飛鳥時代の代表的政治家「聖徳太子(厩戸皇子)」は誰でも知っているな。

「十七条の憲法」や「遣隋使」の他に、一度に十人の話を聞き分けただの、神馬に乗って飛翔しただの伝説的な逸話も多い。

今回の記事は「聖徳太子」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。今回は聖徳太子にスポットライトを当てて飛鳥時代をさらに詳しく解説していく。

蘇我氏VS物部氏で紛糾する大和朝廷

馬屋で生まれた皇子

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古代日本に天皇を中心とする政治の基礎を築いた聖徳太子。彼は574年に馬屋で生まれたため、そのことにちなんで厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名付けられます。私たちが呼ぶ「聖徳太子」は彼の功績を称えて後世につけられた諡でした。(本編では聖徳太子で統一します)

聖徳太子は第三十一代用明天皇の第二皇子であり、母は欽明天皇の娘・穴穂部間人皇女というガッチガチの皇族です。しかも、穴穂部間人皇女は、飛鳥時代に絶大な権勢を誇った蘇我氏の血を引いています。このころの蘇我氏といったら朝廷では天皇よりも幅を利かせていましたから、その血を受け継ぐ聖徳太子は生まれながらのエリートでした。

仏教公伝で割れていた大和朝廷

古墳時代の終わり、朝鮮半島の百済の聖王から大和朝廷の欽明天皇へ仏教が公伝されていました。「公伝」を簡単に説明すると「王様から王様へ伝えること」という意味です。実は、公伝以前にすでに渡来人によって仏教は日本へ持ち込まれ、個人レベルで信仰されていました。百済の聖王が出てくるまで、大和朝廷は仏教に対してノータッチだったわけです。

しかし、日本にはイザナミノミコトなどが登場する日本神話の神々や、それぞれの氏族が先祖から祀ってきたカミ様がいました。百済の聖王が「仏教どう?すごくいいよ!」と今さら言ってきても、「いいね、うちもやるよ!」と気軽に信仰できる状態ではありません。

仏教の是非について、蘇我稲目(そがのいなめ)の崇仏派と、物部尾輿の廃仏派で大和朝廷は真っ二つに割れていました。結局、彼らの世代で決着をつけることはできず、子世代へと継承されていくのです。

仏教賛否論争に終止符を打つ「丁未の乱」

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天皇は欽明天皇から敏達天皇へ、蘇我氏は稲目から馬子へ、物部氏は尾輿から守屋へと代替わりしますが、いよいよもって崇仏派と廃仏派の対立が深まっていきます。敏達天皇が病で崩御し、さらに次の用明天皇も短い治世の間に帰らぬ人となってしまうと、両者は互いに違う天皇候補を立てて争うこととなりました。

そうして、とうとう蘇我馬子は河内国渋河(現在の東大阪)へ退いていた物部守屋の館を襲撃します。この戦いには14歳の聖徳太子も蘇我馬子側で参戦していたのです。

しかし、『日本書紀』には「攻めあぐねた蘇我氏が三度も退却した」と書かれるほど物部氏の兵は強く、打ち負かされそうになってしまいます。そこで聖徳太子は木で四天王の像を作って髪にさすと「もし戦いに勝たせていただけるなら、四天王のために寺院を建立いたします」と神仏に誓いを立てました。

この蘇我氏対物部氏の熾烈な戦いは「丁未の乱」と呼ばれ、蘇我氏側の勝利となります。聖徳太子は誓い通り大阪に四天王寺を建立し、現在まで受け継がれる歴史的な寺院となりました。

仏教を守る神様

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鬼を踏んでいるちょっとこわい顔をした仏像を見たことありませんか?それが四天王です。

四天王は仏法の守護神で、それぞれ東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天の四人の神様で構成されています。もともとは古代インドのバラモン教の神々でしたが、仏教に取り入れられて守護神となったのでした。

\次のページで「飛鳥時代を代表する政治家・聖徳太子」を解説!/

飛鳥時代を代表する政治家・聖徳太子

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By 不明 - Japanese Painting Anthlogy, ed.et publ. by SINBI-SHOIN, TOKYO, 1941, パブリック・ドメイン, Link

女帝・推古天皇と摂政・聖徳太子の誕生

「丁未の乱」によって物部氏の滅亡が決定打となり、朝廷は蘇我氏の思うがままとなりました。蘇我馬子は当初の目論見通り泊瀬部皇子を皇位につけて崇峻天皇としましたが、やがて仲違いして崇峻天皇は暗殺されてしまいます。

次に蘇我馬子が即位させたのは、やはり蘇我氏の血を引く推古天皇でした。推古天皇は日本初の女性天皇ということで、推古天皇を補佐する役が必要があります。そこで聖徳太子は日本で初めて「摂政」という役職に任命されたのでした。

以降、摂政は女性天皇や幼い天皇を補佐する役職として機能していきます。

「冠位十二階」で優秀な人材を登用

摂政に就任した聖徳太子は新しい制度を朝廷に取り入れ始めます。まずは603年に設けられた「冠位十二階」。日本初の位階制度で、冠の色によって階級を表します。色は偉い順に紫、青、赤、黄、白、黒の六つ。これに濃淡をつけてさらに大小を区別するというもの。

ただ色によって階級を分かりやすく分けただけではありません。そもそも、これまで朝廷の役職は氏姓制度による世襲制度で親から子へと受け継がれていました。これを打破すべく、聖徳太子は身分の貴賤に問わず能力のある人や、なんらかの功績を立てた人が役人として活躍してもらうべく仕組みを変えたのです。

たとえどんな偉い氏族の出身でも他のみんなと同じように一から頑張ってね、と豪族の勢力を抑えようとしたのでしょう。しかし、蘇我馬子がこの制度外だったりと、聖徳太子の思惑通りに機能していたのかは疑問が残ってしまいました。

役人の心得「十七条の憲法」

「冠位十二階」の翌604年、「十七条の憲法」が制定されました。文字通り17個の条文によって構成される憲法……なのですが、現代で言うところの「憲法」とは少し意味合いが違います。「現代の憲法」は「国民みんなが守るべきもの(最高法規)」ですが、聖徳太子の「十七条の憲法」は国民に向けられたものではなく、「役人の心得」だったのです。

では、「十七条の憲法」の中で特に重要な最初の三つを解説いたします。

「一に曰く、和をもって貴しとなし」この時代は豪族同士の争いが絶えませんでしたから、みんな仲良くしてね、ということです。

「二に曰く、篤く三宝を敬え」三宝とはいわゆる「仏」「法」「僧」のこと。つまり、仏様とその教え、それらを信奉する僧侶を大切にしなさい、ということ。

「三に曰く、詔を承りては必ず謹め」詔は天皇の命令のことですね。要するに、天皇の命令は絶対従いなさい、という意味です。

他にも「許可なく徴税してはいけない」など、豪族の権力が肥大化しないように封じ込め、天皇中心の朝廷を作ろうとしていたのがわかります。

ゴーゴー遣隋使!

当時のアジアの中心だったのは、大陸に君臨した「隋」。この大国に対して周辺諸国は貢物を行っていました。強い影響力を持つ国に貢物をすることを「朝貢」と言います。朝貢を献上することで大国を宗主国、自国を属国にして、大国の庇護を得ようとしたのです。日本もその例にもれず、古くは弥生時代から行ってきました。

聖徳太子もまた隋に使節を送って交流をはかります。そうして607年に遣隋使として派遣されたのが、小野妹子でした。天気予報も航海術も未熟な時代ですから、日本列島からユーラシア大陸へ行くだけでも命がけです。その旅の果てにようやく隋の煬帝に謁見が叶い、小野妹子は聖徳太子から託された手紙を渡します。

「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」

これは手紙の冒頭ですが、現代風に直すと「日が昇る国の王の私が、日の沈む国の王の煬帝に手紙を送る。調子はどうだ?」という内容。

地理的には確かに日本は太陽が昇って来る東側で、隋は太陽の沈む西側に位置します。けれど、政治の場でこれをこのままの意味で受け取るでしょうか?「日が昇る」「日が沈む」という表現は国の興亡を比喩しているようにも捉えられますね。とても目上の人に渡す手紙とは思えません。それに中華思想では天子はこの世にただひとりだけ。なのに、東の端っこの小国が天子を名乗るなんて許せません。

この手紙の内容に、もちろん煬帝は怒りました。しかし、煬帝は小野妹子に返事を持たせて無事に日本に帰国させます。

\次のページで「緊張状態の隋の思惑」を解説!/

緊張状態の隋の思惑

アジアの中心的国家だった隋。しかし、その寿命は短く、まだ二代目だった煬帝の代で幕を下ろします。というのも、煬帝は運河造りなどで人々を酷使し、さらには周辺諸国に戦争をふっかけまくっていたからです。

小野妹子が遣隋使として隋を訪れたとき、煬帝は朝鮮半島の高句麗を狙って遠征を繰り返していましたが、すべて失敗に終わっていました。それに他の国とも戦争状態にありましたから、ここでさらに日本も敵に回すと面倒だと考えたのでしょう。翌年、大和朝廷に隋から裴世清(はいせいせい)という使者がやって来て国交が始まります。

飛鳥文化を代表する法隆寺

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法隆寺を舞台にした正岡子規の有名な俳句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」と並ぶ俳句の代名詞です。

現在の奈良県生駒郡斑鳩町に移り住んでいた聖徳太子が自身の宮殿だった斑鳩宮に隣接して建てたのが、この句に詠まれた法隆寺でした。金堂と五重塔を中心とした西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物とされているのです。

また、法隆寺には渡来人仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)がつくった「釈迦三尊像」や、作者不明の「百済観音像」、タマムシの羽が貼られていた「玉虫厨子」に始まり数々の国宝が眠っています。

聖徳太子の没後

蘇我入鹿による襲撃

聖徳太子は皇太子でもありましたが、ついに天皇になることはありませんでした。しかし、推古天皇が崩御し、新たな天皇を決める際にその候補に聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が挙がります。山背大兄王もまた時の権力者蘇我氏と親戚でしたから、蘇我氏は彼を推薦するだろう誰もが考えるでしょう。

ところが、蘇我氏は血縁関係のない舒明天皇を即位させたのです。このまま蘇我氏と血縁関係のない天皇の時代になるのかと思いきや、次の天皇には蘇我入鹿は自分のいとこにあたる古人大兄皇子を擁立します。この一件によって山背大兄王と蘇我氏の関係は悪化することとなりました。

そうして、とうとう蘇我入鹿は山背大兄王を襲撃し、聖徳太子の一族全員を自害に追い込んで滅亡させたのでした。

中大兄皇子と中臣鎌足のクーデター

山背大兄王襲撃を含む蘇我氏の専横に人々の不満は爆発寸前にまで膨らんでいました。そこで中大兄皇子と中臣鎌足は、朝鮮半島から使節が来たので天皇に貢物を渡す儀式をする、とウソをついて皇居に蘇我入鹿を呼び出したのです。天皇の御前で行われる儀式に、いくら蘇我入鹿と言えど刀は持てません。まんまと丸腰にされた蘇我入鹿は儀式の最中に中大兄皇子によって殺害されてしまいました。この蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」といいます。

蘇我入鹿の死が蘇我氏衰退の決定的な一手です。瞬く間に蘇我邸が中大兄皇子たちに取り囲まれると、蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷は自ら自宅に火を放って自害したのでした。

蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子たちは、翌年に難波宮(大阪市)にて「改新の詔」を発します。これが「大化の改新」の始まりでした。

\次のページで「日本の伝説的政治家・聖徳太子」を解説!/

日本の伝説的政治家・聖徳太子

古代日本が国家として成長し、国の制度を整えていった時代にその舵を取ったのが聖徳太子でした。「冠位十二階」「十七条の憲法」、そして、「遣隋使」は後の日本を形作る第一歩だったのです。

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国語日本史飛鳥時代

飛鳥時代を代表する政治家「聖徳太子(厩戸皇子)」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

飛鳥時代の代表的政治家「聖徳太子(厩戸皇子)」は誰でも知っているな。

「十七条の憲法」や「遣隋使」の他に、一度に十人の話を聞き分けただの、神馬に乗って飛翔しただの伝説的な逸話も多い。

今回の記事は「聖徳太子」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。今回は聖徳太子にスポットライトを当てて飛鳥時代をさらに詳しく解説していく。

蘇我氏VS物部氏で紛糾する大和朝廷

馬屋で生まれた皇子

image by PIXTA / 21660094

古代日本に天皇を中心とする政治の基礎を築いた聖徳太子。彼は574年に馬屋で生まれたため、そのことにちなんで厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名付けられます。私たちが呼ぶ「聖徳太子」は彼の功績を称えて後世につけられた諡でした。(本編では聖徳太子で統一します)

聖徳太子は第三十一代用明天皇の第二皇子であり、母は欽明天皇の娘・穴穂部間人皇女というガッチガチの皇族です。しかも、穴穂部間人皇女は、飛鳥時代に絶大な権勢を誇った蘇我氏の血を引いています。このころの蘇我氏といったら朝廷では天皇よりも幅を利かせていましたから、その血を受け継ぐ聖徳太子は生まれながらのエリートでした。

仏教公伝で割れていた大和朝廷

古墳時代の終わり、朝鮮半島の百済の聖王から大和朝廷の欽明天皇へ仏教が公伝されていました。「公伝」を簡単に説明すると「王様から王様へ伝えること」という意味です。実は、公伝以前にすでに渡来人によって仏教は日本へ持ち込まれ、個人レベルで信仰されていました。百済の聖王が出てくるまで、大和朝廷は仏教に対してノータッチだったわけです。

しかし、日本にはイザナミノミコトなどが登場する日本神話の神々や、それぞれの氏族が先祖から祀ってきたカミ様がいました。百済の聖王が「仏教どう?すごくいいよ!」と今さら言ってきても、「いいね、うちもやるよ!」と気軽に信仰できる状態ではありません。

仏教の是非について、蘇我稲目(そがのいなめ)の崇仏派と、物部尾輿の廃仏派で大和朝廷は真っ二つに割れていました。結局、彼らの世代で決着をつけることはできず、子世代へと継承されていくのです。

仏教賛否論争に終止符を打つ「丁未の乱」

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天皇は欽明天皇から敏達天皇へ、蘇我氏は稲目から馬子へ、物部氏は尾輿から守屋へと代替わりしますが、いよいよもって崇仏派と廃仏派の対立が深まっていきます。敏達天皇が病で崩御し、さらに次の用明天皇も短い治世の間に帰らぬ人となってしまうと、両者は互いに違う天皇候補を立てて争うこととなりました。

そうして、とうとう蘇我馬子は河内国渋河(現在の東大阪)へ退いていた物部守屋の館を襲撃します。この戦いには14歳の聖徳太子も蘇我馬子側で参戦していたのです。

しかし、『日本書紀』には「攻めあぐねた蘇我氏が三度も退却した」と書かれるほど物部氏の兵は強く、打ち負かされそうになってしまいます。そこで聖徳太子は木で四天王の像を作って髪にさすと「もし戦いに勝たせていただけるなら、四天王のために寺院を建立いたします」と神仏に誓いを立てました。

この蘇我氏対物部氏の熾烈な戦いは「丁未の乱」と呼ばれ、蘇我氏側の勝利となります。聖徳太子は誓い通り大阪に四天王寺を建立し、現在まで受け継がれる歴史的な寺院となりました。

仏教を守る神様

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鬼を踏んでいるちょっとこわい顔をした仏像を見たことありませんか?それが四天王です。

四天王は仏法の守護神で、それぞれ東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天の四人の神様で構成されています。もともとは古代インドのバラモン教の神々でしたが、仏教に取り入れられて守護神となったのでした。

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