蘇我氏が大和朝廷を牛耳った飛鳥時代、専横を極める蘇我氏のあまりにもひどい振る舞いに立ち上がったのが「中大兄皇子」です。彼は中臣鎌足と一緒にクーデターを企て、見事に蘇我氏を倒すと日本の在り方を変える「大化の改新」をつくる。

今回は「中大兄皇子」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。今回は中大兄皇子にスポットライトを当てて飛鳥時代をさらに詳しく解説していく。

1.朝廷を支配する蘇我氏へのクーデター

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暴虐無人に権勢を誇る蘇我氏

聖徳太子が制定した「冠位十二階」や「十七条の憲法」によって天皇中心の社会を目指した大和朝廷。豪族たちが勝手を働いて権力や財力を肥大化させないように目を光らせていました。

しかし、聖徳太子が亡くなるやいなや、最も権力を持っていた蘇我氏が力を取り戻します。そうして、蘇我氏は聖徳太子の息子・山背大兄王をはじめとした太子の一族を自害へ追い込んで滅ぼしてしまうのです。さらに蘇我氏は自分たちが推薦した舒明天皇を即位させ、次の天皇として蘇我氏の長・蘇我入鹿のいとこにあたる古人大兄皇子を擁立していました。

天皇を越えた権力を持ち、暴虐無人な振る舞いを続ける蘇我一族。けれど、とうとうその命運が尽きる時がきたのです。

中大兄皇子と中臣鎌足が起こした乙巳の変

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた第二皇子でした。皇位を継ぐのに申し分のない生まれでしたが、次代の天皇すら蘇我氏が決めてしまうような世の中です。もし仮に天皇になれたとしても、過去には蘇我氏によって暗殺された天皇もいたくらいですから、中大兄皇子が思い描くような政治を行うのは難しいでしょう。

しかし、蘇我氏による山背大兄王とその一族もろとも抹殺したひどい事件をきっかけに中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がります。

クーデターを成功させるためにはまず、蘇我氏の長でとても疑り深い蘇我入鹿から刀を奪い、護衛もいない状態にしなければなりません。そこで、中大兄皇子は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅から使節が来たので天皇に貢物を渡す儀式をする、とウソをついて皇居に蘇我入鹿を呼び出したのです。

暗殺のあらまし

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中大兄皇子たちの計画では、事前に仲間に引き入れていた蘇我倉山田石川麻呂が、使節からの手紙を読み上げている最中に暗殺を実行する予定でした。中大兄皇子は槍を、中臣鎌足は弓を持って隠れ、その時を待ち構えます。

最初は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田というふたりの男が蘇我入鹿に斬りかかる手はずでした。しかし、蘇我入鹿に対する恐怖の中、誰もが緊張して計画通りに動けません。手紙を読む蘇我倉山田石川麻呂が震え出し、とうとう蘇我入鹿が不審を抱きはじめます。このまま失敗してしまうのではないかと計画が危ぶまれた時、中大兄皇子自ら飛び出して蘇我入鹿を斬りつけ、彼を殺害したのでした。

中大兄皇子たちが蘇我入鹿を暗殺したこのクーデターを「乙巳の変」といいます。

蘇我氏の中心人物だった蘇我入鹿を失い、父の蘇我蝦夷は屋敷に立てこもって抵抗を試みましたが、瞬く間に中大兄皇子たちに取り囲まれてしまいました。蘇我氏の味方をしていた豪族たちも次々と中大兄皇子たちの説得に寝返っていきます。打つ手がなくなった蘇我蝦夷は自ら邸宅に火を放ち、これにて栄華を誇った蘇我氏の最期となりました。

2.大化の改新スタート

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日本初、年号の制定

大和朝廷を牛耳り続けた蘇我氏がいなくなり、皇太子の座についた中大兄皇子は政治の改革をはじめます。その最初に決まったのが年号の制定でした。私たちにも馴染みのあるものですが、飛鳥時代から実装されたものなんですね。そして、一番最初の年号は「大化」。なので、これから行われる一連の改革を「大化の改新」といいます。

ちなみに、今日日年号は天皇一代につきひとつと決まっていて、改号するのは天皇が代わるときのみです。けれど、この時代では凶事があったり、逆に良い事があったという理由だけでころころ変えてしまいます。

難波宮から「改新の詔」

天皇は皇極天皇から孝徳天皇へ譲位され、中大兄皇子は皇太子になりました。皇太子とはいえ、実権はクーデターの功労者の中大兄皇子にあります。

朝廷は飛鳥から大阪の難波宮へ遷都して、そこで「改新の詔」を発表しました。

「改新の詔」で出されたのは下記の四つ政策で、これによって国家の仕組みを改め、天皇を中心とした中央集権国家を目指したのです。

公地公民

すべての土地と民は公のものと定めるもの。「公」とはこの時代ではすなわち、「天皇」を指します。土地も、そこに住む人々もみんな天皇のものだよ、ということになります。

班田収受の法

国民の戸籍を作り、ひとりひとりに田んぼを貸し与える制度です。与えられた田んぼは「口分田」と呼ばれました。しかし、もちろんタダ貸してくれるわけではなく、与えられた面積に応じて税金がかけられます。さらに、この田んぼは与えられた本人がなくなると国に返さなければならない土地でした。

租庸調制

簡単に言うと三種類の税金徴収制度です。

まず、班田収授の法で借りた口分田で収穫した米の3%~10%を税として納める「租」。

「傭」は一定期間都にいてタダで労働して納める税でした。しかし、地方に住む人たちは簡単に都に行くことはできません。そこで、労働力の代わりに布や塩などを納めることもできました。

最後に、各地は特産物を納める「調」です。

国郡里制

全国を約60の国に分け、国の中を郡、郡の中を里に分けた制度。これは今の県や市と同じようなものですね。県知事や市長と同じように、それぞれトップに国司、郡司、里長を置きます。ただし、彼らは選挙で選ばれた人ではなく、国が任命した役人です。

\次のページで「3.「白村江の戦い」での大敗」を解説!/

3.「白村江の戦い」での大敗

百済からの救援要請

アジアの中心として君臨していた「唐」。当時の皇帝は三代目の高宗で、奥さんの武則天(則天武后)は悪女としてその名をとどろかせた人ですね。

また、当時の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三つの国が勢力争いを繰り広げている状態でした。しかし、やや新羅が他の二国に押され気味だったのです。そこで新羅は唐の政治制度や唐風化政策を積極的に取り入れ、唐との親交を深めていきました。そして、660年に唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼしたのです。

大和朝廷と百済は当時親密な関係を築いていましたから、この一大事に協力しない選択はありません。百済の復興を目指す遺臣たちの反乱を支援するために大和朝廷は朝鮮半島へ出兵して唐と新羅の連合軍と戦うことを決めます。これが白村江(はくのすきえ)の戦いです。

思わぬ落とし穴

朝鮮半島への出兵を決めた斉明天皇(重祚した皇極天皇)は、難波宮から自ら兵を率いて海路で九州へ出立します。しかし、いざ出征を目の前にして崩御してしまうのです。それでも出兵はやめられません。息子であり、皇太子であった中大兄皇子が大将に就任して朝鮮半島へ向かいました。この出兵こそ、日本で最初となる国外での戦争です。

最初こそ百済南部にいた新羅軍に勝ったりと日本が優勢な状況にありました。しかし、百済の新王・余豊璋は遺臣のひとりだった鬼室福信の謀反を疑って仲違いした挙句に処刑してしまいます。この事件の影響で到着が十日も遅れてしまった日本の増援が、白村江で唐の水軍7000人と予定外に交戦することとなったのです。

白村江の戦いで大敗

ここで日本は唐の水軍から火矢を浴びせられ、さらに干潮に苦しめられて海上戦は惨敗。陸上も唐と新羅の連合軍に破れ、大敗を喫することとなりました。

海戦の際に日本と百済の連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」。つまり、「自分たちが先を争うように突撃すれば、敵は勝手に退却していくだろう」というもの。作戦と呼べますかね、これ。しかも、白村江の潮の満ち引きが大きい場所だという情報を日本と百済に知るものはいませんでした。

仲間割れにずさんな作戦、さらに地理の把握漏れと、負け要素ばかりのひどい状況で、多くの人々が命を落しました。

日本、侵略の危機に怯える

白村江の戦いで百済の復興が不可能になったのと同時に、敗戦国となった大和朝廷。日本は唐による侵略を受ける危険性がぐっと高まります。唐の復讐を恐れた中大兄皇子は、都を日本列島のもっと内側の近江大津宮(滋賀県大津市)に遷し、668年に天智天皇として即位しました。そして、唐の侵略に備えて国防に力を入れはじめます。

飛行機のない時代ですから、当然、敵は海から攻めてきますよね。なので、大陸と日本の玄関口だった北九州の大宰府に水城という堀と土塁でできた防衛施設を建設して、防人を配備しました。それも九州の人では足りずに東からも人を派遣して増強をはかります。太宰府だけでなく、対馬や隠岐など日本海側に防人を置くことも忘れません。さらに都付近にも山城という防御施設を築き、守りを固めていきます。

「庚午年籍」をつくって国民把握

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唐の侵略から国を守るためには人も必要ですが、拠点を築くための資金もたくさん必要になりますよね。そこで、天智天皇は670年に全国規模の戸籍「庚午年籍」を作成します。

この戸籍によって正確に国民を把握して徴兵と徴税を確実に行おうとしたのです。その結果、この戸籍は侵略への備えだけでなく、人々の所在地や租税収入の予測に大変役立つことになりました。

\次のページで「4.後継者を巡って壬申の乱」を解説!/

4.後継者を巡って壬申の乱

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天智天皇の死

蘇我氏へのクーデターから日本のトップとして走り続けた天智天皇。しかし、「庚午年籍」を作成した翌671年の年の瀬に帰らぬ人となります。その死は具体的な内容は歴史書に書かれていないため、暗殺説などもささやかれるほどでした。

天智天皇の跡継ぎ問題

この時代の皇位継承権は天皇の息子より、天皇の兄弟や配偶者のほうが先でしたから、天智天皇の次の天皇は「弟の大海人皇子」と決まっていました。しかし、「息子の大友皇子」が成長すると次第に皇太子に推されるようになります。

そんな状況のなか、天智天皇は重い病にかかってしまいました。そして、弟の大海人皇子を枕元に呼び出すと、「天皇の座を継いでほしい」と後事を託そうとするのです。それに対して大海人皇子は「天皇の病気が治るよう祈るために出家いたします」と辞退して吉野に去っていきました。「出家する」ということは「俗世を捨てること」で、煩わしい人間関係や権力争いから遠ざかることを意味します。けれど、このとき多くの近臣たちが大海人皇子について吉野へ行ってしまったために、吉野で新たな勢力が生まれることとなったのです。

そうして、いよいよ天智天皇が崩御すると大海人皇子が挙兵して大友皇子と戦う「壬申の乱」が起こりました。乱の結果、精鋭を率いた大海人皇子の勝利となり、天武天皇として即位します。

朝廷を刷新した中大兄皇子

朝廷を変えるクーデターを起こした中大兄皇子。後半の「白村江の戦い」での大敗、そして皇位継承をめぐって「壬申の乱」も含め、古代日本で起こった波乱の中心人物でもありました。

戦いや政治面がピックアップされますが、和歌の才能もある人でした。後世に藤原定家が編纂した小倉百人一首は天智天皇の歌から始まりますよ。

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日本史歴史飛鳥時代

大化の改新で政治を変えた「中大兄皇子」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

蘇我氏が大和朝廷を牛耳った飛鳥時代、専横を極める蘇我氏のあまりにもひどい振る舞いに立ち上がったのが「中大兄皇子」です。彼は中臣鎌足と一緒にクーデターを企て、見事に蘇我氏を倒すと日本の在り方を変える「大化の改新」をつくる。

今回は「中大兄皇子」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。今回は中大兄皇子にスポットライトを当てて飛鳥時代をさらに詳しく解説していく。

1.朝廷を支配する蘇我氏へのクーデター

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暴虐無人に権勢を誇る蘇我氏

聖徳太子が制定した「冠位十二階」や「十七条の憲法」によって天皇中心の社会を目指した大和朝廷。豪族たちが勝手を働いて権力や財力を肥大化させないように目を光らせていました。

しかし、聖徳太子が亡くなるやいなや、最も権力を持っていた蘇我氏が力を取り戻します。そうして、蘇我氏は聖徳太子の息子・山背大兄王をはじめとした太子の一族を自害へ追い込んで滅ぼしてしまうのです。さらに蘇我氏は自分たちが推薦した舒明天皇を即位させ、次の天皇として蘇我氏の長・蘇我入鹿のいとこにあたる古人大兄皇子を擁立していました。

天皇を越えた権力を持ち、暴虐無人な振る舞いを続ける蘇我一族。けれど、とうとうその命運が尽きる時がきたのです。

中大兄皇子と中臣鎌足が起こした乙巳の変

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた第二皇子でした。皇位を継ぐのに申し分のない生まれでしたが、次代の天皇すら蘇我氏が決めてしまうような世の中です。もし仮に天皇になれたとしても、過去には蘇我氏によって暗殺された天皇もいたくらいですから、中大兄皇子が思い描くような政治を行うのは難しいでしょう。

しかし、蘇我氏による山背大兄王とその一族もろとも抹殺したひどい事件をきっかけに中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がります。

クーデターを成功させるためにはまず、蘇我氏の長でとても疑り深い蘇我入鹿から刀を奪い、護衛もいない状態にしなければなりません。そこで、中大兄皇子は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅から使節が来たので天皇に貢物を渡す儀式をする、とウソをついて皇居に蘇我入鹿を呼び出したのです。

暗殺のあらまし

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中大兄皇子たちの計画では、事前に仲間に引き入れていた蘇我倉山田石川麻呂が、使節からの手紙を読み上げている最中に暗殺を実行する予定でした。中大兄皇子は槍を、中臣鎌足は弓を持って隠れ、その時を待ち構えます。

最初は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田というふたりの男が蘇我入鹿に斬りかかる手はずでした。しかし、蘇我入鹿に対する恐怖の中、誰もが緊張して計画通りに動けません。手紙を読む蘇我倉山田石川麻呂が震え出し、とうとう蘇我入鹿が不審を抱きはじめます。このまま失敗してしまうのではないかと計画が危ぶまれた時、中大兄皇子自ら飛び出して蘇我入鹿を斬りつけ、彼を殺害したのでした。

中大兄皇子たちが蘇我入鹿を暗殺したこのクーデターを「乙巳の変」といいます。

蘇我氏の中心人物だった蘇我入鹿を失い、父の蘇我蝦夷は屋敷に立てこもって抵抗を試みましたが、瞬く間に中大兄皇子たちに取り囲まれてしまいました。蘇我氏の味方をしていた豪族たちも次々と中大兄皇子たちの説得に寝返っていきます。打つ手がなくなった蘇我蝦夷は自ら邸宅に火を放ち、これにて栄華を誇った蘇我氏の最期となりました。

2.大化の改新スタート

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