くと、項羽に自分を誣告した曹無傷を処刑してしまいます。

 項羽の陣内では、劉邦不在に気付いた項羽がまたもや怒り狂いました。これまでは、その天才的な用兵と武力で解決してきた項羽、こうした駆け引きは苦手だったのでしょう。ここで命拾いをした劉邦、仕留め損ねた項羽、この2人にはもはや信頼関係などなく、その対立は明らかとなっていきました。

\次のページで「新たな天下を拓いた項羽は、自ら『西楚の覇王』と名乗る」を解説!/

新たな天下を拓いた項羽は、自ら『西楚の覇王』と名乗る

 劉邦を仕留めそこなった項羽は、咸陽に侵入。秦王子嬰を殺害し、咸陽を支配下に置きます。しかし、項羽は咸陽に興味を示すことはありませんでした。配下が咸陽を都にすることを進言しても、項羽は咸陽で英雄になったとて、故郷の人々には伝わらない、というのです。項羽は、楚軍として、楚の将としての誇りと愛着を持っていたのだと思います。

 この頃から、項羽に心境の変化が生まれてきました。壊王心に対する疑念でした。秦が滅んだことにより、壊王に使者を出しますが、彼は最初に約束したように、劉邦に咸陽を与えろ、というばかりだったのです。

 「そもそも、この楚は、この旗印を掲げたのは叔父項梁と自分である、この王にどんな意味があるのだ」

 項羽は壊王心の命令を無視、秦討伐で功績を上げた将軍を、次々と王として任命していきました。そして劉邦はというと、約束など反故とし、『関中』(かんちゅう)に左遷されてしまいます。もちろん、劉邦は反論しようとしますが、臣下達に諫められ、命令を受け入れました。項羽は劉邦が進軍できないように、章邯など戦に長けた将軍を、咸陽と漢中の間に配置しました。

 自らは『西楚の覇王』と名乗り、都は故郷の『彭城』(ほうじょう)としました。

 壊王心は『義帝』として楚王より格上げを行いましたが、その実は傀儡だったようです。

帝すらも廃した項羽は、各地で独立を画策する勢力の、討伐に赴く

 項羽が任命した各地の王の中で、次々と不穏な動きが現れてきました。混乱する各地に自ら出陣した項羽は、遠征先から義帝に使者を出すと、半ば強制的に遷都(都を移すこと)を実行します。義帝は彭城を追い出されるように、発ちました。しかし、遷都先の江南で待ち構えていた項羽配下の鯨布は、項羽の命令で義帝を斬り捨ててしまいます。

 祖国のために立ち上がり、敵討ちを果たした項羽はどこで歪んでしまったのでしょうか。とうとう主殺しの反逆まで犯してしまいました。

 項羽に対して不満を持つ者も多かったようです。特に楚から遠い東に配置された王達は、反乱を起こしてしまいました。

宿敵・劉邦は関中を制したが、戦の天才である項羽には敵わず

 関中に左遷されながらも、劉邦は密かに力を蓄えていました。「韓信」(かんしん)を大将軍とし、自らは章邯らが守る咸陽方面に向かって、進軍を開始したのです。韓信は元は項羽に仕えていましたが、そこでは重用されず離反。劉邦に才能を見込まれ、いきなり大将軍に抜擢されていました。そうした配下らの活躍もあり、劉邦は章邯らを撃破、関中を完全に手中に治めることに成功しました。

 劉邦は、項羽が義帝を殺害したことを知ると、主殺しの大罪人として、各地に打倒項羽の号令を発します。そうして集まった反楚連合軍は56万もの大軍となり、項羽不在の彭城をあっという間に陥落させてしまいました。

 彭城陥落の報を受け、項羽はたった3万の軍勢で突撃します。これまでの勝者と同じように劉邦は油断しきっていました。臣下に窘められ禁じていた財宝・美女に溺れてしまっていたのです。配下たちもすっかり油断しきっており、兵力では圧倒的に勝っていたはずが、敗北してしまいました。

 反楚連合軍は逃げまどい、城外へと逃走、彭城近くの睢水(すいすい・川)で追いつめられると次々と打ち取られました。その凄まじい攻勢は、連合軍の死体で川の流れがせき止められてしまうほどでした。

 こうして、形勢は一夜にして逆転してしまいました。反楚連合軍は、解散を与儀なくされたのです。やはり戦においては、項羽の右に出る者はいなかったのでしょう。

反楚連合軍は壊滅寸前だったが、楚軍内部にもまた不穏な空気が広がる

 彭城の戦いで、劉邦を打ち負かした項羽ですが、その軍内にも怪しい動きがありました。まずは鯨布、項羽との信頼関係が崩れていることに感づいた劉邦は、「隋何」(ずいか)という人物を派遣、なんと鯨布は説得に応じ劉邦軍に降ってしまうのです。

 次は范増。彼は、項梁が楚軍を起こした頃からの付き合いであり、項羽にとっては信頼に足る人物であったはずです。劉邦は楚軍に「項羽の側近の中で不満を感じ、劉邦軍と通じている者がいる」という流言を流します。項羽は真偽を探るために、劉邦のもとへと使者を送りました。すると劉邦は、到着した使者を見て「范増殿の使者かと思えば、項羽の使者か」と、膳を下げてしまいました。このことが項羽の耳に入ると、項羽は范増に対して疑念を抱くことになるのです。

 范増は策士であり、項羽の頭の中などお見通しだったのでしょう。「天下は決した。故郷で大人しく骨を埋める」というと、項羽のもとを去ってしまうのです。しかし、范増の想いは届かず、故郷に着く前に病死してしまいました。

 もはや項羽は疑心暗鬼になっており、疑念が疑念を生んでいたのでしょう。彼が心から信頼出来る人物はいたのでしょうか。

\次のページで「いよいよ劉邦を追いつめた項羽。劉邦降伏の知らせが届く」を解説!/

いよいよ劉邦を追いつめた項羽。劉邦降伏の知らせが届く

 范増が病死した月の翌月、一進一退の攻防を続けていた項羽と劉邦でしたが、ついに項羽は劉邦自らが籠る城を包囲します。劉邦率いる漢軍は食料が尽きてしまい、どうにもいかなくなっていました。項羽も劉邦の軍の様子を理解しており、勝利を確信していたのだと思います。

 劉邦が降伏するという知らせを受け取ると、あっさりと信じてしまうのです。包囲を解き、全軍で劉邦を迎え入れることにしました。

 敵大将を乗せた車が見えると、楚軍は万歳で迎えます。車を降りた劉邦が兜を取ると、そこには全く知らない顔がありました。これは劉邦の策でした。楚軍がおとりに気を取られている間に数十騎の共とともに、包囲を解かれた死地を脱出していたのです。

 項羽は怒り心頭で、おとりの男を釜で煮殺してしまいました。

2人の英雄は広武山で、再び邂逅する

 いつ終わるとも知れない戦乱。項羽と劉邦、この2人の英雄の決着は中々つかず、ついに広武山の上で直接対峙することとなります。

 「この長き戦乱、責任は我々にある。今ここで決闘し、決着をつけよう」

 項羽は劉邦に対して、こう声をかけましたが、劉邦は応じません。

 「お前のような大罪人の言葉、誰が信じよう。その昔、宋義将軍を斬ったのは独断であろう。義帝の命令に逆らい咸陽に入り、罪のない秦王を殺害した。義帝を追いやり、殺害。天下をほしいままにしている。私は義士を率い、お前のような賊を誅殺するためにここにいるのだ」

 項羽の悪行はこうして、衆人の前で晒されることとなりました。もはや項羽に大儀などありません。戦上手の項羽も、今回は完全にお手上げでした。万策尽きた項羽は、劉邦に向かって矢を撃たせます。矢は劉邦の胸に当たりますが、劉邦有利の雰囲気を保つため、指に当たったフリをし凌ぎ切ったのです。

垓下で追いつめられた項羽の耳に入ってきたのは、故国『楚』の歌

 広武山の邂逅で、講和の約定を結んでいた項羽と劉邦でしたが、劉邦にとってはあくまで時間稼ぎでした。大将軍である韓信が合流すると、劉邦は総攻撃を開始します。

 項羽はその劉邦軍の攻勢に押され『垓下』(がいか)で包囲されてしまいますが、戦の天才である項羽の軍は精強で、中々打ち崩すことが出来ませんでした。

 そんなある晩、項羽の耳に、祖国『楚』の歌が聞こえてきます。四面を包囲した劉邦軍から聞こえてきたものであり、やがて戦場一帯を覆うものとなりました。項羽軍の兵士達は涙を流し始めます、次々に投降していきました。

 敵軍には、これほどまでに楚の人間がいるのか。これほどの楚人が降ってしまったのか。ここまで猛進し続けてきたのは全て故郷のため。しかし、今やその故国は己を必要とはしていない。

 この時の項羽の絶望は計り知れないものでしょう。

それでも慕う将兵のため、項羽は包囲を突破する

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 四面から聞こえる楚の歌。これから故事『四面楚歌』が生まれました。

 故国『楚』に必要とされなくとも、項羽には未だ己を慕う兵がいました。その数はおよそ800騎。包囲網の南の突破を試みます。劉邦軍はおよそ5000の騎馬で追撃を行いました。追撃を振り切り、淮水を渡る頃にはその数は100騎あまりになっていました。

 途中、道を尋ねた農夫に騙され、劉邦軍に追いつかれます。この時に項羽のもとにいた兵は、28騎になっていました。項羽はこれを4隊にわけると1隊を率い、劉邦軍の将、さらには100人近くの兵士を斬っていきます。項羽が長江を渡ろうと『烏口』(うこう)というところに着くころには2騎を失っていました。

 烏口の役人が船を用意しており「江東は小さなところですが、土地は千里、人は万人おります。どうかそこで王となって下さい。船はこれ一隻、漢軍は追撃など出来ませんでしょう」と項羽を乗せようとしますが「故郷の子弟8000人を連れて行き、皆無駄死にさせてしまった。もう誰一人残ってはいない。そんなものが故郷に帰れるものか、皆が許しても私が許せない。なぜ恥を感じずにいられようか」と断りました。

 項羽は、愛馬である騅(すい)と兵士たちを船に乗せると、追撃に現れた漢軍に立ち向かいました。自ら数百人の敵兵を打ち取ると、追手の中に旧知の顔を見つけます。項羽は、劉邦が自身の首に領地をかけていることを知っていました。その者にくれてやる、と自ら首を刎ねて自害したのです。

 自害した項羽の身体には、兵士が群がり、その場で殺し合いが起きたといいます。項羽31歳でした。

誰よりも、故国を愛した男

項羽は、始皇帝の秦から劉邦の漢の間までにその一生を散らした武将です。項羽が行おうとしていたのは、秦のような中央集権ではなく、各地を各王が治める形でした。誰よりも故国を愛し、故国を奪われた幼少を過ごしたからこその想いだったのでしょう。故国を大切に、様々な国と王とを存続させようと奔走する項羽は、ただただ素直でひたむきな青年に見えて仕方がありません。

劉邦もまた、項羽を大罪人と断じながらも、丁重に葬り、その墓の前では涙したと言います。

宿敵すらも惹きつける項羽の魅力は、素直すぎるほどの、ひたむきな生き様なのでしょう。

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

『四面楚歌』の語源となった、西楚の覇王「項羽」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は中国の武将「項羽」について、勉強していこう。「項羽」について勉強するには、有名な諺「四面楚歌」のことを知ると良いでしょう。まわりが敵ばかりで、味方のいないことという意味の「四面楚歌」。言葉は知っていても、その成り立ちを知る人は少ないと思う。「項羽」の人生を追いながら、最後の戦い「垓下の戦い」までをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は項羽について、わかりやすくまとめた。

幼い頃に国が滅び、叔父の下で過ごした幼少時代

Xiang Yu.jpg
By ShangGuan Zhou(上官周) – This image was carried on the book which is called “Wan hsiao tang-Chu chuang -Hua chuan(晩笑堂竹荘畫傳)”., パブリック・ドメイン, Link

 項羽(こうう)の本名は、「項籍」(こうせき)といいます。羽(う)とは字(あざな)であり、今回は一般的に知られている「項羽」(こうう)の名で勉強していきましょう。

 項羽の父は早死し、叔父の「項梁」(こうりょう)の下で育ちます。項羽は『楚』(そ)という国の将軍の家系に生まれ、祖父の「項燕」(こうえん)は楚の将軍にして、民衆の英雄でした。幼い頃からそんな環境にいた項羽は、当時としては非常に高い教育をうけました。

 ある時、項羽は文字を学びましたが、途中で学ぶことをやめてしまいました。ある時は剣術を学びましたが、これもまたすぐにやめてしまいます。叔父の項梁は、そんな項羽を叱りつけますが「文字は自分の名が書ければ良い、剣術は所詮1人の相手しかしない。もっと万人を相手にするようなことをしたい」と返す項羽に、項梁は兵法を教えることにしました。

 これには興味を引かれた項羽は、あっという間にその殆どを把握しまいました。しかし、全てを修めるまでにはいかず、途中でやめてしまうのです。

 項羽が9歳の時に、『秦』(しん)によって滅ぼされ、『呉』(ご)に亡命することとなります。この時に最期まで戦ったのが、項羽の祖父であり、将軍であった項燕でした。

始皇帝亡き後の秦王政に対して起こった大反乱、それに乗じて叔父と共に挙兵する

 項羽の一族は呉に亡命を果たし、この頃の項梁は、呉の官職達に慕われていたようでした。項羽は180cmを超える大男に成長し、当時の単位で三石(およそ90kg)ほどにもなるという鼎(かなえ・儀礼用の釜)を持ち上げることが出来たそうです。

 紀元前209年、項羽が24歳の時に、大反乱が起きました。この頃中央では、始皇帝の後を継いだ二世皇帝の信頼を得た宦官・「趙高」(ちょうこう)の専横が始まっていたのです。この反乱のリーダーは「陳勝」(ちんしょう)・「呉広」(ごこう)という者達でした。

 2人のリーダーはそれぞれ、扶蘇(ふそ)・項燕(こうえん)と名乗りました。扶蘇は趙高に冤罪で自害を強要され、項燕は項羽の祖父です。この2人は民衆の英雄であり、そのどちらも生死を確認出来ていなかったため、詐称した彼らに民衆はついていきました。彼らは、滅んだ項羽の故国『楚』の名を借り『大楚』と国号(国の名前)を打ち立てて、秦に向かいました。

 この時の項羽は項梁に連れられ、その地の守(守護役)である『殷頭』(いんとう)の下へと参じていました。項梁の目配せを受けた項羽は、その場にいた殷頭を始め、100人以上を斬り捨てました。こうして項梁は、守の地位を奪うと、項羽はその副将となりました。

反乱の中での、宿敵劉邦との共闘、そして叔父の死

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 反乱軍のリーダーの1人である陳勝は、連戦連勝を重ね、段々と傲慢になっていきました。なんと自ら王に即位し『大楚』を『張楚』と改めました。そんな陳勝らに不満を持つ将が、陳勝の命令と偽って、呉広を殺害してしまいます。全く身に覚えのない陳勝ですが、司令官の不在を危険とし、やむなく呉広を殺害した将を副将に任命しました。

 秦の将軍である『章邯』(しょうかん)は、囚人を強制的に取り立て大軍を形成すると、次第に秦軍有利となっていきました。そして張楚軍を打ち破ります。敗走中の陳勝は、間もなく発見・殺害され、その首を秦軍に献上されてしまいました。

 陳勝死すの知らせは、項梁の下にも届きます。この頃の項梁軍には、多くの軍勢が従い、大軍となっていました。項梁は諸将を集めると、今後の策を練り始めます。そこに参加したのは、猛将・「鯨布」(げいふ)、平民からのし上がった「劉邦」(りゅうほう)、そして齢70歳を超えた策士・「范増」(はんぞう)などでした。

 項梁は、范増の「陳勝の敗因は自ら王となったため。楚の将を従えるには、あなた自身は楚の将軍として、楚王の子孫を打ち立てる必要がある」という進言を聞き入れ、民間で羊飼いをしていた楚の前王である「壊王」(かいおう)の孫・「心」(しん)を迎え入れ『壊王心』として即位させました。

 一方項羽は、いずれ宿敵となる劉邦と共に別動隊として秦軍を攻め続けていました。彼らの活躍はすさまじく、連戦連勝でした。そのせいでしょうか、項梁にも先の陳勝と同じように、傲慢な一面が見え始めてきたのです。彼に仕えていた元楚の宰相「宋義」(そうぎ)は、項梁にその点を指摘しますが、宋義の懸念は的中し、項梁は秦の章邯軍の攻勢の前に、あえなく戦死してしまいました。

若干26歳の項羽は、上官である宋義を斬り楚軍のトップとなる

 叔父・項梁の死は、項羽の運命を大きく変えていきました。

 項梁の後釜には、彼へ忠告を行った宋義が任命されました。この時に、壊王心は諸将にとある約束をします。「咸陽(かんよう・秦の本拠地)に一番乗りを果たした者には、秦の土地をそのまま与える」というものです。

 宋義軍は、項羽を含めた各地の諸侯を終結させ、北へと軍を進めました。その先には同じく秦軍と戦っていた趙(ちょう・国のひとつ)がいました。しかし劉邦の軍だけは、なぜか西の『函谷関』(かんこくかん)を目指すこととなりました。

 趙軍が駐屯する砦は、既に秦軍に包囲されていました。その司令官は叔父・項梁の仇である章邯であり、その姿を前に項羽は熱り立ちます。さっそく救援を、というところで宋義軍は進軍を停止させてしまいました。趙軍の救援を進言する項羽でしたが、宋義は聞く耳を持ちません。真冬の大雨の中、震える兵達を目にした項羽は、すぐさま行動に移します。

 項羽は、宋義の陣中に侵入すると「宋義は謀反を企てていた。楚王は密かに私に誅殺を命じたのだ」と彼を殺害してしまいました。これを知った壊王心はやむなく項羽を将軍とし、諸侯は皆項羽を恐れて彼に従うことにしたのです。こうして、項羽は楚軍のトップに躍り出ます。この時の項羽は、わずか26歳でした。

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