国語日本史飛鳥時代

飛鳥時代を代表する政治家「聖徳太子(厩戸皇子)」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

緊張状態の隋の思惑

アジアの中心的国家だった隋。しかし、その寿命は短く、まだ二代目だった煬帝の代で幕を下ろします。というのも、煬帝は運河造りなどで人々を酷使し、さらには周辺諸国に戦争をふっかけまくっていたからです。

小野妹子が遣隋使として隋を訪れたとき、煬帝は朝鮮半島の高句麗を狙って遠征を繰り返していましたが、すべて失敗に終わっていました。それに他の国とも戦争状態にありましたから、ここでさらに日本も敵に回すと面倒だと考えたのでしょう。翌年、大和朝廷に隋から裴世清(はいせいせい)という使者がやって来て国交が始まります。

飛鳥文化を代表する法隆寺

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法隆寺を舞台にした正岡子規の有名な俳句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」と並ぶ俳句の代名詞です。

現在の奈良県生駒郡斑鳩町に移り住んでいた聖徳太子が自身の宮殿だった斑鳩宮に隣接して建てたのが、この句に詠まれた法隆寺でした。金堂と五重塔を中心とした西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物とされているのです。

また、法隆寺には渡来人仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)がつくった「釈迦三尊像」や、作者不明の「百済観音像」、タマムシの羽が貼られていた「玉虫厨子」に始まり数々の国宝が眠っています。

聖徳太子の没後

蘇我入鹿による襲撃

聖徳太子は皇太子でもありましたが、ついに天皇になることはありませんでした。しかし、推古天皇が崩御し、新たな天皇を決める際にその候補に聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が挙がります。山背大兄王もまた時の権力者蘇我氏と親戚でしたから、蘇我氏は彼を推薦するだろう誰もが考えるでしょう。

ところが、蘇我氏は血縁関係のない舒明天皇を即位させたのです。このまま蘇我氏と血縁関係のない天皇の時代になるのかと思いきや、次の天皇には蘇我入鹿は自分のいとこにあたる古人大兄皇子を擁立します。この一件によって山背大兄王と蘇我氏の関係は悪化することとなりました。

そうして、とうとう蘇我入鹿は山背大兄王を襲撃し、聖徳太子の一族全員を自害に追い込んで滅亡させたのでした。

中大兄皇子と中臣鎌足のクーデター

山背大兄王襲撃を含む蘇我氏の専横に人々の不満は爆発寸前にまで膨らんでいました。そこで中大兄皇子と中臣鎌足は、朝鮮半島から使節が来たので天皇に貢物を渡す儀式をする、とウソをついて皇居に蘇我入鹿を呼び出したのです。天皇の御前で行われる儀式に、いくら蘇我入鹿と言えど刀は持てません。まんまと丸腰にされた蘇我入鹿は儀式の最中に中大兄皇子によって殺害されてしまいました。この蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」といいます。

蘇我入鹿の死が蘇我氏衰退の決定的な一手です。瞬く間に蘇我邸が中大兄皇子たちに取り囲まれると、蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷は自ら自宅に火を放って自害したのでした。

蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子たちは、翌年に難波宮(大阪市)にて「改新の詔」を発します。これが「大化の改新」の始まりでした。

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