国語日本史飛鳥時代

飛鳥時代を代表する政治家「聖徳太子(厩戸皇子)」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

飛鳥時代を代表する政治家・聖徳太子

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By 不明 – Japanese Painting Anthlogy, ed.et publ. by SINBI-SHOIN, TOKYO, 1941, パブリック・ドメイン, Link

女帝・推古天皇と摂政・聖徳太子の誕生

「丁未の乱」によって物部氏の滅亡が決定打となり、朝廷は蘇我氏の思うがままとなりました。蘇我馬子は当初の目論見通り泊瀬部皇子を皇位につけて崇峻天皇としましたが、やがて仲違いして崇峻天皇は暗殺されてしまいます。

次に蘇我馬子が即位させたのは、やはり蘇我氏の血を引く推古天皇でした。推古天皇は日本初の女性天皇ということで、推古天皇を補佐する役が必要があります。そこで聖徳太子は日本で初めて「摂政」という役職に任命されたのでした。

以降、摂政は女性天皇や幼い天皇を補佐する役職として機能していきます。

「冠位十二階」で優秀な人材を登用

摂政に就任した聖徳太子は新しい制度を朝廷に取り入れ始めます。まずは603年に設けられた「冠位十二階」。日本初の位階制度で、冠の色によって階級を表します。色は偉い順に紫、青、赤、黄、白、黒の六つ。これに濃淡をつけてさらに大小を区別するというもの。

ただ色によって階級を分かりやすく分けただけではありません。そもそも、これまで朝廷の役職は氏姓制度による世襲制度で親から子へと受け継がれていました。これを打破すべく、聖徳太子は身分の貴賤に問わず能力のある人や、なんらかの功績を立てた人が役人として活躍してもらうべく仕組みを変えたのです。

たとえどんな偉い氏族の出身でも他のみんなと同じように一から頑張ってね、と豪族の勢力を抑えようとしたのでしょう。しかし、蘇我馬子がこの制度外だったりと、聖徳太子の思惑通りに機能していたのかは疑問が残ってしまいました。

役人の心得「十七条の憲法」

「冠位十二階」の翌604年、「十七条の憲法」が制定されました。文字通り17個の条文によって構成される憲法……なのですが、現代で言うところの「憲法」とは少し意味合いが違います。「現代の憲法」は「国民みんなが守るべきもの(最高法規)」ですが、聖徳太子の「十七条の憲法」は国民に向けられたものではなく、「役人の心得」だったのです。

では、「十七条の憲法」の中で特に重要な最初の三つを解説いたします。

「一に曰く、和をもって貴しとなし」この時代は豪族同士の争いが絶えませんでしたから、みんな仲良くしてね、ということです。

「二に曰く、篤く三宝を敬え」三宝とはいわゆる「仏」「法」「僧」のこと。つまり、仏様とその教え、それらを信奉する僧侶を大切にしなさい、ということ。

「三に曰く、詔を承りては必ず謹め」詔は天皇の命令のことですね。要するに、天皇の命令は絶対従いなさい、という意味です。

他にも「許可なく徴税してはいけない」など、豪族の権力が肥大化しないように封じ込め、天皇中心の朝廷を作ろうとしていたのがわかります。

ゴーゴー遣隋使!

当時のアジアの中心だったのは、大陸に君臨した「隋」。この大国に対して周辺諸国は貢物を行っていました。強い影響力を持つ国に貢物をすることを「朝貢」と言います。朝貢を献上することで大国を宗主国、自国を属国にして、大国の庇護を得ようとしたのです。日本もその例にもれず、古くは弥生時代から行ってきました。

聖徳太子もまた隋に使節を送って交流をはかります。そうして607年に遣隋使として派遣されたのが、小野妹子でした。天気予報も航海術も未熟な時代ですから、日本列島からユーラシア大陸へ行くだけでも命がけです。その旅の果てにようやく隋の煬帝に謁見が叶い、小野妹子は聖徳太子から託された手紙を渡します。

「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」

これは手紙の冒頭ですが、現代風に直すと「日が昇る国の王の私が、日の沈む国の王の煬帝に手紙を送る。調子はどうだ?」という内容。

地理的には確かに日本は太陽が昇って来る東側で、隋は太陽の沈む西側に位置します。けれど、政治の場でこれをこのままの意味で受け取るでしょうか?「日が昇る」「日が沈む」という表現は国の興亡を比喩しているようにも捉えられますね。とても目上の人に渡す手紙とは思えません。それに中華思想では天子はこの世にただひとりだけ。なのに、東の端っこの小国が天子を名乗るなんて許せません。

この手紙の内容に、もちろん煬帝は怒りました。しかし、煬帝は小野妹子に返事を持たせて無事に日本に帰国させます。

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