日本史歴史飛鳥時代

大化の改新で政治を変えた「中大兄皇子」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

3.「白村江の戦い」での大敗

百済からの救援要請

アジアの中心として君臨していた「唐」。当時の皇帝は三代目の高宗で、奥さんの武則天(則天武后)は悪女としてその名をとどろかせた人ですね。

また、当時の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三つの国が勢力争いを繰り広げている状態でした。しかし、やや新羅が他の二国に押され気味だったのです。そこで新羅は唐の政治制度や唐風化政策を積極的に取り入れ、唐との親交を深めていきました。そして、660年に唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼしたのです。

大和朝廷と百済は当時親密な関係を築いていましたから、この一大事に協力しない選択はありません。百済の復興を目指す遺臣たちの反乱を支援するために大和朝廷は朝鮮半島へ出兵して唐と新羅の連合軍と戦うことを決めます。これが白村江(はくのすきえ)の戦いです。

思わぬ落とし穴

朝鮮半島への出兵を決めた斉明天皇(重祚した皇極天皇)は、難波宮から自ら兵を率いて海路で九州へ出立します。しかし、いざ出征を目の前にして崩御してしまうのです。それでも出兵はやめられません。息子であり、皇太子であった中大兄皇子が大将に就任して朝鮮半島へ向かいました。この出兵こそ、日本で最初となる国外での戦争です。

最初こそ百済南部にいた新羅軍に勝ったりと日本が優勢な状況にありました。しかし、百済の新王・余豊璋は遺臣のひとりだった鬼室福信の謀反を疑って仲違いした挙句に処刑してしまいます。この事件の影響で到着が十日も遅れてしまった日本の増援が、白村江で唐の水軍7000人と予定外に交戦することとなったのです。

白村江の戦いで大敗

ここで日本は唐の水軍から火矢を浴びせられ、さらに干潮に苦しめられて海上戦は惨敗。陸上も唐と新羅の連合軍に破れ、大敗を喫することとなりました。

海戦の際に日本と百済の連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」。つまり、「自分たちが先を争うように突撃すれば、敵は勝手に退却していくだろう」というもの。作戦と呼べますかね、これ。しかも、白村江の潮の満ち引きが大きい場所だという情報を日本と百済に知るものはいませんでした。

仲間割れにずさんな作戦、さらに地理の把握漏れと、負け要素ばかりのひどい状況で、多くの人々が命を落しました。

日本、侵略の危機に怯える

白村江の戦いで百済の復興が不可能になったのと同時に、敗戦国となった大和朝廷。日本は唐による侵略を受ける危険性がぐっと高まります。唐の復讐を恐れた中大兄皇子は、都を日本列島のもっと内側の近江大津宮(滋賀県大津市)に遷し、668年に天智天皇として即位しました。そして、唐の侵略に備えて国防に力を入れはじめます。

飛行機のない時代ですから、当然、敵は海から攻めてきますよね。なので、大陸と日本の玄関口だった北九州の大宰府に水城という堀と土塁でできた防衛施設を建設して、防人を配備しました。それも九州の人では足りずに東からも人を派遣して増強をはかります。太宰府だけでなく、対馬や隠岐など日本海側に防人を置くことも忘れません。さらに都付近にも山城という防御施設を築き、守りを固めていきます。

「庚午年籍」をつくって国民把握

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唐の侵略から国を守るためには人も必要ですが、拠点を築くための資金もたくさん必要になりますよね。そこで、天智天皇は670年に全国規模の戸籍「庚午年籍」を作成します。

この戸籍によって正確に国民を把握して徴兵と徴税を確実に行おうとしたのです。その結果、この戸籍は侵略への備えだけでなく、人々の所在地や租税収入の予測に大変役立つことになりました。

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