2-3、忠順、ホワイトハウスの儀式で感銘され、ニューヨークでパレードも
By Illustrated London News 1860., パブリック・ドメイン, Link
忠順一行はホワイトハウスを訪問し、アメリカ合衆国15代ブキャナン大統領に謁見、日米修好通商条約の批准書を交換する儀式に狩衣でのぞみ、アメリカ人たちはその華麗な衣装と威厳ある態度に感銘を受けたそう。サンフランシスコ上陸からワシントンまでの彼らの態度がアメリカ人の親愛と尊敬を集めたために、ニューヨークでのパレードでは市民80万人がアメリカ建国以来の規模にまでなり、有名な詩人ホイットマンが詩に書いたくらいだということ。
尚、忠順ら一行は、世界最新鋭の米軍艦ナイヤガラ号に乗船して北大西洋を横断、アフリカを南下、喜望峰を回ってシンガポール、香港を経由して4か月以上かけ世界一周して帰国。
2-4、忠順、外国奉行を辞任、勘定奉行に就任
文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生し、忠順が出張して事件の処理を任されたのですが、幕府の対処に限界を感じて、江戸に戻って老中に、対馬を直轄領にして今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うように、そして国際世論に訴えるべきとか、英国海軍の協力を得た方がいいなどと提言したが、聞き入れられなかったので外国奉行を辞任。この一件の後、小栗は8ヶ月ほど無役に。
しかし文久2年(1862年)に忠順は勘定奉行に就任、名乗りを小栗豊後守から上野介に。上野介は吉良を思い起こすので周りからは不評を買ったが、忠順は、なぜか吉良上野介にあやかるつもりだったよう。
そして幕府の財政立て直しを指揮することになり、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しい旧知の栗本鋤雲を通じてロッシュ公使との繋がりを作り、製鉄所設立についての具体的な提案を練り上げたということ。
3-1、忠順、横須賀に製鉄所建設へ
By 松村壽雄 – 日本海軍全艦艇史p122, パブリック・ドメイン, Link
文久3年(1863年)、忠順は、製鉄所建設案(この時代、製鉄所とは造船所の意味)を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、将軍家茂が承認。レオン・ロッシュ公使らと11月26日に実地検分、建設予定地は世界最大規模の軍港のフランスのツーロンに匹敵する港としての条件を備えた横須賀に決定。
尚、建設に際して上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明。
3-2、忠順、財政面で責任を負って免職に
この慶応元年(1864年)当時の幕府は、3月には第2次長州征伐が決定、4月には将軍家茂が大坂城に入るという重大な局面に立っていたのですが、忠順の提唱で建設されることになった横須賀製鉄所の建設費用は、1年に60万ドル、4年間で240万ドルという額であったので、幕府の年間予算の約3分の一もかかるうえに幕府の財政はひっ迫していたのですね。
なので、幕閣では忠順に対する避難ごうごうで、この年の2月に勘定奉行、軍艦奉行を免職に。しかし造船所の建設は小栗の罷免と時を同じくして着工されたということ。
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3-3、忠順、軍制改革に
忠順は、将軍家茂のもとで勘定奉行勝手方、歩兵奉行だったときに導入した、洋式の歩兵、騎兵、砲兵の三兵制度が実質的な機能を果たしていないことで改革を。
忠順はフランス公使のロッシュに相談を持ちかけて、陸軍教師の斡旋を依頼。老中松前伊豆守は文章をもって正式に陸軍教師の招聘をロッシュに依頼、慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始され、軍事顧問団と同時にフランスへ大砲90門、シャスポー銃10000丁を含んだ後装小銃25000丁、陸軍将兵用の軍服27000人分等の大量の兵器装備品を発注。
15代将軍慶喜がナポレオン三世から贈られたフランスの軍服を着ている写真はこのときのことでしょう。
忠順は、2月の免職からわずか3か月後の5月には軍政御用取調、6月には勘定奉行勝手方、閏8月に江戸町奉行、12月に歩兵奉行兼勘定奉行勝手方(幕府の財政全般担当の最重要ポスト)と、立て続けに重責を任され、幕府の財政立て直しを期待されて要職に返り咲くことに。
3-4、忠順、製鉄所の他にも近代化促進
忠順は、生糸貿易の独占権を抵当に横須賀製鉄所建設で240万ドルの借款をフランスに依頼、そして横須賀製鉄所の首長にフランスのレオンス・ヴェルニーを任命。幕府公認の事業では初の事例で、この人事で職務分掌、雇用規則、社内教育、月給制などといった経営学や人事労務管理の基礎がはじめて日本に導入されたことに。
製鉄所の建設をきっかけに、日本初のフランス語学校の横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力でフランス人講師を招いて本格的な授業が開始されたということ。
忠順は他にも慶応2年(1866年)に関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にして三都商人と結び日本全国の商品流通を掌握しようとしたが、これが後の商社設立に繋がることに。慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した日本最初の株式会社組織に。また、この商社の生みだす利益を使って、ガス灯の設置と郵便局の開設を同時に提案したということ。そして日本初の本格的なホテルである築地ホテルの建設など、日本の近代化の基礎となる偉業を残しています。
3-5、忠順、薩長軍との徹底抗戦を主張
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、将軍慶喜が朝廷に大政奉還、慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争に。慶喜が大坂城から船で江戸に帰還後、慶応4年(1868年)1月12日から江戸城で開かれた評定で、忠順は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張。この時の忠順の作戦は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」というもの。
後に、大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と言ったということ。実際にこの時点では旧幕府側は、鳥羽伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していたし、薩長軍(官軍)は資金不足がはなはだしかったのですが、とにかく朝敵になりたくない慶喜は、一説に慶喜の袖をとらえたとか、裾に縋って訴えたと言われる忠順の手を振り払い、勝海舟の恭順論を採用したことは有名。
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天下を郡県となし、大樹(将軍)を以て大統領となさん
忠順は、朝廷を国の象徴として位置づけて慶喜を大統領として政治の執行機関に、そして藩を廃して郡県制を導入して、大統領による共和体制をつくりあげようと構想していたということ。
アメリカ社会を見聞きした忠順と違い、当時の日本で理解できる人物はほとんどいなかったということですが、議会制度を構想した坂本龍馬の船中八策の1年前に提唱されていたということで、この忠順の案は勝海舟などを通じて龍馬に影響を与えたのではとの推測も。ただ、フランスとの関係が深すぎるために、下手をすると植民地化にと危険視されたそう。
3-6、忠順、お役御免となり知行地に隠棲
慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて老中より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡され、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出。
旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたが丁重に断った話もあり、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えたということ。
2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されるも、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と拒絶。
そして3月初頭、一家揃って権田村の東善寺に移り住み、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子などはなかったが、3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵があっさりと退け、首謀者を斬首したということ。また、徳川埋蔵金に関わっているという伝説に関しては、忠順は勘定奉行として必死にやりくりし、フランスから資金を借りているというのに幕府にそんな隠し金があるはずないだろうという話が本当のようです。
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