日本史歴史江戸時代

農政家で財政立て直しの達人「二宮金次郎」について歴女がとことん解説

2-3、金治郎、家老の家政も立て直す

金次郎はその後、依頼を受けて服部家の財政再建を引き受け、厳しい緊縮策を実施。金次郎は5年計画の節約で立て直しを約束、文化11年(1814年)には服部家の財務を整理して千両の負債を償却、余剰金300両まで出したということ。しかし金次郎自身は一銭の報酬も受け取らなかったので、小田原藩内で評判になり名前が知られるように。そして小田原藩主で老中大久保忠真(ただざね)に見出され藩政改革を行おうとしたが、金次郎の身分が低いため重臣に反対されてなかなか実現せず。

また金次郎の「五常講」は、文政3年(1820年)、小田原藩の出資で藩全体の武士が対象の制度に発展。これは世界最初の協同組合、信用組合とされることも。明治時代に成立した「産業組合法」は、金次郎の「五常講」とドイツの「救済貸付組合」を参考にしたということです。

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すごいぞ、5年で立て直してしかも報酬受け取らずか、こうなると仕事というより生きがいだったのかもな。

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2-4、金次郎、最初の結婚は失敗、すぐに再婚

文化13年(1816年)、金次郎は弟友吉(常五郎)を本家の長男三郎左衛門の養子にやり、自分も最初の妻と結婚。しかし文政2年(1819年)、長男が生まれてすぐ夭折した後、家風に合わないと妻きのが申し出て、離縁。翌年、34歳の金次郎は16歳のなみと再婚。この女性は賢夫人と言われ、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)が誕生。

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3-1、金次郎、桜町領復興に着手

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文政4年(1821年)金次郎は、藩主大久保家の分家である宇津氏の領地で、現在の栃木県にあった桜町領の立て直しを命じられたが、3年間固辞し続けた後に拝命。身分制度が厳格な時代に、農民が藩士として登用され、領地の再興を任されるのは極めて異例。文政6年(1823年)、金次郎は名主役柄で、石高5石二人扶持の待遇となり、移動料米50俵、仕度料米200俵50金を支給されて、家族で桜町に移住して再建に着手することに。

当時、桜町領を含む一帯は土地が痩せていて作物が乏しいので、住民は怠惰で働く気を失い、農地は荒廃、従って領主の年貢収入が激減という問題山積のところでした。金次郎は着任前に徹底した現地調査を実施し、それを元に再興事業の期間と数値目標などを記した契約書を作成、小田原藩と宇津家との間で契約を取り交わしてから再建に着手という、かなり近代的な方法を行ったそう。

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3-2、桜町復興の方法

金次郎は再興事業開始後、藩主が申し出た無償の資金供与を断り、金次郎自身の財産と藩から支給の再興事業の請負費用を元手にして低利の融資制度を創設。領民に農機具の購入費用として貸し出し、作物を売った利益を返済金に充てさせ、自主性と積極性を引き出したということ。

そして、能力がありそうな領民の若者に命じ、米の収穫量を予想して売買、米相場を張らせたそう。このため桜町領は、後、天保7年(1836年)の天保の大飢饉が起こったときも事前に米を買い置きがあったために被害は最小限になったということ。

また当時は、荒れ果てた桜町領では逃散する農民が多く水田の3分の1が荒れ地になっていたので、金次郎は子だくさんの地域から移住者を受け入れ、労働力不足を補うことに。

金次郎は「芋こじ」(里芋を桶に入れ、皮をとるために棒でかき回すことを意味)という領民たちが徹底して話し合いが出来きる場を設け、領民たち共同体の結束強化を図ったということ。

また、不当に重い年貢の軽減に報奨金制度、領民同士の投票による表彰制度、そして収入に見合った生活をする「分度」や飢饉への備え、将来への投資の重要性についてなどの地道な教育も行ったそう。

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3-3、金次郎、桜町領復興事業が難航

桜町領の再興事業は、それ自体は理にかなった施策ではあっても、やはり金次郎がよそ者であることや、あまりに理想主義で諸事徹底して厳しい現場監視をされたこと、また移住者を優遇し貧乏な人への肩入れとか、余剰金が返済、公共投資、内部貯蓄にまわされて領民に直接還元がなかったことで、金次郎が私腹を肥やしていると誤解されたなど、だんだんと領民に不満がたまり反感が高まったということ。

そこへ、金次郎に反感を抱く小田原藩上層部の者が下級武士をそそのかして、桜町領に金次郎の上司として送り込み、なんとその役人が領内の反対派と結束して反発したために復興事業は難航。

金次郎は一時、桜町を離れて成田山で21日間も断食修業し、「一円観」という真理を悟ったそう。3か月後、金次郎は桜町に戻ると、領民も金次郎なくしては復興事業が進まないと痛感して反感もなくなり、藩の派遣役人も交代したせいで、その後の復興事業は円滑に進むように。天保2年(1831年)には正米426俵を納める成果を上げて、3年後には1330俵を返納、5年後には封地4000石租900石を実収3000石にまで増やし、分度(支出の限度)を2000石に定めて再建を達成。

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「一円観」とは
善悪、強弱、苦楽、禍福、幸災など、世の中のありとあらゆる対立するものをひとつの円の中に入れて観て、相対的に把握する捉え方のこと。半円と半円のようにバラバラでは成るものも成らないが、互いに合わせて完全な「一円」となったときにはじめて成果が生み出されるということだそう。

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