幕末最強とも呼び声が高い警護組織だった新撰組ですが、各流派の免許皆伝となった剣客達が多数在籍していた。一から十までの隊に分けられて隊を纏められる者には組長を任せ各組を管理させていたようです。特に一番隊から三番隊の組長は新撰組の中でも随一の強さを誇っていた。

そこで今回は、三番隊の組長であった斎藤一について歴史マニアでもある歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

ある剣客漫画を読んで斎藤一という人物を知り、学生時代に本人の情報が載っている書籍を読み漁っていた。年寄りになっても尚、剣客時代の風貌をまとわせ幕末動乱の世を渡り歩いた斎藤一を紹介する。

謎の多い経歴

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本人の手記が残されている物が少ない為、幼少期時代の生い立ちがあまり分かっていません。浪士組を入隊した頃から山口一から斎藤一へと名を変えていきます。

天保の元旦に生まれる

天保15年1月1日に播磨国で三兄弟の末っ子として江戸で誕生し、父の山口右助は播磨国出身で明石浪人でした。また足軽として旗本の鈴木家に千石で仕えていたとされています。

幼少期時代は、書き残されていないためどのようにして育てられ生活していたかは不明でした。

旗本と騒動

十九歳の時に江戸小石川関口で、些細なことから旗本と喧嘩になり斬りつけてしまいます。斬りつけた理由は各地で、尊王攘夷活動が活発になり今後に必要な物は家柄ではなく腕が必要な時代であるといいました。

これを酒場で聞いていた旗本が斎藤の後を追い、双方刀を抜き斬りつけたとされています。これによって身を隠すために、父知り合いだった京都剣術道場の吉田某を頼っていきました。道場では腕を買われ師範代まで務めています。

浪士組の結成

吉田道場にいるより前から、剣術に関しては強いとされていて近藤勇の道場だった試衛館に出入りしていました。これは永倉新八が残した手記にも書かれていて、後の新撰組隊士と交流があったとされています。

1863年に清河八郎によって、将軍警護のために浪士組が結成されていました。浪士組の中には近藤率いる試衛館組も入隊しています。ところが清河は私的に、幕府から切り離し尊皇活動に利用しようと考えていきました。清河の動きをいち早く察知した幕府は、幕臣の佐々木只三朗と窪田泉太郎に斬殺を命じ清河を排除します。

壬生浪へ入隊

清河を失った浪士組の隊員達は幕府に、捕縛されていきます。清河の尊皇活動を批判した近藤は芹沢鴨らと共に会津藩の松平容保に預かられました。

その後、浪士組から壬生浪士組と名乗った時に京都へ上京し入隊。近藤らと面識があったことで隊士を募集していることを知り入隊したと思われます。近藤達と行動を共にしていない理由は分かりませんが、付いていけない状況にあったのかも知れません。

新撰組で様々な依頼を請け負っていく

壬生浪士組と名を改め、芹沢そして近藤や新見が主軸となり活動を開始していきます。また問題があった芹沢派を一掃し新撰組となり斎藤は新撰組のために活動していきました。

\次のページで「腹痛により事件が発生」を解説!/

腹痛により事件が発生

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文久三年の六月三日に、不逞浪士を取り締まるために近藤と芹沢らが高沢民部と柴田玄蓄の二名と捕縛します。京都から大阪へ来たついでに夜を満喫するため、酒豪だった芹沢ら八名にて大川で舟を浮かべ宴をしていました。

宴を楽しんでいましたが、斎藤が腹痛を訴え合同庁舎前に舟と付け厠を探しにいきます。斎藤を抱きかかえた芹沢らは、北新地に架かる蜆橋を渡ろうとしたところ反対側から大男集団が歩いて来るのが見えました。ここで乱闘事件が発生します。

力士との乱闘事件

京都守護台も任されていた立派な武家集団でもあったことから、芹沢はこちら側が先に橋を渡るのが筋だと思っていました。ところが力士達は何食わぬ顔で、先に橋を渡ろうとしてきます。

一向に退かない力士に対して芹沢は、鉄扇子で肩を力いっぱい叩くとその場に蹲り道を譲った力士達でした。しかし住吉楼で飲み直していると力士集団が押し寄せると、芹沢を筆頭に刀を抜き胴や腕を切り落とし力士を圧倒。力士達はあまりの強さに住吉楼から引き揚げていきました。

芹沢派を一掃

近藤は芹沢派と浪士組から行動してきましたが、芹沢派は問題を抱えており土方歳三などから不満の声が出ていました。問題を解決すると同時に芹沢派を一掃しようと計画していく近藤達。

文久三年9月13日には、新見錦を切腹させ9月18日に芹沢と平山五郎を酒に酔わせ暗殺しました。芹沢暗殺は長州志士の仕業として扱い近藤らの関与は疑われずに事なきを得ます。

壬生浪士組から新撰組へ

芹沢派を一掃し八月十八日の政変で、活躍が認められて新撰組と名を変えていきます。新撰組の名を賜ったころに、斎藤は副長助勤に任命され新撰組の幹部として隊員を統率していく役割をこなしていきました。

八月十八日の政変では、戦闘に至らずに終えていましたがこの時に初めて「誠」の一字を掲げた制服を羽織り蛤御門周辺の会津兵と共に警護した姿を評価されています。

池田屋事件

勤王派の志士達が、池田屋に集合し京都を火の海にする計画を知り京都内に隊士を走らせ計画に協力していた古高氏を捕え京都大火について拷問し自白させました。元治元年6月5日の二十二時頃に近藤ら四名で池田屋を襲撃し、土方隊として遅れて加勢。大きな活躍をしたとは書かれておりませんが、会津藩から十両と別段七両の恩賞を得ています。

活躍が無いのにも関わらず恩賞が出ていたことを考えると後詰め隊として逃げていた勤王派を、捕縛した活躍を評価されたのでしょう。

\次のページで「密偵として新撰組を離隊」を解説!/

密偵として新撰組を離隊

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山南敬助死後に土方に次ぐ地位にいた、伊東甲子太郎は薩摩藩などを探るために新撰組を脱退します。伊東は脱隊後に御陵衛士を結成していき志を同じくする隊士を引き抜き計十五名が新撰組から御陵衛士へ入隊していきました。

入隊していく中には、新撰組の密偵として斎藤が潜り込みます。その他にも追いかけるようにして新撰組から入隊しようとする者もいましたが、何者かによって暗殺されてしまった者もおり新撰組との行き来を禁止していました。

油小路事件

密偵として入隊していた斎藤は、伊東が薩摩藩と共謀して近藤を暗殺しようと計画を企ていたことを察知すると情報を近藤らに流していました。伊東を始末する理由が出来たことで斎藤は、御陵衛士に居座る理由も無くなり金銭に困った素振りを見せていきます。

そして御陵衛士の活動資金を盗み出して逃亡し、新撰組へ帰隊しました。池田七三郎によると副長助勤は公用にて、旅行をしていたとされています。慶應3年11月18日に国事の相談があるといって伊東を宴に呼び出したところ、新撰組の隊士五十名ほどで宴を終えた帰り道だった伊東ら御陵衛士を暗殺しました。伊東暗殺任務にも斎藤の名が書かれています。

斎藤命を落としそうになる

油小路事件を終えてから直ぐの事で、佐幕派だった紀州藩士三浦休太郎の不審な動きを察知した陸奥宗光は海援隊と陸援隊に暗殺計画を立ていきます。陸奥の動きを察した三浦は紀州藩を経由して会津藩に応援を、要請したことで新撰組が護衛任務を行っていきました。

慶応3年12月7日に天満屋で護衛と称し宴をしていると、海援隊と陸援隊が総勢十五名で刀を抜いて突入してきます。突然のことだったことで、新撰組隊士が遅れをとり出会い頭に三浦が斬られてしまいました。幸い大事に至らずに済み、両者が入り乱れての戦闘となるも篝火を消し暗闇での斬り合いとなっていきます。

この時に斎藤は奮戦するも辺りが何も見えない中で、背中を斬られ危うく命を取られそうになったところ平隊士が身代わりとなり九死に一生を得ました。

幕府の転覆と新政府での活躍

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最強の剣客集団として名を馳せていた新撰組でしたが、倒幕の動きが強くなっていき過激さを増していく長州藩や薩摩藩。斎藤も最後まで幕府に従い各地を転戦していきます。そして時代が変わり斎藤も、新しい政府の中で生きていく様子を見ていきましょう。

将軍の臨時案

江戸幕府が立ち上がり、将軍が全て国の管理をしていおり実質的に頂点に位置した存在でした。ところが幕府に管理を任せていた朝廷が自立して勢力を持ち始めたことで幕府の正当性が失われつつある状況。約二百六十年に及ぶ江戸幕府の大政論を見直しを図るために朝廷と交渉を始めます。

交渉した末に、慶応3年に征夷大将軍徳川慶喜は内戦を避けるために大政を朝廷に返上したことで大政奉還が成立しました。大政奉還の目的は、徳川幕府の独立性を修正し国家の意思形成と統一性を図ろうとする狙いがありました。しかし話し合いが進まない間に、討幕派が反乱を起こし将軍の思惑通りに事が運べなく新政府と幕府との争いへ発展します。

鳥羽伏見から宇都宮戦

大政奉還後に新撰組は江戸幕府軍に従い戊辰戦争に参加します。新撰組の主戦力である斎藤達はまず鳥羽伏見の戦いへ参戦。伏見奉行所で陣を構え竹中重固が指揮官として配置されるも薩摩藩の奇襲攻撃によって幕府軍は潰走してしまいました。

伏見奉行所を薩摩兵に囲まれるも、土方率いる切り込みを新撰組が担う形となります。斎藤は最前線で戦い死傷者を出しながら突撃していくも近代兵器を前に敗れてしまいました。その後も傷が治り参戦した近藤と政府軍の板垣退助の軍勢と甲州勝沼で激突。

兵器で勝る政府軍によって敗北し宇都宮まで撤退すると一時的に盛り返しを図るも最新鋭の洋式兵術に勝てず敗北します。斎藤も宇都宮で戦っている最中に足を負傷し戦線を離脱していきました。

会津藩のために必死に抵抗

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足の負傷と共に新撰組を離隊し会津藩の指揮下に入り、引き続き政府軍に対抗していきます。会津藩は奥羽越列藩同盟を結び政府軍が占領している白河城を奪取。指揮官として彰義隊らと共に防戦するために増援隊として、主力部隊に合流していきました。

しかし斎藤の指揮も虚しく、戦いに慣れている政府軍によって白河城を奪取されてしまいます。その後は政府軍が幕府軍の七回もの攻撃を防ぎきり奥羽越列藩同盟だった一部の藩が政府軍へと寝返り白河周辺から幕府が撤退し敗北。状況が幕府へなびくこともないと判断した会津藩は政府軍に降伏するも斎藤は引き続き政府軍と抗戦していきました。

新時代の幕開け

斎藤は最後まで戦い続けようとしていましたが、幕府軍の使者によって降伏を促され慶応4年9月22日に政府軍へ降伏しました。戊辰戦争終結後は、新政府より会津藩士と共に旧会津藩だった塩川で謹慎生活を言い渡されます。

元号は慶応から明治へと変わり新時代へと移り変わっていきました。松平氏も会津藩改易によって家名断絶になりそうになるも、再興が許されて下北半島にて松平氏の下へその他の藩士同様に仕えていきます。下北半島は斗南藩と改名されたころに時尾再婚して三人の子供に恵まれました。

斎藤一の実力

新撰組は剣客集団だったことで有名ですが、隊員の中で強さを競うとなると名が挙がるのは沖田・永倉・斎藤の三名でした。いずれも三人で剣を交えて争ったことは無いため、誰が一番強いかは判断しようがありませんが、晩年の永倉が沖田と斎藤について書き残しています。

沖田は猛者の剣と呼び、天然理心流を学んでいた土方や藤堂などは赤子同然に扱われ局長近藤ですら敗北するであろうといいました。斎藤は無敵の剣と称し片手一本突きを得意として多くの人物を葬った人物として書き残しています。老人となっても空き缶を片手突き貫通していることから全盛期は更に磨きのかかった剣技を使い敵を圧倒していたのでしょう。

幕府を守るために暗躍するも新政府の一員として活躍

壬生浪士組から入隊し新撰組と名を変えていった時にはわずか二十歳で副長助勤を任されることから剣技だけでなく、統率する力も十分持ち合わせていた人物だったことが伺えます。新撰組の影として暗殺任務を多数手掛けてきたことから、新撰組のため幕府のために行っていったのだと思えました。

東京移住した時に、警視庁から実力を買われて警部補まで抜擢されたことを考えますとやはり剣技そして指揮能力が高く評価されていたからだと思います。数少ない新撰組の生き残りとしても知られている人だけに、戦場に散っていった隊士を称えると共に彼らの分まで生き抜こうとしていたように思えました。

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幕末日本史歴史江戸時代

会津藩と運命を共にし新政府で生き抜いていった「斎藤一」を戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説

幕末最強とも呼び声が高い警護組織だった新撰組ですが、各流派の免許皆伝となった剣客達が多数在籍していた。一から十までの隊に分けられて隊を纏められる者には組長を任せ各組を管理させていたようです。特に一番隊から三番隊の組長は新撰組の中でも随一の強さを誇っていた。

そこで今回は、三番隊の組長であった斎藤一について歴史マニアでもある歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

ある剣客漫画を読んで斎藤一という人物を知り、学生時代に本人の情報が載っている書籍を読み漁っていた。年寄りになっても尚、剣客時代の風貌をまとわせ幕末動乱の世を渡り歩いた斎藤一を紹介する。

謎の多い経歴

image by PIXTA / 45578027

本人の手記が残されている物が少ない為、幼少期時代の生い立ちがあまり分かっていません。浪士組を入隊した頃から山口一から斎藤一へと名を変えていきます。

天保の元旦に生まれる

天保15年1月1日に播磨国で三兄弟の末っ子として江戸で誕生し、父の山口右助は播磨国出身で明石浪人でした。また足軽として旗本の鈴木家に千石で仕えていたとされています。

幼少期時代は、書き残されていないためどのようにして育てられ生活していたかは不明でした。

旗本と騒動

十九歳の時に江戸小石川関口で、些細なことから旗本と喧嘩になり斬りつけてしまいます。斬りつけた理由は各地で、尊王攘夷活動が活発になり今後に必要な物は家柄ではなく腕が必要な時代であるといいました。

これを酒場で聞いていた旗本が斎藤の後を追い、双方刀を抜き斬りつけたとされています。これによって身を隠すために、父知り合いだった京都剣術道場の吉田某を頼っていきました。道場では腕を買われ師範代まで務めています。

浪士組の結成

吉田道場にいるより前から、剣術に関しては強いとされていて近藤勇の道場だった試衛館に出入りしていました。これは永倉新八が残した手記にも書かれていて、後の新撰組隊士と交流があったとされています。

1863年に清河八郎によって、将軍警護のために浪士組が結成されていました。浪士組の中には近藤率いる試衛館組も入隊しています。ところが清河は私的に、幕府から切り離し尊皇活動に利用しようと考えていきました。清河の動きをいち早く察知した幕府は、幕臣の佐々木只三朗と窪田泉太郎に斬殺を命じ清河を排除します。

壬生浪へ入隊

清河を失った浪士組の隊員達は幕府に、捕縛されていきます。清河の尊皇活動を批判した近藤は芹沢鴨らと共に会津藩の松平容保に預かられました。

その後、浪士組から壬生浪士組と名乗った時に京都へ上京し入隊。近藤らと面識があったことで隊士を募集していることを知り入隊したと思われます。近藤達と行動を共にしていない理由は分かりませんが、付いていけない状況にあったのかも知れません。

新撰組で様々な依頼を請け負っていく

壬生浪士組と名を改め、芹沢そして近藤や新見が主軸となり活動を開始していきます。また問題があった芹沢派を一掃し新撰組となり斎藤は新撰組のために活動していきました。

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