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「排日移民法」はどのような歴史から生まれた?元大学教員が解説

正確には移民の受入れ人数を制限する法律

「排日移民法」の正確な名称は1924年移民法。あるいは、ジョンソン=リード法と呼ばれています。これは白人以外の移民をすべて排除するための法律で、厳密には日本人移民のみを対象とするものではありません。

この法律は、1890年の時点でアメリカに住んでいた各国移民数をベースに移民の年間受け入れ上限を2%以下にすることが目標。実際の算出数は、いろいろな利害関係を考慮する傾向があり、ヨーロッパ系の移民には比較有利になるように調整されたと言われています。

アジアからの移民は全面的に禁止

1924年の移民法では、アジア系の移民の受け入れを厳しく制限する条項が別につくられました。そのため、アメリカに移民として多数が渡っていた日本人や中国人は、不利な条件が付きつけられます。

なかでもアジア系移民の大半を占めていた日本人に大きな衝撃を与えることに。そこから「排日移民法」と呼ばれるようになりました。つまり、この名称自体、日本で使われているもので、アメリカでは使われていません。

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日本政府は、徐々にアメリカが排日の流れになっていることを配慮。日本からの渡航者を制限する自主規制も行っていた。そのためアメリカ政府の判断にびっくり。同時に日本人の反米感情も高まることとなった。

ハリウッドの映画制作にも影響を与えた排日移民法

1920年代のアメリカ・ハリウッドは映画制作の全盛期。スター俳優を多数輩出し、世界中に映画が公開されていました。そのようなタイミングで「排日移民法」が施行。当時のハリウッドスターのひとりであった日本人俳優はその影響を受けることになります。

外国人俳優として人気を集めた早川雪洲

1910年代からハリウッド映画スターの仲間入りを果たしたのが早川雪洲。舞台俳優として活動していた彼を一躍有名にしたのが「チート」という映画でした。雪洲が演じたのは、骨董収集を趣味に持つミステリアスな日本人。白人女性に襲いかかり、裁判にかけられるという役どころでした。

白人系の俳優と異なる独特の雰囲気から、日本人、中国人、モンゴル人などを演じる俳優として大人気に。ハリウッドの華やかな社交界にも出入りできるほどになりました。

身の危険を感じてパリに渡航

「排日移民法」が施行される流れのなかで雪洲は身の危険を感じるように。ある映画の撮影をしているとき、映画で使う資材が降ってきたこともあったと回想しています。彼が住んでいた豪邸の周囲にも、排斥を訴える人だかりができるようになりました。

そこで雪洲はハリウッドを離れパリに移住します。この当時のパリは「ロストジェネレーション」と呼ばれるアメリカ人作家など、いろいろな背景を持つ外国人を受け入れる空気がありました。雪洲はしばらくパリ生活を楽しんだあと、日本に帰国して俳優として活躍します。

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早川雪洲が主演をつとめた「チート」は当時の日本では未公開。日本人を差別的に描く映画に協力したと反日俳優のレッテルがはられた。日本に一時帰国したときには命の危機を感じるほどだった。それが一転、アメリカにもいられなくなったというわけだ。

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