今回は二宮金次郎を取り上げるぞ。

小学校にある像で有名ですが何をした人なのかちゃんと知ってる人は少ないんじゃないかな。

その辺のところを江戸時代が好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にが大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、二宮金次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、二宮金次郎は小田原の生まれ

金次郎は天明7年(1787年)に、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))で誕生。父は百姓二宮利右衛門、母は曽我別所村の川久保太兵衛の娘好(よし)の長男、弟がふたりで、友吉(常五郎)と富治郎。

通称は金次郎または金治郎、後に尊徳(たかのり)と号したが、二宮尊徳(そんとく)で定着。ここでは金次郎で統一。

1-2、金次郎の子供時代

当時の栢山村は小田原藩領で、父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いだ裕福な農家だったが、借財を背負っていたということ。

そして、金次郎が5歳の寛政3年(1791年)、南関東を襲った暴風で酒匂川の坂口の堤が決壊、金次郎の住む東栢山一帯も濁流で押し流され、田畑と家を失ったそう。田畑は開墾して数年で復旧したが、借財のために貧窮生活に。 また数年後には父が眼病で、12歳の金次郎が父に代わって酒匂川堤防工事の夫役を務めたのですが、金次郎は年少で働きが足りないのではと、夜に草鞋(わらじ)を作って配布するまでしたそう。

寛政12年(1800年)父が病死、14歳の金次郎は早起きして久野山に薪とりに、夜は草鞋作りで、一家4人の生計を立てたということ。そして2年後に母も亡くなったので、金次郎は幼い2人の弟を母の実家川久保家に預け、本家の祖父(伯父)萬兵衛の家に寄宿したが、また酒匂川が氾濫して、金次郎家の土地は水害ですべて流出。

1-3、金次郎、本家で伯父に虐げられ工夫をこらす

金次郎は本家の祖父の家で身を粉にして働いたが、夜に読書をすると「燈油の無駄使い」と伯父に口汚く罵られたので、金次郎はなんと堤防で菜種を育てて油屋に渡し、引き換えにもらった燈明油で夜の読書を続けたそう。しかし伯父は「お前の時間は俺の時間だ、百姓に学問はいらない」というので、金次郎は、昼間も入会山に登って薪を切り、背負って歩きながら書物を読み、田植えで余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得たりと、工夫をするように。

入会地(いりあいち)とは
村や部落などの村落共同体で総有した土地のこと。薪炭、用材、肥料用の落葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺くカヤなどを採取した原野、川原の草刈場の2種類に大別。

入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれ、草刈場は地方によって、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、「場」のつく名で呼ばれるものが多いということ。
他の村落の入会地との区別で、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあったということ。

尚、貧しくて自分の山を持っていないはずの金次郎が柴を背負っている銅像ですが、金次郎は柴を入会山から採ってきたということで、村には山を持っていない貧しい人も共同で使える場所があったと司馬遼太郎氏の対談本で読んだことが。

2-1、金次郎親戚の家に寄宿後、生家再興

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文化元年(1804年)、18歳になった金次郎は祖父の家を離れて同じ村の親族の岡部伊助方に寄宿。

この頃、開墾して間もない田畑が、すでにある田畑と比べて租税負担が軽いことに目を付けた金次郎は、コツコツ荒れ地を開墾して田んぼにし、この年にはそこで出来た米5俵を得たそう。翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿し、その後も開墾した土地を増やして米20俵を収穫したということ。

文化3年(1806年)に寄宿先から戻り、20歳で生家の再興に着手。生家を修復して質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出して、自分は荒れ地を開墾して田んぼにするなどして土地を増やし、コツコツと収入の増加を図ったわけです。

生家の再興に成功した金次郎は地主として農園経営者となり、自身は小田原に出て武家奉公人としても働くことに。金次郎はこの時代にしては大柄な人で、この頃には身長が6尺(約180センチ強)を超え、体重は94kgほどあったそう。小田原藩では岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えたということ。 金治郎は農作業と現金収入を重視したので再興を速めたのですね。

2-2、金次郎、母の実家や総本家を再興、家老の服部家の使用人に

文化5年(1808年)には、金次郎の亡き母の実家川久保家が貧窮したので資金援助、翌年、二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言して基金を立ち上げたということ。

金次郎は25歳で、小田原藩の家老の服部家の子息3人の勉強を助ける役目の使用人となって、藩の儒学者の屋敷に一緒に通い近くで講義を聴くことで、自らも学問をするように。服部家での金次郎は、使用人同士が助け合う金融制度「五常講」、お互いに金を出し合って困窮者が借りる制度を開始し、金利も取ったということ。参加した人は儒教道徳を順守して確実で早期の返済を求められたが、貸し倒れがなく、利息収入が得られるので、参加した人は積極的に資金を提供したそう。

\次のページで「2-3、金治郎、家老の家政も立て直す」を解説!/

2-3、金治郎、家老の家政も立て直す

金次郎はその後、依頼を受けて服部家の財政再建を引き受け、厳しい緊縮策を実施。金次郎は5年計画の節約で立て直しを約束、文化11年(1814年)には服部家の財務を整理して千両の負債を償却、余剰金300両まで出したということ。しかし金次郎自身は一銭の報酬も受け取らなかったので、小田原藩内で評判になり名前が知られるように。そして小田原藩主で老中大久保忠真(ただざね)に見出され藩政改革を行おうとしたが、金次郎の身分が低いため重臣に反対されてなかなか実現せず。

また金次郎の「五常講」は、文政3年(1820年)、小田原藩の出資で藩全体の武士が対象の制度に発展。これは世界最初の協同組合、信用組合とされることも。明治時代に成立した「産業組合法」は、金次郎の「五常講」とドイツの「救済貸付組合」を参考にしたということです。

2-4、金次郎、最初の結婚は失敗、すぐに再婚

文化13年(1816年)、金次郎は弟友吉(常五郎)を本家の長男三郎左衛門の養子にやり、自分も最初の妻と結婚。しかし文政2年(1819年)、長男が生まれてすぐ夭折した後、家風に合わないと妻きのが申し出て、離縁。翌年、34歳の金次郎は16歳のなみと再婚。この女性は賢夫人と言われ、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)が誕生。

3-1、金次郎、桜町領復興に着手

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文政4年(1821年)金次郎は、藩主大久保家の分家である宇津氏の領地で、現在の栃木県にあった桜町領の立て直しを命じられたが、3年間固辞し続けた後に拝命。身分制度が厳格な時代に、農民が藩士として登用され、領地の再興を任されるのは極めて異例。文政6年(1823年)、金次郎は名主役柄で、石高5石二人扶持の待遇となり、移動料米50俵、仕度料米200俵50金を支給されて、家族で桜町に移住して再建に着手することに。

当時、桜町領を含む一帯は土地が痩せていて作物が乏しいので、住民は怠惰で働く気を失い、農地は荒廃、従って領主の年貢収入が激減という問題山積のところでした。金次郎は着任前に徹底した現地調査を実施し、それを元に再興事業の期間と数値目標などを記した契約書を作成、小田原藩と宇津家との間で契約を取り交わしてから再建に着手という、かなり近代的な方法を行ったそう。

3-2、桜町復興の方法

金次郎は再興事業開始後、藩主が申し出た無償の資金供与を断り、金次郎自身の財産と藩から支給の再興事業の請負費用を元手にして低利の融資制度を創設。領民に農機具の購入費用として貸し出し、作物を売った利益を返済金に充てさせ、自主性と積極性を引き出したということ。

そして、能力がありそうな領民の若者に命じ、米の収穫量を予想して売買、米相場を張らせたそう。このため桜町領は、後、天保7年(1836年)の天保の大飢饉が起こったときも事前に米を買い置きがあったために被害は最小限になったということ。

また当時は、荒れ果てた桜町領では逃散する農民が多く水田の3分の1が荒れ地になっていたので、金次郎は子だくさんの地域から移住者を受け入れ、労働力不足を補うことに。

金次郎は「芋こじ」(里芋を桶に入れ、皮をとるために棒でかき回すことを意味)という領民たちが徹底して話し合いが出来きる場を設け、領民たち共同体の結束強化を図ったということ。

また、不当に重い年貢の軽減に報奨金制度、領民同士の投票による表彰制度、そして収入に見合った生活をする「分度」や飢饉への備え、将来への投資の重要性についてなどの地道な教育も行ったそう。

3-3、金次郎、桜町領復興事業が難航

桜町領の再興事業は、それ自体は理にかなった施策ではあっても、やはり金次郎がよそ者であることや、あまりに理想主義で諸事徹底して厳しい現場監視をされたこと、また移住者を優遇し貧乏な人への肩入れとか、余剰金が返済、公共投資、内部貯蓄にまわされて領民に直接還元がなかったことで、金次郎が私腹を肥やしていると誤解されたなど、だんだんと領民に不満がたまり反感が高まったということ。

そこへ、金次郎に反感を抱く小田原藩上層部の者が下級武士をそそのかして、桜町領に金次郎の上司として送り込み、なんとその役人が領内の反対派と結束して反発したために復興事業は難航。

金次郎は一時、桜町を離れて成田山で21日間も断食修業し、「一円観」という真理を悟ったそう。3か月後、金次郎は桜町に戻ると、領民も金次郎なくしては復興事業が進まないと痛感して反感もなくなり、藩の派遣役人も交代したせいで、その後の復興事業は円滑に進むように。天保2年(1831年)には正米426俵を納める成果を上げて、3年後には1330俵を返納、5年後には封地4000石租900石を実収3000石にまで増やし、分度(支出の限度)を2000石に定めて再建を達成。

「一円観」とは
善悪、強弱、苦楽、禍福、幸災など、世の中のありとあらゆる対立するものをひとつの円の中に入れて観て、相対的に把握する捉え方のこと。半円と半円のようにバラバラでは成るものも成らないが、互いに合わせて完全な「一円」となったときにはじめて成果が生み出されるということだそう。

\次のページで「3-4、金次郎のやり方は、報徳仕法と呼ばれるように」を解説!/

3-4、金次郎のやり方は、報徳仕法と呼ばれるように

金次郎の桜町復興の功績は各地に知れ渡り、再興事業の依頼が相次ぐように。金次郎が生涯に再興を請け負った土地は、現在の9県と北海道にまたがる600村に及ぶということ。

金次郎は、各地の再興事業での実績に加え、独自の哲学である「報徳思想」で後世にも大きな影響を与えました。報徳思想は、父母、夫婦、兄弟、天地大自然から受けている恩徳に感謝して、それに報いる行動を行うべきだという道徳思想のこと。金次郎が指揮した各地の再興事業は、この思想に基づいて行われたので「報徳仕法」と呼ばれるように。

報徳思想
報徳思想は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つを中心的な理念となしているということ。このなかの「分度」は、自分の収入に応じた支出の限度を前もって算出することで、倹約と儲蓄の基礎となるという、いわば分際をわきまえるというやり方。金次郎は、個人だけでなく家や国家にも分度を求めたんですね。そして「推譲」は利他の思想で、分度を守って余剰が生じた場合は、他人や社会のために用いるよう求めたということ。

金次郎の高弟である福住正兄(ふくずみまさえ)は、報徳思想を「道徳経済一元論」と総括、克己と節制、利他主義に基づき経済活動を行うことで、国家や社会の安定と繁栄につながるという意味。

3-5、金次郎、晩年には幕臣に

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By 岡本秋暉((1807-1862) - 報徳博物館蔵, パブリック・ドメイン, Link

その後の金次郎は天保4年(1833年)に起こった天保の大飢饉で、藩命を受けて各地の領民を救済したり、大名家の家政を改善したりしています。

そして金次郎は、天保13年(1842年)幕府に召し抱えられて普請役格となり、印旛沼開拓、利根川利水について提案を行ったが、採用されず、翌年には幕府直轄領の下総大生郷村の仕法を、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられたということ。弘化2年(1845年)には下野真岡の代官山内氏の属吏として真岡に移住。

安政3年(1856年)に日光神領を回り日光奉行の配下で仕法を施していたときに3度目の病で、下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所で享年70歳で病没。

4-1、金次郎の逸話

事実かどうか確認できないようですが、金次郎の弟子の書いた伝記由来の代表的な逸話が色々とあり、また金次郎の偉業は現代にも影響を及ぼしています。

4-2、小田原で武家に奉公していた頃

金次郎は、役人が不正な枡を使い量をごまかして差分を横領していたので、一斗枡を改良して藩内で統一規格化させることで不正を防いだということ。

4-3、桜町領を復興していた頃

金次郎は夏前にナスを食べたところ、秋ナスの味がしたことで、その年は冷夏になると予測。村人たちに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせたということ。そして金次郎の予測通りに冷夏となって、天保の大飢饉が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったために餓死者が出ず、余ったヒエを周辺の村々にも分けたそう。

\次のページで「4-4、勤勉な人と人前だけ働く人を見抜いた」を解説!/

4-4、勤勉な人と人前だけ働く人を見抜いた

金次郎は、領民たちの開墾作業を見回っていたときに、一人の男が他の領民の何倍もの勢いで仕事をしていたのを見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、領民たちの前でその男の不正を厳しく叱ったということ。しかし、陰日向なく真面目に働いて、他の領民がやろうとしなかった木の切り株を掘り起こす面倒な作業を地道に続けた出稼ぎ老人に対しては、その老人の作業のおかげで開墾がはかどったという理由で、通常の賃金のほかに慰労金として15両もの大金を与えたという話。

4-5、金次郎の像

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明治37年(1904年)以降、国定教科書に修身の象徴として金次郎が取り上げられるように。当時の小学唱歌にも「二宮金次郎」という曲があり、小学校に金次郎の銅像や石像が設置されたのは、学校教育や、地方自治での明治国家の指導に利用されたということ。

銅像は太平洋戦争中に金属供出されてしまったが、石像は残っているそう。しかし薪を背負ったまま本を読んで歩いた事実確認ができないとか、子供たちが像の真似をして本を読みながら道を歩くのは交通安全上問題があるなどで1970年代以降は校舎の立替時などに徐々に撤去されて、金次郎像の数は減少傾向で、現在の小学生の教育方針に合わないなどという理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会も多いということ。

また、学校の怪談で、「金次郎像が夜中の校庭を駆け回る」という話があるそうですが、いかにも今風で興味深いですね。

4-6、後世と海外への影響

金次郎の報徳思想は、渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉、松下幸之助、稲盛和夫ら、近代日本を代表する実業家に受け継がれているうえに、海外からも関心が持たれているということで、日本と中国の研究者により「国際二宮金次郎思想学会」が2003年に設立されて、市場経済化が進む中国では金次郎の倫理性が魅力を持つらしく定期的にセミナーが開かれているということ。

4-7、神社に祀られる

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金次郎は自分の墓を建てるな、ただ土を盛り上げて、その傍らに松の木を1本植えておけばいいと言い残したそうですが、金次郎を祀った二宮神社が誕生地である小田原(報徳二宮神社)と、終焉の地である今市(報徳二宮神社)、仕法の地である栃木県真岡市(桜町二宮神社)などに存在し、報徳二宮神社の金次郎の像には「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」という言葉が掲げられているということ。

現代にも通用する合理的な発想で立て直しの名人に

二宮金次郎は子供の頃の貧窮生活でへこたれることなくそこから色々なことを学び、まず自分の生家の立て直しに成功、次は親戚、知人をと、周りの人々の生活を立て直して軌道に乗せていき、そしてその知恵を藩政改革にも応用し、荒廃した村を次々と復興させた人でした。

江戸時代の農民に生まれたら、受け継いだ田畑を耕すだけで一生を送るものだったはずが、まるで現代人のような合理性を持ち実行しているのには驚かされます。現代人と違うのは、割り切ったようでも報徳思想といった江戸時代ならではの道徳も広めていることで、それは近代日本を代表する実業家も受け継がれて、今まさに海外からも注目されているそう。

明治時代にもてはやされ、さかんに小学校に銅像が寄贈されたということで、最近まで明治から昭和の日本の黒歴史払拭の影響で敬遠されがちだったが、現代に必要だと見直されているのも当然と言えば当然で、最近映画化されたという二宮金次郎の偉業は、今後もっと注目されてしかるべきだと思います。

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日本史歴史江戸時代

農政家で財政立て直しの達人「二宮金次郎」について歴女がとことんわかりやすく解説

今回は二宮金次郎を取り上げるぞ。

小学校にある像で有名ですが何をした人なのかちゃんと知ってる人は少ないんじゃないかな。

その辺のところを江戸時代が好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にが大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、二宮金次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、二宮金次郎は小田原の生まれ

金次郎は天明7年(1787年)に、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))で誕生。父は百姓二宮利右衛門、母は曽我別所村の川久保太兵衛の娘好(よし)の長男、弟がふたりで、友吉(常五郎)と富治郎。

通称は金次郎または金治郎、後に尊徳(たかのり)と号したが、二宮尊徳(そんとく)で定着。ここでは金次郎で統一。

1-2、金次郎の子供時代

当時の栢山村は小田原藩領で、父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いだ裕福な農家だったが、借財を背負っていたということ。

そして、金次郎が5歳の寛政3年(1791年)、南関東を襲った暴風で酒匂川の坂口の堤が決壊、金次郎の住む東栢山一帯も濁流で押し流され、田畑と家を失ったそう。田畑は開墾して数年で復旧したが、借財のために貧窮生活に。 また数年後には父が眼病で、12歳の金次郎が父に代わって酒匂川堤防工事の夫役を務めたのですが、金次郎は年少で働きが足りないのではと、夜に草鞋(わらじ)を作って配布するまでしたそう。

寛政12年(1800年)父が病死、14歳の金次郎は早起きして久野山に薪とりに、夜は草鞋作りで、一家4人の生計を立てたということ。そして2年後に母も亡くなったので、金次郎は幼い2人の弟を母の実家川久保家に預け、本家の祖父(伯父)萬兵衛の家に寄宿したが、また酒匂川が氾濫して、金次郎家の土地は水害ですべて流出。

1-3、金次郎、本家で伯父に虐げられ工夫をこらす

金次郎は本家の祖父の家で身を粉にして働いたが、夜に読書をすると「燈油の無駄使い」と伯父に口汚く罵られたので、金次郎はなんと堤防で菜種を育てて油屋に渡し、引き換えにもらった燈明油で夜の読書を続けたそう。しかし伯父は「お前の時間は俺の時間だ、百姓に学問はいらない」というので、金次郎は、昼間も入会山に登って薪を切り、背負って歩きながら書物を読み、田植えで余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得たりと、工夫をするように。

入会地(いりあいち)とは
村や部落などの村落共同体で総有した土地のこと。薪炭、用材、肥料用の落葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺くカヤなどを採取した原野、川原の草刈場の2種類に大別。

入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれ、草刈場は地方によって、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、「場」のつく名で呼ばれるものが多いということ。
他の村落の入会地との区別で、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあったということ。

尚、貧しくて自分の山を持っていないはずの金次郎が柴を背負っている銅像ですが、金次郎は柴を入会山から採ってきたということで、村には山を持っていない貧しい人も共同で使える場所があったと司馬遼太郎氏の対談本で読んだことが。

2-1、金次郎親戚の家に寄宿後、生家再興

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文化元年(1804年)、18歳になった金次郎は祖父の家を離れて同じ村の親族の岡部伊助方に寄宿。

この頃、開墾して間もない田畑が、すでにある田畑と比べて租税負担が軽いことに目を付けた金次郎は、コツコツ荒れ地を開墾して田んぼにし、この年にはそこで出来た米5俵を得たそう。翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿し、その後も開墾した土地を増やして米20俵を収穫したということ。

文化3年(1806年)に寄宿先から戻り、20歳で生家の再興に着手。生家を修復して質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出して、自分は荒れ地を開墾して田んぼにするなどして土地を増やし、コツコツと収入の増加を図ったわけです。

生家の再興に成功した金次郎は地主として農園経営者となり、自身は小田原に出て武家奉公人としても働くことに。金次郎はこの時代にしては大柄な人で、この頃には身長が6尺(約180センチ強)を超え、体重は94kgほどあったそう。小田原藩では岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えたということ。 金治郎は農作業と現金収入を重視したので再興を速めたのですね。

2-2、金次郎、母の実家や総本家を再興、家老の服部家の使用人に

文化5年(1808年)には、金次郎の亡き母の実家川久保家が貧窮したので資金援助、翌年、二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言して基金を立ち上げたということ。

金次郎は25歳で、小田原藩の家老の服部家の子息3人の勉強を助ける役目の使用人となって、藩の儒学者の屋敷に一緒に通い近くで講義を聴くことで、自らも学問をするように。服部家での金次郎は、使用人同士が助け合う金融制度「五常講」、お互いに金を出し合って困窮者が借りる制度を開始し、金利も取ったということ。参加した人は儒教道徳を順守して確実で早期の返済を求められたが、貸し倒れがなく、利息収入が得られるので、参加した人は積極的に資金を提供したそう。

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