
それじゃ、アメリカ人はどうして日系人を排斥するに至ったのか、白人種を優越視する考え方や、日本人が「脅威」と見なされた背景など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 日露戦争における日本勝利により「黄禍論」がうずまく
- 19世紀の日本のイメージは「ジャポニズム」
- 「黄禍論」は中国をはじめとする黄色人種脅威論
- カリフォルニアの「ゴールドラッシュ」で日本人のアメリカ行きが活発化
- ハワイへの移民は日本政府が推進
- 移民が制限されるなか考えだされたのが「写真花嫁」
- 1920年代のアメリカの科学は人種差別を後押しした
- 白人種の優越性をとなえる「ダーウィニズム」が流行
- 「優生学」がさらに移民の排除を科学的に裏づける
- 1924年に「排日移民法」が成立
- 正確には移民の受入れ人数を制限する法律
- アジアからの移民は全面的に禁止
- ハリウッドの映画制作にも影響を与えた排日移民法
- 外国人俳優として人気を集めた早川雪洲
- 身の危険を感じてパリに渡航
- 第二次世界大戦中の日系人の苦難
- 真珠湾攻撃をきっかけに強制収容所に入れられる
- 英語話者も多かった当時の日系人
- 「排日移民法」の発想は現代のアメリカにも根付いている
この記事の目次

ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日米の関係を歴史的に見ていくとき「排日移民法」を避けて通ることはできない。「排日移民法」が成立した背景には、アメリカの国民感情を刺激するいろいろな原因があった。そこで「排日移民法」が施行された背景と、その後に起こった関連する出来事をまとめてみた。
日露戦争における日本勝利により「黄禍論」がうずまく

アメリカ人にとって日本人が「脅威」と感じられたのは、大国であるロシアに勝利した日露戦争がきっかけであると言われています。文明化されていない小国であると思っていた日本の軍事力に世界中がおどろきました。
19世紀の日本のイメージは「ジャポニズム」
もともとアメリカにおける日本のイメージは「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」。ジョン・ルーサー・ロングの短編小説を劇作家であるベラスコが戯曲にしました。さらにプッチーニがオペラ化したことにより、蝶々夫人=日本人の典型として定着します。
蝶々夫人は、アメリカに帰国した男性をけなげに待ち続け、結ばれないことが分かると自ら命を絶つという悲劇。男性そしてアメリカ人に対する日本人女性の従順さをあらわした内容です。欧米により作られた日本のイメージは「ジャポニズム」と呼ばれ、脅威よりもむしろ空想的な存在でした。
「黄禍論」は中国をはじめとする黄色人種脅威論
「ジャポニズム」と入れ替わるようにして生まれたのが「黄禍論」。日露戦争の日本勝利をきっかけに「欧米の脅威を与えるアジア人」という考え方がアメリカ・ヨーロッパ諸国に広まりました。
アメリカの場合、イタリア系やアイルランド系に代わり、中国人や日本人が移民向けの仕事を占めるようになります。彼らは、ヨーロッパ系移民よりも低賃金でよく働くため重宝されました。結果としてアジア系の人々は白人を淘汰する「脅威」であると、警戒されるようになります。
カリフォルニアの「ゴールドラッシュ」で日本人のアメリカ行きが活発化
By Joseph Dwight Strong (1853-1899) – private collection (Taito Co., Ltd., Tokyo), パブリック・ドメイン, Link
アメリカにおける「黄禍論」の流行は、日本人移民の増加と切り離して考えることはできません。19世紀末のアメリカ・カリフォルニアで金鉱が発見。一獲千金を狙ってたくさんの人がカリフォルニアに向かう「ゴールドラッシュ」が発生します。日本人移民も、この「ゴールドラッシュ」をきっかけに増えました。
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ハワイへの移民は日本政府が推進
アメリカ本土の場合、急増するアジア系移民に脅威を感じ、早々に移住が制限されます。一方、アメリカ州になる以前のハワイは、日本人の最初の移住先でもあり、移民に対して寛容でした。そこで、ハワイ王国と移民受け入れに関する協力関係を構築。政府レベルでハワイ移住を推進します。
日本人がハワイで従事したのがサトウキビの栽培や砂糖づくり。1898年にアメリカ合衆国がハワイ共和国を併合。ハワイ準州となってからも、排日の機運が激化する1920年代までは、移住の制限はほとんどありませんでした。
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