「排日移民法」とは、1920年代にアメリカで施行された法律のひとつ。東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、東アジアの移民の入国を制限するものですが、アジア人のなかでも日本人は差別的に排斥された。また、このような人種差別は太平洋戦争中にも激化。当時アメリカ国民として生きていた日系の人々は、強制収容所に入れられたという歴史がある。

それじゃ、アメリカ人はどうして日系人を排斥するに至ったのか、白人種を優越視する考え方や、日本人が「脅威」と見なされた背景など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日米の関係を歴史的に見ていくとき「排日移民法」を避けて通ることはできない。「排日移民法」が成立した背景には、アメリカの国民感情を刺激するいろいろな原因があった。そこで「排日移民法」が施行された背景と、その後に起こった関連する出来事をまとめてみた。

日露戦争における日本勝利により「黄禍論」がうずまく

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アメリカ人にとって日本人が「脅威」と感じられたのは、大国であるロシアに勝利した日露戦争がきっかけであると言われています。文明化されていない小国であると思っていた日本の軍事力に世界中がおどろきました。

19世紀の日本のイメージは「ジャポニズム」

もともとアメリカにおける日本のイメージは「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」。ジョン・ルーサー・ロングの短編小説を劇作家であるベラスコが戯曲にしました。さらにプッチーニがオペラ化したことにより、蝶々夫人=日本人の典型として定着します。

蝶々夫人は、アメリカに帰国した男性をけなげに待ち続け、結ばれないことが分かると自ら命を絶つという悲劇。男性そしてアメリカ人に対する日本人女性の従順さをあらわした内容です。欧米により作られた日本のイメージは「ジャポニズム」と呼ばれ、脅威よりもむしろ空想的な存在でした。

「黄禍論」は中国をはじめとする黄色人種脅威論

「ジャポニズム」と入れ替わるようにして生まれたのが「黄禍論」。日露戦争の日本勝利をきっかけに「欧米の脅威を与えるアジア人」という考え方がアメリカ・ヨーロッパ諸国に広まりました。

アメリカの場合、イタリア系やアイルランド系に代わり、中国人や日本人が移民向けの仕事を占めるようになります。彼らは、ヨーロッパ系移民よりも低賃金でよく働くため重宝されました。結果としてアジア系の人々は白人を淘汰する「脅威」であると、警戒されるようになります。

カリフォルニアの「ゴールドラッシュ」で日本人のアメリカ行きが活発化

'Japanese Laborers on Spreckelsville Plantation', oil on canvas painting by Joseph Dwight Strong, 1885, private collection.jpg
By Joseph Dwight Strong (1853-1899) - private collection (Taito Co., Ltd., Tokyo), パブリック・ドメイン, Link

アメリカにおける「黄禍論」の流行は、日本人移民の増加と切り離して考えることはできません。19世紀末のアメリカ・カリフォルニアで金鉱が発見。一獲千金を狙ってたくさんの人がカリフォルニアに向かう「ゴールドラッシュ」が発生します。日本人移民も、この「ゴールドラッシュ」をきっかけに増えました。

ハワイへの移民は日本政府が推進

アメリカ本土の場合、急増するアジア系移民に脅威を感じ、早々に移住が制限されます。一方、アメリカ州になる以前のハワイは、日本人の最初の移住先でもあり、移民に対して寛容でした。そこで、ハワイ王国と移民受け入れに関する協力関係を構築。政府レベルでハワイ移住を推進します。

日本人がハワイで従事したのがサトウキビの栽培や砂糖づくり。1898年にアメリカ合衆国がハワイ共和国を併合。ハワイ準州となってからも、排日の機運が激化する1920年代までは、移住の制限はほとんどありませんでした。

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移民が制限されるなか考えだされたのが「写真花嫁」

大部分の男性は移住当初は独身。生活が安定すると結婚を考えるようになります。しかし、一度渡航したら日本に帰ることはほぼ不可能。直接会って、お見合いすることはできませんでした。

そこで考え出されたのが「写真花嫁」というシステム。これは写真のみでお見合いをし、結婚が決まったら花嫁が渡航するというもの。しかしこの行動は「不道徳」であるとアメリカに強い衝撃を与え、結果として日本人排除の風潮を強めることになりました。

1920年代のアメリカの科学は人種差別を後押しした

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アメリカ合衆国にて人種差別の機運が一気に高まったのが1920年代。日本人をはじめとする外国人の移住を制限する「排日移民法」が1924年に施行されたことも、この流れを勢いづけました。その法律の必要性を裏づけたのが同時の最新の科学でした。

白人種の優越性をとなえる「ダーウィニズム」が流行

「排日移民法」を施行するとき、ただ感情的に決定したわけではありません。当時の「科学」の考え方を理由に移民を排除することが正しいとされました。その「科学」とは「ダーウィニズム」と呼ばれるものです。

科学者であるダーウィンが、生物は生き残るために進化をし、それに適応できなかったものは絶滅するという見方を示しました。この「適者生存」を差別的にアレンジして、人類のなかで最も優れた白人種が生き残るためには、その他の人種を排斥する必要があると唱えたのです。

「優生学」がさらに移民の排除を科学的に裏づける

「ダーウィニズム」と関連するかたちで「排日移民法」の施行を後押ししたのが「優生学」です。これは、遺伝的に優れた者と劣った者を区別し、両者が結婚や出産などで交わらないようにするべきだ、と考えるもの。見た目、身体能力、学力など、あらゆる面で区別されました。

「優生学」を根拠に、アメリカに住む白人種の血統を守るため、移民を制限することは適切であるとみなされます。同時のアメリカでは、移民のみならず、アメリカ先住民(インディアン)、アフリカ系の人々を差別する際にも利用されました。

1924年に「排日移民法」が成立

Bundesarchiv Bild 102-00598, Tokio, Demonstranten vor amerikanischer Botschaft.jpg
By Bundesarchiv, Bild 102-00598 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link

このように人種差別の機運が高まるアメリカで、1924年に施行されたのが「排日移民法」。とくにアジアエリアからの移民に厳しく適用される内容でした。アジア系の移民の半分以上が日本人であったため、実質、日本人を排斥する法律となります。

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正確には移民の受入れ人数を制限する法律

「排日移民法」の正確な名称は1924年移民法。あるいは、ジョンソン=リード法と呼ばれています。これは白人以外の移民をすべて排除するための法律で、厳密には日本人移民のみを対象とするものではありません。

この法律は、1890年の時点でアメリカに住んでいた各国移民数をベースに移民の年間受け入れ上限を2%以下にすることが目標。実際の算出数は、いろいろな利害関係を考慮する傾向があり、ヨーロッパ系の移民には比較有利になるように調整されたと言われています。

アジアからの移民は全面的に禁止

1924年の移民法では、アジア系の移民の受け入れを厳しく制限する条項が別につくられました。そのため、アメリカに移民として多数が渡っていた日本人や中国人は、不利な条件が付きつけられます。

なかでもアジア系移民の大半を占めていた日本人に大きな衝撃を与えることに。そこから「排日移民法」と呼ばれるようになりました。つまり、この名称自体、日本で使われているもので、アメリカでは使われていません。

ハリウッドの映画制作にも影響を与えた排日移民法

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By Wisconsin Center for Film and Theater Research - http://www.wisconsinhistory.org/whi/fullRecord.asp?id=68690, Public Domain, Link

1920年代のアメリカ・ハリウッドは映画制作の全盛期。スター俳優を多数輩出し、世界中に映画が公開されていました。そのようなタイミングで「排日移民法」が施行。当時のハリウッドスターのひとりであった日本人俳優はその影響を受けることになります。

外国人俳優として人気を集めた早川雪洲

1910年代からハリウッド映画スターの仲間入りを果たしたのが早川雪洲。舞台俳優として活動していた彼を一躍有名にしたのが「チート」という映画でした。雪洲が演じたのは、骨董収集を趣味に持つミステリアスな日本人。白人女性に襲いかかり、裁判にかけられるという役どころでした。

白人系の俳優と異なる独特の雰囲気から、日本人、中国人、モンゴル人などを演じる俳優として大人気に。ハリウッドの華やかな社交界にも出入りできるほどになりました。

身の危険を感じてパリに渡航

「排日移民法」が施行される流れのなかで雪洲は身の危険を感じるように。ある映画の撮影をしているとき、映画で使う資材が降ってきたこともあったと回想しています。彼が住んでいた豪邸の周囲にも、排斥を訴える人だかりができるようになりました。

そこで雪洲はハリウッドを離れパリに移住します。この当時のパリは「ロストジェネレーション」と呼ばれるアメリカ人作家など、いろいろな背景を持つ外国人を受け入れる空気がありました。雪洲はしばらくパリ生活を楽しんだあと、日本に帰国して俳優として活躍します。

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第二次世界大戦中の日系人の苦難

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By USN - This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 196243., パブリック・ドメイン, Link

「排日移民法」以降も、南北アメリカ、ハワイ島を拠点に生計を立てる日系人は存在。そこで生まれた子どもは「日系2世」としてアメリカに住まいを構えました。しかし、日本軍による真珠湾攻撃をきっかけに彼らの生活は一転します。

真珠湾攻撃をきっかけに強制収容所に入れられる

とくに日系人が多くを占めていたのがハワイのオワフ島。当時の合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルトは日系人によるスパイ活動を警戒するようになります。そのため極秘に日系人のリストアップなど情報収集が進められていました。

1948年の12月、オワフ島の真珠湾にある米軍基地を日本軍が攻撃、太平洋戦争が開始されます。それと同時に、ハワイ、ブラジル、ペルーなどに住んでいた日系人は取り締まられることに。日本がポツダム宣言を受諾し終戦が決まるまで彼らは強制収容所での生活が続きます。

英語話者も多かった当時の日系人

太平洋戦争の時期、ハワイや南北アメリカに住んでいた日系人は2世が中心。アメリカで生まれ育っていたため、多少の日本語は話せるものの、英語話者であることが大部分。日本に想いを寄せる感情ありますが、基本的にアメリカ国民としての意識を強く持っていました。

日系人を排斥する風潮が出てくると、合衆国を支持する看板をかかげるなど、アメリカに対する忠誠心をアピールする行動をおこしたと言われています。太平洋戦争が開戦されたことで、この時期の日系人は、日本とアメリカの狭間で居場所を失う結果となりました。

「排日移民法」の発想は現代のアメリカにも根付いている

現在のアメリカ合衆国では、移住を希望する人々にグリーンカードが発給する仕組みがあります。それをトランプ大統領が「廃止」すると宣言。海外からの移住者が多いアメリカにおいて賛否両論が沸き起こりました。アメリカは世界トップクラスに移民国。そのため経済や政治が不安定になると、必ず移民を排斥する行動が目立ち始めます。「排日移民法」そのものは1920年代の法律。しかし、外国人の移民を制限する発想はアメリカにてリアルタイムで起こっていることを忘れてはなりません。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

「排日移民法」はどのような歴史から生まれた?元大学教員がわかりやすく解説

「排日移民法」とは、1920年代にアメリカで施行された法律のひとつ。東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、東アジアの移民の入国を制限するものですが、アジア人のなかでも日本人は差別的に排斥された。また、このような人種差別は太平洋戦争中にも激化。当時アメリカ国民として生きていた日系の人々は、強制収容所に入れられたという歴史がある。

それじゃ、アメリカ人はどうして日系人を排斥するに至ったのか、白人種を優越視する考え方や、日本人が「脅威」と見なされた背景など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日米の関係を歴史的に見ていくとき「排日移民法」を避けて通ることはできない。「排日移民法」が成立した背景には、アメリカの国民感情を刺激するいろいろな原因があった。そこで「排日移民法」が施行された背景と、その後に起こった関連する出来事をまとめてみた。

日露戦争における日本勝利により「黄禍論」がうずまく

image by PIXTA / 2046456

アメリカ人にとって日本人が「脅威」と感じられたのは、大国であるロシアに勝利した日露戦争がきっかけであると言われています。文明化されていない小国であると思っていた日本の軍事力に世界中がおどろきました。

19世紀の日本のイメージは「ジャポニズム」

もともとアメリカにおける日本のイメージは「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」。ジョン・ルーサー・ロングの短編小説を劇作家であるベラスコが戯曲にしました。さらにプッチーニがオペラ化したことにより、蝶々夫人=日本人の典型として定着します。

蝶々夫人は、アメリカに帰国した男性をけなげに待ち続け、結ばれないことが分かると自ら命を絶つという悲劇。男性そしてアメリカ人に対する日本人女性の従順さをあらわした内容です。欧米により作られた日本のイメージは「ジャポニズム」と呼ばれ、脅威よりもむしろ空想的な存在でした。

「黄禍論」は中国をはじめとする黄色人種脅威論

「ジャポニズム」と入れ替わるようにして生まれたのが「黄禍論」。日露戦争の日本勝利をきっかけに「欧米の脅威を与えるアジア人」という考え方がアメリカ・ヨーロッパ諸国に広まりました。

アメリカの場合、イタリア系やアイルランド系に代わり、中国人や日本人が移民向けの仕事を占めるようになります。彼らは、ヨーロッパ系移民よりも低賃金でよく働くため重宝されました。結果としてアジア系の人々は白人を淘汰する「脅威」であると、警戒されるようになります。

カリフォルニアの「ゴールドラッシュ」で日本人のアメリカ行きが活発化

'Japanese Laborers on Spreckelsville Plantation', oil on canvas painting by Joseph Dwight Strong, 1885, private collection.jpg
By Joseph Dwight Strong (1853-1899) – private collection (Taito Co., Ltd., Tokyo), パブリック・ドメイン, Link

アメリカにおける「黄禍論」の流行は、日本人移民の増加と切り離して考えることはできません。19世紀末のアメリカ・カリフォルニアで金鉱が発見。一獲千金を狙ってたくさんの人がカリフォルニアに向かう「ゴールドラッシュ」が発生します。日本人移民も、この「ゴールドラッシュ」をきっかけに増えました。

ハワイへの移民は日本政府が推進

アメリカ本土の場合、急増するアジア系移民に脅威を感じ、早々に移住が制限されます。一方、アメリカ州になる以前のハワイは、日本人の最初の移住先でもあり、移民に対して寛容でした。そこで、ハワイ王国と移民受け入れに関する協力関係を構築。政府レベルでハワイ移住を推進します。

日本人がハワイで従事したのがサトウキビの栽培や砂糖づくり。1898年にアメリカ合衆国がハワイ共和国を併合。ハワイ準州となってからも、排日の機運が激化する1920年代までは、移住の制限はほとんどありませんでした。

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