今回は新渡戸稲造を取り上げるぞ。

クリスチャンで武士道を書いた人ですね。いったいどういう人生を送ったのか、その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、新渡戸稲造について5分でわかるようにまとめた。

1-1、稲造は盛岡の生まれ

新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、文久2年8月8日(1862年9月1日)に陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)で誕生。父は南部藩の用人を務めた新渡戸十次郎、母はせき、稲造は3男で、幼名は稲之助。慶応3年(1867年)稲造が5歳の時、父十次郎が亡くなり、藩内の賢婦人として名高かった母せきの教育で育ったということ。

新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、子供の頃から稲造は西洋への憧れを持っていたそう。そして作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)で学ぶかたわらで、新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習いました。稲造は、明治8年(1876年)の明治天皇巡幸中、新渡戸家で休息された明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨のお言葉をかけられて農学を志すようになったそう。

新渡戸家の事情
稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、息子である祖父の傳(つとう)も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼり詰めた父十次郎も藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没。

しかし祖父の傳は、幕末期に荒れ地だった盛岡藩北部の三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路、稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父十次郎はそれを補佐し産業開発も行い、祖父の傳は江戸で材木業を営み成功したということ。この三本木原の総合開発事業は、新渡戸家三代(稲造の祖父傳、父十次郎、長兄七郎)にわたり行われていて、十和田市発展の礎となったそう。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功して盛岡藩に戻って、早世した次男で稲造の父十次郎に代わり、新渡戸家の柱に。

能力が高すぎて集団の中で浮いているが、独立独歩で成功する、なんとなく新渡戸家の家風が伝わる事情ですね。

1-2、稲造、盛岡から上京

明治4(1871)年9歳の時、祖父が亡くなり、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から、東京で勉強させてはどうかと手紙が届いたのをきっかけに上京、この時に稲造に改名。

上京後は叔父の養子になり、太田稲造として英語学校へ入学し、生涯の親友となる内村鑑三(キリスト教思想家)、宮部金吾(植物学者)と出会い、親交を深めることに。翌年には元盛岡藩主の南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりに退屈なので抜け出すことが多く、この不真面目さが原因で、叔父の信用を失ったそう。自分の小遣いで手袋を買ったのに「店の金を持ち出した」と疑われるありさまで、稲造は信頼を回復するために人が変わったように勉強に励むように。

そして13歳、創立間もない東京英語学校(東大の前身)に入学。ここで同じ南部出身で佐藤昌介(後の北海道帝国大初代総長)と親交を持ち、自分の将来について真剣に考えて農学の道に進むことを決意したそう。

1-3、札幌農学校へ

image by PIXTA / 23479836

稲造は明治9年(1877年)9月に、15歳で当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関で、エリート校だった札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国して入れ違いになったということ。

稲造は先祖譲りの硬骨漢で、学校の食堂に「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前が書いた通知が張られたとき、「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫んで、皆の前で紙を破り捨てたので、退学の一歩手前まで追い詰められたが、友人達の必死の嘆願で退学は免れたとか、教授と論争になったときに熱くなりすぎて殴り合いになったりなどで、「アクチーブ」(活動家)とあだ名が。

1-4、稲造、洗礼を受けてクリスチャンに

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By 関根正雄 - 『内村鑑三』清水書院, パブリック・ドメイン, Link

札幌農学校にわずか9か月しかいなかったクラーク博士は、一期生に対し「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃で続々と入信、クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していったということ。

稲造も、農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいたので早速署名し、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから受洗。クリスチャン・ネームは「パウロ」。この時にキリスト教に深い感銘を受けてのめり込んだそう。

学校で喧嘩があっても、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁し、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三らが「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に変更されたということ。

\次のページで「1-5、稲造、うつ病に」を解説!/

1-5、稲造、うつ病に

この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるように。やがて眼病を患って悪化、勉強の遅れへの焦りから鬱病にまで。数日後に、病気を知った母から手紙がきたので、明治13年(1880年)7月に盛岡に帰ると母は三日前に亡くなっていて、稲造は大きなショックを受けて鬱病がさらに悪化。

しかしその後、稲造母の死を知った内村鑑三に激励の手紙をもらって立ち直り、病気治療で東京へ。その後、洗礼を授けたハリスと横浜で再会、「サーター・リサータス」(Sartor Resartus)という一冊の本を譲られたということ。この本を読んだ稲造は鬱病を完全に克服、稲造は愛読書として生涯に幾度となく読み返したそうです。

サーター・リサータス「衣服哲学」
サーター・リサータスとは「仕立直された仕立屋」という意味で、イギリスの批評家、歴史家のトマス・カーライル著。「汝の最も手近な義務を果たせ。自分でそれが義務だと分かっているものを。汝の第2の義務は、その時、既に明らかになっているであろう」「目的地は、分からなくても、とりあえず、坂道を登る。そのうち、何かが見えてくる」などの名言で有名

カーライルは他に 「フランス革命」、「英雄と英雄崇拝」、「過去と現在」、「オリヴァー・クロムウェルの書簡と演説」、「現代パンフレット」、「フリードリッヒ大王の歴史」などもあらわしています。

2-1、稲造、アメリカへ留学

札幌農学校卒業後は、友人たちと共に国策で上級官吏として北海道庁に採用され、畑の害虫であるイナゴの異常発生の対策の研究等を行ったそう。

明治14年、札幌農学校を卒業。開拓使御用掛、農商務省御用掛を経て、明治16(1883)年上京し、成立学舎英語教師を一時務め、創立後間もない帝国大学(後の東京帝国大学、東京大学)に進学したが、少数精鋭主義でレベルの高かった札幌農学校に比べて帝国大学の研究レベルの低さに失望し、すぐに退学。

明治17年(1884年)、「太平洋の架け橋になりたい」とアメリカへ渡り、名門ジョンズ・ホプキンス大学に私費留学。費用は叔父が財産を投げ打って援助してくれたそう。

この頃には稲造は、伝統的なキリスト教信仰には懐疑的で地元のクエーカー派の集会に通い始めて正式に会員に。そしてクェーカーたちとの親交を通し、メアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会ったそう。稲造の日本についての講演を聴きに来たメアリーが稲造を見初めたという話も。

2-2、稲造、ドイツで博士号を取得、教授に

稲造は、札幌農学校から助教授として3年間農政学研究のためドイツ留学を命ぜられ、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学。明治23年(1890年)に学位論文「日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について」でハレ大学より文学士、哲学博士の称号を授与。この前年長兄七郎が、明治17年にすでに次兄道郎も亡くなっていたので、3男の稲造が新渡戸家を継ぐ事に。

そしてドイツから日本への帰途にアメリカでメアリーと結婚、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任。メアリーとの結婚については、当時はエルキントン家から強く反対されて結婚式にメリーの両親は出席しなかったが、後に和解したそう。

2-3、稲造、札幌農学校教授に、無料の遠友夜学校を設立

帰国後、稲造は札幌農学校教授となるが、農学関係科目だけでなく語学など多くの科目を受け持ち、おまけに教務主任、図書主任なども兼ねたということ。

そしてメアリーの実家のエルキントン家から遺産1000ドルの送金があったので、それを資金に勤労青少年のための夜学「遠友夜学校」を設立することに。

明治27年(1894年)設立の遠友夜学校は、札幌農学校の生徒が中心になって教師を務め、授業料、教科書も無料という、完全なボランティアで運営され、後に軍事教練を拒んで廃校に追いやられるまでの50年間運営されて、約1000人の生徒が卒業、中退者なども含めると6000人もの生徒が学んだそう。

2-4、稲造、「武士道」をあらわす

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By Inazō Nitobe (author) - ホートン図書館, パブリック・ドメイン, Link

この間、稲造の最初の著作「日米通交史」がジョンズ・ホプキンス大学から出版されて、同校から名誉学士号を授与。そして札幌で稲造とメアリーは体調を崩して、農学校を休職し、米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養したのですが、この療養中に名著「武士道」を英文で書きあげたということ。稲造は、メアリー夫人に、日本人としては当たり前の言動について疑問を投げかけられて答えられなかったこととか、ドイツ留学中にベルギー人のラブレー教授に、宗教教育をしないで、日本人はどうやって善悪を区別するのかなどと問われたことについて考え、日本人の美徳や精神をあらわす「武士道」をわかりやすく解説したそう。

この時期は、日清戦争の勝利などで日本や日本人に対する関心が高まっていた時期で、明治33年(1900年)に「武士道」の初版が刊行された後、ドイツ語、フランス語など各国語に訳されてベストセラーに。日本語版は日露戦争後の明治47年(1908年)に出版。

\次のページで「2-5、稲造、農学博士となり台湾へ」を解説!/

2-5、稲造、農学博士となり台湾へ

明治32年(1899年)、稲造は日本初の農学博士に。そして、民政長官をつとめていた同じ仙台出身の後藤新平と農商務大臣からの強い要請で1901年(明治34年)に札幌農学校を辞職、台湾総督府の技師に任命。台湾では稲造が提出した「糖業改良意見書」をもとに台湾糖業の振興が進み、台湾財政の独立に多大な貢献となり、稲造は住民の利益を尊重するという考え方で台湾での植民政策を行い、台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれているということです。

2-6、稲造、京大、東大、一高などの教授、学長を歴任

明治36年(1903年)、台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都大学教授に就任して、植民政策を講義。翌年からは京都大学教授専任となり、明治39年(1906)年京都大学から法学博士の学位を授与され、同年には東京帝国大学農科教授と兼任で第一高等学校校長に。

東大専任教授となるまで6年間、稲造は一高校長として、欧米的な人格教育を重視しコモンセンス(常識)の重要性を教えるなど、自由で革新的教育方針で生徒を教育。結果的に多くの立派な人材を社会に送り出したのですが、当時は学校内外の保守派から批判を受けたために大正2年(1913年)に退官。

明治44年(1911年)には初の日米交換教授として、アメリカの大学でも講義をし、「日米のかけ橋」の役割も果たしたということ。またこの頃から「婦人に勧めて」を執筆するなど、立ち遅れた女子教育にも熱心に取り組み、大正7年(1918年)、 東京女子大学の初代学長として設立に尽力、津田梅子の津田塾の顧問も務めたということ。

2-7、郷土会が発足

明治42年(1909年)、稲造の提唱で「郷土会」が発足。自主的な制約のない立場で、各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査が主眼で、メンバーは、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らのそうそうたる顔ぶれが加入。

2-8、稲造、国際連盟事務次長に選ばれる

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By 不明 - Ormerod Greenwood, Whispers of truth, York, Eng., William Sessions Limited, 1978, facing p. 137. Commentary : "For their wedding in Philadelphia on New Year's Day 1891"., パブリック・ドメイン, Link

大正9年(1920年)国際連盟の設立時、稲造は、教育者で「武士道」の著者として国際的に高名だということで事務次長の一人に選ばれたということ。稲造は、国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めたのですが、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向で否決された話は有名です。

稲造はエスペランティストとしても知られていたので、大正10年(1921年)に国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同したが、フランスの反対で実現せず。そして稲造は、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力、大正11年(1922年)には、ノーベル賞受賞者を主な委員に、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会、現在のユネスコの前身を発足させたということ。

1926年(大正15年)、稲造は7年間務めた事務次長を退任。その後は貴族院議員としても活動、また各地を講演し、三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねたということ。昭和4年(1929年)には太平洋問題調査会の理事長となり、同年京都で開催された第三回太平洋会議では議長を務めたり、東京医療利用組合設立へも尽力するなど様々な活動も。

オーランド諸島の位置
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バルト海のオーランド諸島帰属問題
歴史的にもなかなか複雑な事情のあるオーランド諸島の領有権争いが、第一次大戦後にフィンランドとスウェーデンの間で起こっていたのですが、稲造は、後々まで「新渡戸裁定」と呼ばれるようになった画期的な方法で解決。「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、言葉や文化風習はスウェーデン式」というもの。このせいでオーランド諸島は平和モデルの島となり、領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでに。住民からは今でも稲造は尊敬されていて、フィンランドでは稲造のおかげで現在も日本に親しみを持つ人が多いそう。

2-9、稲造、上海事変のオフレコ発言で炎上

image by PIXTA / 1818181

昭和7年(1932年)、第一次上海事変直後の2月4日に、稲造が地元新聞記者を前にオフレコで語った内容が紙面に掲載され、「わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい」などが激しく非難を飼い、多くの友人や弟子たちも去ったということ。

稲造は、大正13年(1924年)7月に排日移民法が施行されたのに憤慨し、二度とアメリカの土を踏まないと誓っていたのですが、昭和7年(1932年)に昭和天皇に頼まれて、反日感情高まるアメリカへ日本の立場を訴えに赴くことに。しかし、満洲国建国と時期が重なり「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」と、アメリカの友人たちからも反発されてしまいました。

昭和8年(1933年)、日本は国際連盟を脱退。稲造はその秋に、カナダのバンフでの太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席。出発前に昭和天皇は内々に稲造を呼んで「軍部の力が強くなってきたが、アメリカと戦争になっては困る。あなたはアメリカと親しいから、『何とか話し合いで戦争を食い止めることができるよう、ひとつ骨折ってもらいたい』、ただ内密に」と話されたと伝わっているということ。稲造は、会議終了後に倒れて入院。病名は出血性膵臓炎で、開腹手術が行われるが容態が急変して、享年72歳で没。

昭和59年(1984年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像になり、稲造生誕の地盛岡市と客死したカナダのビクトリア市は、現在姉妹都市に。

3、「武士道」の逸話

新渡戸稲造と言うよりも、「武士道」の著書が日露戦争で重要な役割を果たしたエピソードをご紹介します。

金子堅太郎は、明治4年(1871年)に18歳で岩倉使節団に同行した藩主黒田長知の随行員として團琢磨とともにアメリカに留学し、名門ハーバード大学ロウスクールで学び、法学位を取得、ハーバード大学出身の著名な政治家や議員、文学者、哲学者、ジャーナリストと交際し、在学中に大学OBのセオドア・ルーズベルトと親しくなった人でした。この金子は、帰国後は、内閣総理大臣秘書官として伊藤博文のもとで大日本帝国憲法、皇室典範、諸法典の起草にあたるなどしていたのですが、日露戦争時にアメリカに渡って、日本の戦争遂行を有利にするための外交交渉、外交工作を行ったのです。

当時のアメリカ大統領は彼の旧友のセオドア・ルーズベルトで、金子は密命を帯びてホワイトハウスを訪問したときのこと、数十人の客が待っていたのにもかかわらず、ルーズベルト大統領は廊下を走って来て金子を迎えて、「君はなぜもっと早く来なかったか、待っていたのに」と肩を抱きあって大喜び、執務室へ招き入れたということ。そして大統領は「今回の戦争で米国民は、日本に対して満腔の同情を寄せているが、軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言。驚く金子に大統領は、「日本人の精神がわかる本を教えてほしい」と依頼、金子は新渡戸稲造の「武士道」を贈りました。大統領は「武士道」を読んで感激し、30冊を購入して知人に配布、5人の子供にも与えるなどしておおいに日本を宣伝、自身も一層日本びいきになったということ。

以後、金子はルーズベルト大統領やハーバード人脈をフル活用、全米各地を回っての世論工作、外債募集と大活躍。全米での日露戦争への関心は高く、ハーバード・ロイヤーの金子は政治家、財界人、弁護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が殺到し、金子は大聴衆を前に日本軍の強さ、武士道精神を説明して感銘をあたえたそう。

日露戦争はとにかく日本が勝っている間に講和条約を結びたかった、そしてその停戦の仲介役をこなしたルーズベルト大統領は1906年のノーベル平和賞受賞し、アメリカ人初のノーベル賞受賞者に。

しかし、まさかの明治時代に、大学でアメリカ大統領と親しかった人が政府要人にいて重要な役割を果たしたというのもすごいけれど、この本一冊読めば日本人の精神がわかるという「武士道」の果たした役割も大変なもの。

100年前の明治とは思えない本物の国際人だった稲造

稲造は子供の頃から英語を学び、この時代のエリート教育を受けて留学、先進教育を身に付けて帰国し、お雇い外国人に代わって後進の指導を任された世代でした。稲造は期待に応えて学位をとって帰国、教育畑に進み、エリート校の教授として優秀な人材を育てただけでなく、「武士道」を著したことで教育者の枠を超えて、「太平洋の架け橋になりたい」とはやくから考えたとおりに尽力、国際連盟の事務次長としても今に伝えられる仕事を成し遂げ、歴史に名を残す偉人となりました。

しかし稲造の晩年の日本は軍国主義で太平洋戦争に向かってまっしぐらの時代となってしまい、日米両国の友人に反目された稲造の苦悩はいかばかりだったでしょう。

それでも90年近くたった今も「武士道」は時代を超えて読まれ続け、日本人の精神が意外なまでに外国人に理解され受け入れられている現状にさぞ驚かれるのではと思うこの頃です。

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日本史明治明治維新歴史

「武士道」の著者で教育者「新渡戸稲造」明治時代の国際人について歴女がわかりやすく解説

今回は新渡戸稲造を取り上げるぞ。

クリスチャンで武士道を書いた人ですね。いったいどういう人生を送ったのか、その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、新渡戸稲造について5分でわかるようにまとめた。

1-1、稲造は盛岡の生まれ

新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、文久2年8月8日(1862年9月1日)に陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)で誕生。父は南部藩の用人を務めた新渡戸十次郎、母はせき、稲造は3男で、幼名は稲之助。慶応3年(1867年)稲造が5歳の時、父十次郎が亡くなり、藩内の賢婦人として名高かった母せきの教育で育ったということ。

新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、子供の頃から稲造は西洋への憧れを持っていたそう。そして作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)で学ぶかたわらで、新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習いました。稲造は、明治8年(1876年)の明治天皇巡幸中、新渡戸家で休息された明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨のお言葉をかけられて農学を志すようになったそう。

新渡戸家の事情
稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、息子である祖父の傳(つとう)も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼり詰めた父十次郎も藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没。

しかし祖父の傳は、幕末期に荒れ地だった盛岡藩北部の三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路、稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父十次郎はそれを補佐し産業開発も行い、祖父の傳は江戸で材木業を営み成功したということ。この三本木原の総合開発事業は、新渡戸家三代(稲造の祖父傳、父十次郎、長兄七郎)にわたり行われていて、十和田市発展の礎となったそう。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功して盛岡藩に戻って、早世した次男で稲造の父十次郎に代わり、新渡戸家の柱に。

能力が高すぎて集団の中で浮いているが、独立独歩で成功する、なんとなく新渡戸家の家風が伝わる事情ですね。

1-2、稲造、盛岡から上京

明治4(1871)年9歳の時、祖父が亡くなり、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から、東京で勉強させてはどうかと手紙が届いたのをきっかけに上京、この時に稲造に改名。

上京後は叔父の養子になり、太田稲造として英語学校へ入学し、生涯の親友となる内村鑑三(キリスト教思想家)、宮部金吾(植物学者)と出会い、親交を深めることに。翌年には元盛岡藩主の南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりに退屈なので抜け出すことが多く、この不真面目さが原因で、叔父の信用を失ったそう。自分の小遣いで手袋を買ったのに「店の金を持ち出した」と疑われるありさまで、稲造は信頼を回復するために人が変わったように勉強に励むように。

そして13歳、創立間もない東京英語学校(東大の前身)に入学。ここで同じ南部出身で佐藤昌介(後の北海道帝国大初代総長)と親交を持ち、自分の将来について真剣に考えて農学の道に進むことを決意したそう。

1-3、札幌農学校へ

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稲造は明治9年(1877年)9月に、15歳で当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関で、エリート校だった札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国して入れ違いになったということ。

稲造は先祖譲りの硬骨漢で、学校の食堂に「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前が書いた通知が張られたとき、「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫んで、皆の前で紙を破り捨てたので、退学の一歩手前まで追い詰められたが、友人達の必死の嘆願で退学は免れたとか、教授と論争になったときに熱くなりすぎて殴り合いになったりなどで、「アクチーブ」(活動家)とあだ名が。

1-4、稲造、洗礼を受けてクリスチャンに

Kanzo Uchimura Kingo Miyabe Inazo Nitobe.jpg
By 関根正雄 – 『内村鑑三』清水書院, パブリック・ドメイン, Link

札幌農学校にわずか9か月しかいなかったクラーク博士は、一期生に対し「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃で続々と入信、クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していったということ。

稲造も、農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいたので早速署名し、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから受洗。クリスチャン・ネームは「パウロ」。この時にキリスト教に深い感銘を受けてのめり込んだそう。

学校で喧嘩があっても、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁し、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三らが「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に変更されたということ。

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