今回はイエス・キリストを取り上げるぞ。

30歳で登場して数年の布教活動の後十字架にかけられた救世主ですが、今も熱心に信仰されている根拠とか知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。なぜか子供の頃からキリスト教になじみがあり、例によって昔読んだ本を引っ張り出し、親に聞いたことやネット情報で補足しつつ、イエス・キリストについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、イエスの名前と生年は

英語ではジーザスJesusと呼びますが、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはスペイン人(バスコ人)でイエズスと発音していたためか、日本ではイエスと呼ばれるように。もちろん、英語のYESとは無関係。

尚、救世主としてのイエスは、イエス・キリスト、歴史上の人物としてはナザレのイエスと区別。イエスと言う名は当時のユダヤ人にはありふれた名前で、神は救い、救う者を意味していて、キリストは「膏(こう、脂)をつけられた者」という意味の救い主の称号。

生まれたのは紀元前6年から紀元前4年頃と言われています。

西暦との関係
西暦とは、キリスト教でキリスト(救世主)のイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を紀元元年とした紀年法、暦で、6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが算出したもの。

紀元525年にディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世がキリスト教の復活祭の暦表を改訂する際、当時ローマで用いられていたローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位を紀元とする暦に替えて、イエス・キリスト生誕の翌年を元を年とする新たな紀元を提案したのが始まりで、紀元前のB.C.は「Before Christ」の略で、紀元後のA.D.は「Anno Domini」(アンノドミニ)の略、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。しかしその後の研究から、イエスの生まれたのは紀元0年ではなく、それ以前だろうということに。

尚、19世紀以降、非キリスト教徒との関係を考えて、ADを「Common Era」(CE、共通紀元)へ、BCを「Before Common Era」(BCE)に切り替える動きが広まっているということ。

1-2、イエスの誕生

Madona del gran duque, por Rafael.jpg
By ラファエロ・サンティ - Uffizi, パブリック・ドメイン, Link

当時はローマ帝国に占領されていた、イスラエルのナザレに住んでいたヨセフの婚約者マリアは、結婚前に聖霊により身ごもったと天使から告知を受けました。そして紀元前4年12月25日、ヨセフはマリアを妻に迎えベツレヘムで男の子が誕生、イエスと名付けたということ。

また、ヨセフはナザレの人であったが、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に行われた住民登録のために身重の妻とベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたということに。しかし史実では住民登録はもう少し先の年代だということで、イスラエルの救世主であるメシアは、古代イスラエルの王ダビデの町のベツレヘムで生まれるという予言が旧約聖書にあることに由来、そしてメシアはダビデの家系に生まれるという予言があり、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書によると、イエスの父ヨセフも母マリアもダビデの末裔とされているので、イエスは予言通りの救世主ということに。

キリスト教ではこの日を救世主の生誕記念のクリスマスとして祝日になっていますが、聖書の記述にはイエスの誕生日を明確にしておらず、イエスの誕生日が12月25日であるという確証はなし。そして、ルカの福音書にイエスが誕生した時の様子として「羊飼いたちが夜に野宿しながら羊の群れの番を」の記述から、ベツレヘムでは羊飼いが夜に戸外にいるには寒いので、12月ではないということ。

12月25日が誕生日とされたのはなぜか
古くからキリスト教では、誕生日よりも復活の日が重要視されていたのですが、イエス・キリストの誕生が12月25日に定められたのは、4世紀半ば、コンスタンティヌス帝統治下のローマということ。

当時ローマでは太陽神を崇拝する宗教が勢力大で、この宗教は冬至の頃の12月25日が太陽神を祭る祝祭日だったので、キリストの誕生日もこの日に定められたそう。
日本でも仏教伝来で日本神話の神々と仏教との神仏習合が行われましたが、ヨーロッパにキリスト教が広まるために元からある土着の宗教との融合があったのですね。

1-3、イエス生誕時の赤ちゃん虐殺は

マタイ福音書によれば、当時のユダヤを統治していたヘロデ大王は、星を見て救世主の誕生を知って拝むためにやってきた東方の三博士たちから「新しいユダヤの王」の話を聞き、王は自分の地位を脅かされることを恐れて殺してしまおうと考え、ベツレヘムの2歳以下のすべての男子を殺害するよう命じて実行させたということ。

マタイ福音書では、イエスの両親ヨセフとマリアはお告げでこの危機を知り、エジプトに逃れたためイエスは殺害を免れたが、他の福音書にこの幼児虐殺のエピソードは記されていないそう。

これは、出エジプト記の、モーゼが生まれたとき、エジプトのファラオが生まれたばかりのヘブライ人の子を皆殺しにするよう命じたが、モーゼだけは助かり、後にこのモーゼによって民は解放された話を彷彿とさせるため、旧約聖書などで救世主の出現が預言されていることを成就させ、イエスの生涯を旧約聖書の預言の実現と合致させ、救世主として描くための意図で創作されたエピソードとする説あり。

また当時のベツレヘムは小さな寒村で人口は300人から1000人程度だったので、実際に殺された幼児は20人から30人程度の小規模の事件であるので、当時の専制君主のヘロデ王は、非道な虐殺行為を多く行っていたために他の歴史家がわざわざ記録するほどの事件ではなかったという解釈もあるそう。

尚、クリスマスにプレゼントをする習慣は、東方の3博士が赤ちゃんのイエスに贈り物をしたことから広まった習慣だということ。

\次のページで「1-4、イエスのきょうだい」を解説!/

1-4、イエスのきょうだい

カトリック教会とギリシア正教会は、マリアは処女懐胎したイエス以外に子はいなかったという主張(そのせいでヨセフも老人に描かれて影が薄い存在に)で、新約聖書の中での「兄弟」の記述は、実の兄弟以外の「親族」の意味で解釈(またはヨセフの連れ子に)。

イエスの母語であるアラマイ語は、日本語の従兄弟、甥、姪にあたる言葉が無いので「兄弟、姉妹」と言っていたよう。しかしプロテスタント教会では、新約聖書の「兄弟」を文字通り「兄弟」と解釈、イエスの兄弟のヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの4人もマリアの子だったということに。

1-5、イエスの幼年時代

イエスはヘロデ王の死後、エジプトから戻り、ガリラヤ地方のナザレで育ったということ。ルカの福音書によれば、大変聡明な子であったといい、大工だったといわれている父ヨセフはギリシア語で「テクトーン」、ローマ帝国がイスラエルに建設していた都市で技術者として働いた説があり、父の仕事を手伝うイエスはそういう場所で新しい考えに接する機会が多かったのではということ。

ルカの福音書には、イエスが12歳のときに過越祭のためエルサレムへ行ったとされ、イエスは両親とはぐれ、必死に探す両親は3日後にエルサレム神殿で学者たちと討論を展開している少年イエスを発見、ナザレに連れ戻したという話が。

通常ユダヤ人の男子は13歳でバル・ミツバという成人式のような通過儀礼を行い、宗教的に大人の仲間入りが認められるということで、その準備は12歳から始まり、男子の義務は過越の祭りと七週の祭り、仮庵の祭をエルサレムで守ることとなっていて、イエスも過ぎ越しの祭りのために巡礼、 イエスの聖書理解に学者たちが舌を巻いたということ。

しかし30歳までの人生はほとんど知られておらず、布教活動を行ったのはわずか3年足らずの間でした。

イエスについては、その言行録である新約聖書にある弟子たちの書いたとされる福音書によるものから知るわけなんですが、この福音書が書かれたのはイエスの死後40年か70年後なので、はっきりしないことも多いです。
また、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の他に、トマスによる福音書という正典として認められなかった外典文書があり、そこにはイエスの子供時代についても述べられているそう。

聖書外典とは
外典(がいてん)とは、ユダヤ教、キリスト教関係の文書の中で、聖書の正典に加えられなかった文書のこと。

現在用いられている聖書は、歴史的には正典を決める必要があり、3世紀ごろから何度も会議を経て、カトリック教会では1546年のトリエント公会議で聖書の正典、外典の定義が再確認されたほか、プロテスタント教会では17世紀中盤、同じように正典の公式な定義が行われたということで、聖書に入らなかった異端とされる「トマスによる福音書」「ヤコブ原福音書」「トマスによるイエスの幼児物語」文書も存在するのですね。

2-1、イエス、洗礼を受ける

Kramskoi Christ dans le désert.jpg
By イワン・クラムスコイ - [1], パブリック・ドメイン, Link

30歳を超えたイエスは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ、使徒ヨハネとは別人)から洗礼を受け、これによってイエスに神の聖霊が宿ったとされたということ。

洗礼を受けたイエスは荒野で40日間の断食を行って悪魔から、神の子ならば石をパンに変えてみろ、 悪魔を拝むならば、この国の一切の権力と繁栄を与えよう、神の子ならば、エルサレムの神殿から飛び降りてみろと、悪魔は聖書の言葉を用いてイエスに3つの誘惑を行ったものの、イエスも聖書の言葉を巧みに用いて誘惑を退けたことで、自らが救世主(メシア)であることを証明。

2-2、数々の奇跡をおこなう

image by PIXTA / 22823108

イエスは、愛の教えと奇跡による人々の救済の旅を開始。
イエスが信仰された理由のひとつとして、彼が起こした数々の奇跡が存在するということ。

新約聖書によればイエスは奇跡をおこなうことで、自身がメシアだと証明。イエスはたった5つのパンと2匹の魚で、5千人を満足させたり、瓶の水をワインに変え、病人の治療も行い、盲者の目を見えるように、ろうあ者を話せるようにし、さらに悪霊に憑りつかれた者を清め、死んだ人間を甦らせるという奇跡を行ううちに、弟子が出来、また信者を増やしていったということです。

イエスの起こした奇跡については、様々な学者が研究し、自然現象だとか、イエスに医学の心得があったとか、創作説などと考えられているそう。そしてイエスは、当時の社会から隔離された障害者や精神病者に対して平等に接したことで、彼らを治療した結果が奇跡として語られたのかもという説も。

2-3、イエスは結婚していたか

Wojciech Gerson-Jezus i Maria Magdalena.jpg
By ヴォイチェフ・ゲルソン - http://www.ewangelicy.pl/pliki_og/zwiastowanie.html, パブリック・ドメイン, Link

イエスは独身であったということからカトリックの神父や修道尼は独身となっていますが、イエスは聖書の中では結婚を否定せず、結婚していたかどうかは不明のまま。また12使徒のひとりであるマグダラのマリアは女性でありながら、イエスの筆頭弟子であったといわれていて、マグダラのマリアはイエスの恋人あるいは妻だったという説も存在しているが、これもはっきりしたことはわかっていないということ。

\次のページで「2-4、イエスの教え」を解説!/

2-4、イエスの教え

イエスの教えは、形式的律法主義を批判して神の愛による救済と隣人愛を説いたこと、当時のイスラエルで盛んに言われていたユダヤ教的な終末論にもとづいた神の国の実現が迫っていると伝えたこと。

これらを3年余りの間、弟子たちと共に色々なたとえなどを用いてわかりやすくお説教して回りました。

2-5、イエスの処刑と復活

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By Vasily Petrovich Vereshchagin - first upload:art-catalog.ru second upload: freechristimages.org, パブリック・ドメイン, Link

イエスは、伝統的なユダヤ教の一派であるファリサイ派の形ばかりで見せかけの善行を痛烈に批判して、エルサレムの神殿から商人を追い出すなどしたことや、自らをユダヤ人の王であると名乗り、また「神の子」であるとかメシアであると自称した罪によって衆議会の裁判にかけられて政治犯としてローマ帝国に訴えられ、エルサレムのそばのゴルゴタの丘で、ローマ帝国の法に従って十字架刑に。

そしてマルコによる福音書では刑死したイエスの遺骸を岩窟式の墓に葬り、3日目に訪ねるとイエスの遺骸が消えていたが、イエスは蘇って多くの弟子たちの前に姿を現し、その後40日間ともに生活して神の国について語り合い、天に向かって昇って行ったとされています。

イエスの復活で、イエス・キリストを信仰するすべての人々との間に、人と神による新たな契約が結ばれ、イエスの死によって罪が許されて天国への扉が開かれたとされているそう

2-6、イエスの死後、弟子たちが布教活動に

イエスの死後、弟子たちは布教活動を行い、イエスの教えは地中海世界全域にキリスト教として広がっていき、ナザレのイエスは救世主イエス・キリストとして知られるようになったそう。

弟子たちがイエスの教えを書いたり、信者に手紙を書いたものをまとめたのが新約聖書に。古代ローマ帝国では迫害を受けたが、ローマ皇帝が受洗したのち、ヨーロッパに広まって現在に至っております。

尚、カトリックのローマ教皇の初代教皇はイエスの一番弟子のペテロとなっていて、現バチカン大聖堂の地下にお墓があるということ。

3-1、イエス・キリスト関連の小話

西洋ではよく知られている話をご紹介します。

3-2、ポンテオ・ピラト

またはポンティウス・ピーラートゥスは、生没年不詳で、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(歴史家のタキトゥスによると皇帝属領長官で在任は26年 から36年)。新約聖書ではイエスの処刑に関与した総督として登場、キリスト教の使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあることで有名ですが、新約聖書に描かれるピラトは最初のうちイエスの処刑に消極的であったよう。

福音書記者は、ピラトがイエスの無罪を知っていたとか、ルカの福音書に「わたしはこの男に何の罪を見いだせない」またヨハネによる福音書では、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と述べたとあり、イエスの無実すら明言、マタイによる福音書ではピラトの妻が、死刑を宣告する前の晩に夢の中で苦しい目にあったので「あの正しい人に関わらないで」と訴えたということ。ルカによる福音書によれば、ピラトはヘロデ・アンテパスの所にイエスを送り、イエスはヘロデによる尋問を受け、ヘロデは兵士と一緒にイエスを侮辱、派手な服を着せてピラトのもとにイエスを送り返したとか、ピラトは手を洗って自分に責任がないことを示そうとしたということ。

しかしピラトは無罪を知りながら、人々を満足させるために不当な死刑判決を認めたわけで、マルコによる福音書とヨハネによる福音書には群集の要求にこたえて、やむをえずイエスの処刑に踏み切ったとの記述も。福音書だけを読んでいると優柔不断なようですが、ピラトは史実では冷酷なローマの総督で暴動を恐れてイエスに関わりたくなかっただけということです。

3-3、銀貨30枚

イエスのもとに祭祀長や長老たちと大勢の群衆が武器を持って訪れてきたとき、弟子のひとりのイスカリオテのユダが、イエスに近づき接吻をしたことで、イエスが確定されて逮捕されたのですが、このユダの密告の報酬が「銀貨30枚」だったということは有名。ユダはこの後、後悔して自殺、また他の弟子たちは皆、イエスなんか知らないと見捨てて逃げたということですが、イエスはこれらのことが起こるのを前もって予言し、拷問されて十字架にかけられることも予知していたということ。

\次のページで「3-4、13日の金曜日」を解説!/

3-4、13日の金曜日

イエスが十字架にかけられたのが13日の金曜日だったので、キリスト教では13の数字、13日の金曜日が縁起が悪いとされているということ。

3-5、ユダヤ人が嫌われる理由

ユダヤ人迫害の歴史はヨーロッパでは古いですが、日本人には謎ですよね。

これは、イエスが捕らえられたとき、過越し祭の慣例であった罪人の恩赦で、総督ピラトがイエスを釈放したいがために、盗賊のバラバかイエスかの選択を民衆に選ばせたのですが、ユダヤ人の群衆は祭司長や長老たちにそそのかされて、バラバの赦免とイエスの処刑を要求。ピラトは不本意ながらこれに従ったため、バラバは釈放されたということで、イエスが処刑されてしまったのをユダヤ人の責任としているということ。

それがその後ヨーロッパでキリスト教が広まるにつれて、ユダヤ人が責められる原因のひとつにされたよう。が、今では福音書が書かれたのがイエスの死後40年から70年後のことで、ローマ帝国で布教するためにローマ人であるピラトを悪く書けずユダヤ人を悪者にしたかったのではと言われていて、もちろんイエスの処刑はピラトに責任があり、ユダヤ人に責任があるはずがない誤った解釈とされているという話。

今も人々を惹き付けるイエスの教えの数々は生きている

中世ヨーロッパでは、イエス・キリストが十字架にかけられたことを一日中悲しんで泣いている人がいたという話があり、最後の晩餐で使われた聖杯やイエスが架けられた十字架の切れ端などは、聖遺物と呼ばれているほど。中世にはエルサレムが異教徒に占領されているとヨーロッパから十字軍が遠征し、アラブ人と戦争になったのはどうかと思うけど、結果的に色々な文化交流ともなり先進的な文化がヨーロッパに入るきっかけになったなど、たしかにイエス・キリストを知らずにヨーロッパの歴史は理解できないのは確かだとうこと。

しかしイエスの教えである隣人愛や許しなどは、素朴で確かな真理が込められているため今も人々を惹き付けてやまないのだと思います。

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「イエス・キリスト」について歴女がわかりやすく解説!彼を知らずに西洋史は理解できない

今回はイエス・キリストを取り上げるぞ。

30歳で登場して数年の布教活動の後十字架にかけられた救世主ですが、今も熱心に信仰されている根拠とか知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。なぜか子供の頃からキリスト教になじみがあり、例によって昔読んだ本を引っ張り出し、親に聞いたことやネット情報で補足しつつ、イエス・キリストについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、イエスの名前と生年は

英語ではジーザスJesusと呼びますが、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはスペイン人(バスコ人)でイエズスと発音していたためか、日本ではイエスと呼ばれるように。もちろん、英語のYESとは無関係。

尚、救世主としてのイエスは、イエス・キリスト、歴史上の人物としてはナザレのイエスと区別。イエスと言う名は当時のユダヤ人にはありふれた名前で、神は救い、救う者を意味していて、キリストは「膏(こう、脂)をつけられた者」という意味の救い主の称号。

生まれたのは紀元前6年から紀元前4年頃と言われています。

西暦との関係
西暦とは、キリスト教でキリスト(救世主)のイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を紀元元年とした紀年法、暦で、6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが算出したもの。

紀元525年にディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世がキリスト教の復活祭の暦表を改訂する際、当時ローマで用いられていたローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位を紀元とする暦に替えて、イエス・キリスト生誕の翌年を元を年とする新たな紀元を提案したのが始まりで、紀元前のB.C.は「Before Christ」の略で、紀元後のA.D.は「Anno Domini」(アンノドミニ)の略、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。しかしその後の研究から、イエスの生まれたのは紀元0年ではなく、それ以前だろうということに。

尚、19世紀以降、非キリスト教徒との関係を考えて、ADを「Common Era」(CE、共通紀元)へ、BCを「Before Common Era」(BCE)に切り替える動きが広まっているということ。

1-2、イエスの誕生

Madona del gran duque, por Rafael.jpg
By ラファエロ・サンティUffizi, パブリック・ドメイン, Link

当時はローマ帝国に占領されていた、イスラエルのナザレに住んでいたヨセフの婚約者マリアは、結婚前に聖霊により身ごもったと天使から告知を受けました。そして紀元前4年12月25日、ヨセフはマリアを妻に迎えベツレヘムで男の子が誕生、イエスと名付けたということ。

また、ヨセフはナザレの人であったが、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に行われた住民登録のために身重の妻とベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたということに。しかし史実では住民登録はもう少し先の年代だということで、イスラエルの救世主であるメシアは、古代イスラエルの王ダビデの町のベツレヘムで生まれるという予言が旧約聖書にあることに由来、そしてメシアはダビデの家系に生まれるという予言があり、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書によると、イエスの父ヨセフも母マリアもダビデの末裔とされているので、イエスは予言通りの救世主ということに。

キリスト教ではこの日を救世主の生誕記念のクリスマスとして祝日になっていますが、聖書の記述にはイエスの誕生日を明確にしておらず、イエスの誕生日が12月25日であるという確証はなし。そして、ルカの福音書にイエスが誕生した時の様子として「羊飼いたちが夜に野宿しながら羊の群れの番を」の記述から、ベツレヘムでは羊飼いが夜に戸外にいるには寒いので、12月ではないということ。

12月25日が誕生日とされたのはなぜか
古くからキリスト教では、誕生日よりも復活の日が重要視されていたのですが、イエス・キリストの誕生が12月25日に定められたのは、4世紀半ば、コンスタンティヌス帝統治下のローマということ。

当時ローマでは太陽神を崇拝する宗教が勢力大で、この宗教は冬至の頃の12月25日が太陽神を祭る祝祭日だったので、キリストの誕生日もこの日に定められたそう。
日本でも仏教伝来で日本神話の神々と仏教との神仏習合が行われましたが、ヨーロッパにキリスト教が広まるために元からある土着の宗教との融合があったのですね。

1-3、イエス生誕時の赤ちゃん虐殺は

マタイ福音書によれば、当時のユダヤを統治していたヘロデ大王は、星を見て救世主の誕生を知って拝むためにやってきた東方の三博士たちから「新しいユダヤの王」の話を聞き、王は自分の地位を脅かされることを恐れて殺してしまおうと考え、ベツレヘムの2歳以下のすべての男子を殺害するよう命じて実行させたということ。

マタイ福音書では、イエスの両親ヨセフとマリアはお告げでこの危機を知り、エジプトに逃れたためイエスは殺害を免れたが、他の福音書にこの幼児虐殺のエピソードは記されていないそう。

これは、出エジプト記の、モーゼが生まれたとき、エジプトのファラオが生まれたばかりのヘブライ人の子を皆殺しにするよう命じたが、モーゼだけは助かり、後にこのモーゼによって民は解放された話を彷彿とさせるため、旧約聖書などで救世主の出現が預言されていることを成就させ、イエスの生涯を旧約聖書の預言の実現と合致させ、救世主として描くための意図で創作されたエピソードとする説あり。

また当時のベツレヘムは小さな寒村で人口は300人から1000人程度だったので、実際に殺された幼児は20人から30人程度の小規模の事件であるので、当時の専制君主のヘロデ王は、非道な虐殺行為を多く行っていたために他の歴史家がわざわざ記録するほどの事件ではなかったという解釈もあるそう。

尚、クリスマスにプレゼントをする習慣は、東方の3博士が赤ちゃんのイエスに贈り物をしたことから広まった習慣だということ。

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