クリスチャンで武士道を書いた人ですね。いったいどういう人生を送ったのか、その辺のところを明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、新渡戸稲造について5分でわかるようにまとめた。
1-1、稲造は盛岡の生まれ
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、文久2年8月8日(1862年9月1日)に陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)で誕生。父は南部藩の用人を務めた新渡戸十次郎、母はせき、稲造は3男で、幼名は稲之助。慶応3年(1867年)稲造が5歳の時、父十次郎が亡くなり、藩内の賢婦人として名高かった母せきの教育で育ったということ。
新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、子供の頃から稲造は西洋への憧れを持っていたそう。そして作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)で学ぶかたわらで、新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習いました。稲造は、明治8年(1876年)の明治天皇巡幸中、新渡戸家で休息された明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨のお言葉をかけられて農学を志すようになったそう。
新渡戸家の事情
稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、息子である祖父の傳(つとう)も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼり詰めた父十次郎も藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没。
しかし祖父の傳は、幕末期に荒れ地だった盛岡藩北部の三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路、稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父十次郎はそれを補佐し産業開発も行い、祖父の傳は江戸で材木業を営み成功したということ。この三本木原の総合開発事業は、新渡戸家三代(稲造の祖父傳、父十次郎、長兄七郎)にわたり行われていて、十和田市発展の礎となったそう。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功して盛岡藩に戻って、早世した次男で稲造の父十次郎に代わり、新渡戸家の柱に。
能力が高すぎて集団の中で浮いているが、独立独歩で成功する、なんとなく新渡戸家の家風が伝わる事情ですね。
1-2、稲造、盛岡から上京
明治4(1871)年9歳の時、祖父が亡くなり、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から、東京で勉強させてはどうかと手紙が届いたのをきっかけに上京、この時に稲造に改名。
上京後は叔父の養子になり、太田稲造として英語学校へ入学し、生涯の親友となる内村鑑三(キリスト教思想家)、宮部金吾(植物学者)と出会い、親交を深めることに。翌年には元盛岡藩主の南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりに退屈なので抜け出すことが多く、この不真面目さが原因で、叔父の信用を失ったそう。自分の小遣いで手袋を買ったのに「店の金を持ち出した」と疑われるありさまで、稲造は信頼を回復するために人が変わったように勉強に励むように。
そして13歳、創立間もない東京英語学校(東大の前身)に入学。ここで同じ南部出身で佐藤昌介(後の北海道帝国大初代総長)と親交を持ち、自分の将来について真剣に考えて農学の道に進むことを決意したそう。
1-3、札幌農学校へ
稲造は明治9年(1877年)9月に、15歳で当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関で、エリート校だった札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国して入れ違いになったということ。
稲造は先祖譲りの硬骨漢で、学校の食堂に「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前が書いた通知が張られたとき、「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫んで、皆の前で紙を破り捨てたので、退学の一歩手前まで追い詰められたが、友人達の必死の嘆願で退学は免れたとか、教授と論争になったときに熱くなりすぎて殴り合いになったりなどで、「アクチーブ」(活動家)とあだ名が。
1-4、稲造、洗礼を受けてクリスチャンに
By 関根正雄 – 『内村鑑三』清水書院, パブリック・ドメイン, Link
札幌農学校にわずか9か月しかいなかったクラーク博士は、一期生に対し「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃で続々と入信、クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していったということ。
稲造も、農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいたので早速署名し、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから受洗。クリスチャン・ネームは「パウロ」。この時にキリスト教に深い感銘を受けてのめり込んだそう。
学校で喧嘩があっても、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁し、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三らが「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に変更されたということ。
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