小学校にある像で有名ですが何をした人なのかちゃんと知ってる人は少ないんじゃないかな。
その辺のところを江戸時代が好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、二宮金次郎は小田原の生まれ
- 1-2、金次郎の子供時代
- 1-3、金次郎、本家で伯父に虐げられ工夫をこらす
- 2-1、金次郎親戚の家に寄宿後、生家再興
- 2-2、金次郎、母の実家や総本家を再興、家老の服部家の使用人に
- 2-3、金治郎、家老の家政も立て直す
- 2-4、金次郎、最初の結婚は失敗、すぐに再婚
- 3-1、金次郎、桜町領復興に着手
- 3-2、桜町復興の方法
- 3-3、金次郎、桜町領復興事業が難航
- 3-4、金次郎のやり方は、報徳仕法と呼ばれるように
- 3-5、金次郎、晩年には幕臣に
- 4-1、金次郎の逸話
- 4-2、小田原で武家に奉公していた頃
- 4-3、桜町領を復興していた頃
- 4-4、勤勉な人と人前だけ働く人を見抜いた
- 4-5、金次郎の像
- 4-6、後世と海外への影響
- 4-7、神社に祀られる
- 現代にも通用する合理的な発想で立て直しの名人に
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にが大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、二宮金次郎について5分でわかるようにまとめた。
1-1、二宮金次郎は小田原の生まれ
金次郎は天明7年(1787年)に、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))で誕生。父は百姓二宮利右衛門、母は曽我別所村の川久保太兵衛の娘好(よし)の長男、弟がふたりで、友吉(常五郎)と富治郎。
通称は金次郎または金治郎、後に尊徳(たかのり)と号したが、二宮尊徳(そんとく)で定着。ここでは金次郎で統一。
1-2、金次郎の子供時代
当時の栢山村は小田原藩領で、父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いだ裕福な農家だったが、借財を背負っていたということ。
そして、金次郎が5歳の寛政3年(1791年)、南関東を襲った暴風で酒匂川の坂口の堤が決壊、金次郎の住む東栢山一帯も濁流で押し流され、田畑と家を失ったそう。田畑は開墾して数年で復旧したが、借財のために貧窮生活に。 また数年後には父が眼病で、12歳の金次郎が父に代わって酒匂川堤防工事の夫役を務めたのですが、金次郎は年少で働きが足りないのではと、夜に草鞋(わらじ)を作って配布するまでしたそう。
寛政12年(1800年)父が病死、14歳の金次郎は早起きして久野山に薪とりに、夜は草鞋作りで、一家4人の生計を立てたということ。そして2年後に母も亡くなったので、金次郎は幼い2人の弟を母の実家川久保家に預け、本家の祖父(伯父)萬兵衛の家に寄宿したが、また酒匂川が氾濫して、金次郎家の土地は水害ですべて流出。
1-3、金次郎、本家で伯父に虐げられ工夫をこらす
金次郎は本家の祖父の家で身を粉にして働いたが、夜に読書をすると「燈油の無駄使い」と伯父に口汚く罵られたので、金次郎はなんと堤防で菜種を育てて油屋に渡し、引き換えにもらった燈明油で夜の読書を続けたそう。しかし伯父は「お前の時間は俺の時間だ、百姓に学問はいらない」というので、金次郎は、昼間も入会山に登って薪を切り、背負って歩きながら書物を読み、田植えで余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得たりと、工夫をするように。
入会地(いりあいち)とは
村や部落などの村落共同体で総有した土地のこと。薪炭、用材、肥料用の落葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺くカヤなどを採取した原野、川原の草刈場の2種類に大別。
入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれ、草刈場は地方によって、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、「場」のつく名で呼ばれるものが多いということ。
他の村落の入会地との区別で、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあったということ。
尚、貧しくて自分の山を持っていないはずの金次郎が柴を背負っている銅像ですが、金次郎は柴を入会山から採ってきたということで、村には山を持っていない貧しい人も共同で使える場所があったと司馬遼太郎氏の対談本で読んだことが。
2-1、金次郎親戚の家に寄宿後、生家再興
文化元年(1804年)、18歳になった金次郎は祖父の家を離れて同じ村の親族の岡部伊助方に寄宿。
この頃、開墾して間もない田畑が、すでにある田畑と比べて租税負担が軽いことに目を付けた金次郎は、コツコツ荒れ地を開墾して田んぼにし、この年にはそこで出来た米5俵を得たそう。翌年は親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿し、その後も開墾した土地を増やして米20俵を収穫したということ。
文化3年(1806年)に寄宿先から戻り、20歳で生家の再興に着手。生家を修復して質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出して、自分は荒れ地を開墾して田んぼにするなどして土地を増やし、コツコツと収入の増加を図ったわけです。
生家の再興に成功した金次郎は地主として農園経営者となり、自身は小田原に出て武家奉公人としても働くことに。金次郎はこの時代にしては大柄な人で、この頃には身長が6尺(約180センチ強)を超え、体重は94kgほどあったそう。小田原藩では岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えたということ。 金治郎は農作業と現金収入を重視したので再興を速めたのですね。
2-2、金次郎、母の実家や総本家を再興、家老の服部家の使用人に
文化5年(1808年)には、金次郎の亡き母の実家川久保家が貧窮したので資金援助、翌年、二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言して基金を立ち上げたということ。
金次郎は25歳で、小田原藩の家老の服部家の子息3人の勉強を助ける役目の使用人となって、藩の儒学者の屋敷に一緒に通い近くで講義を聴くことで、自らも学問をするように。服部家での金次郎は、使用人同士が助け合う金融制度「五常講」、お互いに金を出し合って困窮者が借りる制度を開始し、金利も取ったということ。参加した人は儒教道徳を順守して確実で早期の返済を求められたが、貸し倒れがなく、利息収入が得られるので、参加した人は積極的に資金を提供したそう。
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