日本史歴史江戸時代

農政家で財政立て直しの達人「二宮金次郎」について歴女がとことん解説

3-4、金次郎のやり方は、報徳仕法と呼ばれるように

金次郎の桜町復興の功績は各地に知れ渡り、再興事業の依頼が相次ぐように。金次郎が生涯に再興を請け負った土地は、現在の9県と北海道にまたがる600村に及ぶということ。

金次郎は、各地の再興事業での実績に加え、独自の哲学である「報徳思想」で後世にも大きな影響を与えました。報徳思想は、父母、夫婦、兄弟、天地大自然から受けている恩徳に感謝して、それに報いる行動を行うべきだという道徳思想のこと。金次郎が指揮した各地の再興事業は、この思想に基づいて行われたので「報徳仕法」と呼ばれるように。

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報徳思想
報徳思想は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つを中心的な理念となしているということ。このなかの「分度」は、自分の収入に応じた支出の限度を前もって算出することで、倹約と儲蓄の基礎となるという、いわば分際をわきまえるというやり方。金次郎は、個人だけでなく家や国家にも分度を求めたんですね。そして「推譲」は利他の思想で、分度を守って余剰が生じた場合は、他人や社会のために用いるよう求めたということ。

金次郎の高弟である福住正兄(ふくずみまさえ)は、報徳思想を「道徳経済一元論」と総括、克己と節制、利他主義に基づき経済活動を行うことで、国家や社会の安定と繁栄につながるという意味。

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3-5、金次郎、晩年には幕臣に

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By 岡本秋暉((1807-1862) – 報徳博物館蔵, パブリック・ドメイン, Link

その後の金次郎は天保4年(1833年)に起こった天保の大飢饉で、藩命を受けて各地の領民を救済したり、大名家の家政を改善したりしています。

そして金次郎は、天保13年(1842年)幕府に召し抱えられて普請役格となり、印旛沼開拓、利根川利水について提案を行ったが、採用されず、翌年には幕府直轄領の下総大生郷村の仕法を、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられたということ。弘化2年(1845年)には下野真岡の代官山内氏の属吏として真岡に移住。

安政3年(1856年)に日光神領を回り日光奉行の配下で仕法を施していたときに3度目の病で、下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で享年70歳で病没。

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4-1、金次郎の逸話

事実かどうか確認できないようですが、金次郎の弟子の書いた伝記由来の代表的な逸話が色々とあり、また金次郎の偉業は現代にも影響を及ぼしています。

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4-2、小田原で武家に奉公していた頃

金次郎は、役人が不正な枡を使い量をごまかして差分を横領していたので、一斗枡を改良して藩内で統一規格化させることで不正を防いだということ。

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4-3、桜町領を復興していた頃

金次郎は夏前にナスを食べたところ、秋ナスの味がしたことで、その年は冷夏になると予測。村人たちに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせたということ。そして金次郎の予測通りに冷夏となって、天保の大飢饉が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったために餓死者が出ず、余ったヒエを周辺の村々にも分けたそう。

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えっ、ナスの味で冷夏だとわかったのか、それで飢饉の備えが出来たってすごくないか。

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