今回は小栗忠順を取り上げるぞ。

幕臣の使節としてアメリカへ行ったとか、横須賀に製鉄所を作ったとか色々と再評価されてるらしいが、その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小栗上野介忠順について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小栗忠順は幕臣の生まれ

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By 不明 - 東善寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

小栗忠順(おぐり ただまさ)は、文政10年(1827年)、禄高2500石の大身旗本小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷で誕生。幼名は剛太郎。通称の又一は先祖代々小栗家当主が名乗っている名前で、忠順の先祖が戦場で何度も一番槍の功名を立てたので家康に、また一番槍は小栗かと言われて「又一」を名乗るようにと言われたということ。

元服して忠順、また安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任し、その後、文久3年(1863年)、上野介と改名したので、小栗上野介と呼ばれることも多いが、ここでは忠順。

1-2、忠順の幼年時代

忠順は、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたそうですが、成長すると文武に抜群の才能を発揮し、8歳で小栗家の屋敷内にあった安積艮斎(あさかごんさい)の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合い、武術は、剣術を島田虎之助、後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝の腕前。

そして14歳の頃、すでに婚約が決まっていた播州林田藩1万石の建部内匠頭の屋敷を訪れたとき、大人のような立ち居振る舞いだったそう。忠順は、堂々として「すでに巨人の風あり」と、煙草を燻らしキセルで煙草盆をたたく姿も堂に入っていて、藩主の建部政醇との受け答えも言語明晰で、家臣たちはその高慢に驚きつつ、後々どんな大人物になるのかと噂したということ。

この頃は数え年なので今でいえば中学1年くらいのはずですが、まだお酒とたばこは20歳になってからという法律はなかったのですね。

忠順は、砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事し、天保11年(1840年)頃、田付主計の同門の結城啓之助から開国論を聞かされて影響を受けたそう。また、忠順が窪田助太郎清音から山鹿流兵学を学んでいた時期には、当代の名刀工の源清麿が窪田家に住み込みで修業していたということで、忠順は清麿の作刀を見て鉄の基礎知識を持ち、後の製鉄所建設につながったのではという新説が。

安積艮斎
幕末の朱子学者ですが、朱子学だけではなく危険視された陽明学などの他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱えていて、外国事情にも詳しく、海防論の論客でもあったということ。

屋敷内に有名な安積艮斎の私塾があったなんてすごいですね。文化11年(1814年)から万延元年(1860年)に安積艮斎が亡くなるまで門人は2000人以上、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、安場保和、秋月悌次郎、栗本鋤雲、清河八郎、前島密など、著名な塾生だけでも200人を数えるということです。

1-3、忠順、17歳で御殿勤めに

image by PIXTA / 54489797

天保14年(1843年)、忠順は17歳で江戸城に初登城して将軍家慶にお目見えを。そして文武の才を注目され、小栗忠高嫡子の身分のままで、西の丸書院番に登用されました。率直な物言いをするために人受けがよくなく、何度も役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されたというのがアスペルガー症候群っぽくて興味深いです。嘉永2年(1849年)23歳のときには、林田藩の前藩主建部政醇の娘道子と結婚。

1-4、ペリー来航

嘉永6年(1853年)、忠順が27歳のとき、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航。忠順は、来航する異国船に対処するための詰警備役に。
幕府は関船と呼ばれる戦国時代以来の船しか持っていなかったので、アメリカと同等の交渉はできないと考えた忠順は、この頃から外国との積極的通商を主張、造船所を作らなければと思ったということ。

安政2年(1855年)、父忠高の死去で家督を相続。

2-1、忠順、万延元年遣米使節ポーハタン号で渡米

JapaneseEmbassy1860.jpg
By Alexander Gardner (?) per below similar image - "Old photograph of the Bakumatsu and Meiji periods" ISBN 4404031122, パブリック・ドメイン, Link

安政7年(1860年)、忠順は大老井伊直弼の抜擢で32歳で遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着。代表は新見なのに、目付の忠順の方が詰警備役として外国人と交渉経験が豊富で、初のアメリカでも落ち着いて行動したために代表と勘違いされたということ。

また、目付をスパイと訳されたせいで日本はスパイを同行させているのかと疑われたが、忠順は「目付とはCensor(ケンソル)のこと」と主張して切り抜けたそう。「Censor」(検閲官または監察官)となると重要な職となり代表扱いされたのかも。

2-2、忠順、交渉で絶賛される

忠順は、古都フィラデルフィアの造幣局本庁で、日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当だったことで、経済の混乱が生じていた通貨の交換比率の見直しの交渉を行いました。忠順は、小判と金貨の分析実験をもとにして、自説の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らず。が、この交渉に関して、多くのアメリカの新聞は記事で絶賛したということ。

また忠順は、ワシントン海軍工廠を見学したときに、製鉄や金属加工技術などの差にびっくりして、記念にネジを持ち帰りました。
忠順は帰国後、遣米使節の功によって200石を加増されて、外国奉行に就任。

\次のページで「2-3、忠順、ホワイトハウスの儀式で感銘され、ニューヨークでパレードも」を解説!/

2-3、忠順、ホワイトハウスの儀式で感銘され、ニューヨークでパレードも

JapaneseWhiteHouseReceptionBuchanan1860.jpg
By Illustrated London News 1860., パブリック・ドメイン, Link

忠順一行はホワイトハウスを訪問し、アメリカ合衆国15代ブキャナン大統領に謁見、日米修好通商条約の批准書を交換する儀式に狩衣でのぞみ、アメリカ人たちはその華麗な衣装と威厳ある態度に感銘を受けたそう。サンフランシスコ上陸からワシントンまでの彼らの態度がアメリカ人の親愛と尊敬を集めたために、ニューヨークでのパレードでは市民80万人がアメリカ建国以来の規模にまでなり、有名な詩人ホイットマンが詩に書いたくらいだということ。

尚、忠順ら一行は、世界最新鋭の米軍艦ナイヤガラ号に乗船して北大西洋を横断、アフリカを南下、喜望峰を回ってシンガポール、香港を経由して4か月以上かけ世界一周して帰国。

2-4、忠順、外国奉行を辞任、勘定奉行に就任

文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生し、忠順が出張して事件の処理を任されたのですが、幕府の対処に限界を感じて、江戸に戻って老中に、対馬を直轄領にして今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うように、そして国際世論に訴えるべきとか、英国海軍の協力を得た方がいいなどと提言したが、聞き入れられなかったので外国奉行を辞任。この一件の後、小栗は8ヶ月ほど無役に。

しかし文久2年(1862年)に忠順は勘定奉行に就任、名乗りを小栗豊後守から上野介に。上野介は吉良を思い起こすので周りからは不評を買ったが、忠順は、なぜか吉良上野介にあやかるつもりだったよう。

そして幕府の財政立て直しを指揮することになり、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しい旧知の栗本鋤雲を通じてロッシュ公使との繋がりを作り、製鉄所設立についての具体的な提案を練り上げたということ。

3-1、忠順、横須賀に製鉄所建設へ

Yokosuka Naval Arsenal after Great Kanto earthquake of 1923.jpg
By 松村壽雄 - 日本海軍全艦艇史p122, パブリック・ドメイン, Link

文久3年(1863年)、忠順は、製鉄所建設案(この時代、製鉄所とは造船所の意味)を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、将軍家茂が承認。レオン・ロッシュ公使らと11月26日に実地検分、建設予定地は世界最大規模の軍港のフランスのツーロンに匹敵する港としての条件を備えた横須賀に決定。

尚、建設に際して上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明。

3-2、忠順、財政面で責任を負って免職に

この慶応元年(1864年)当時の幕府は、3月には第2次長州征伐が決定、4月には将軍家茂が大坂城に入るという重大な局面に立っていたのですが、忠順の提唱で建設されることになった横須賀製鉄所の建設費用は、1年に60万ドル、4年間で240万ドルという額であったので、幕府の年間予算の約3分の一もかかるうえに幕府の財政はひっ迫していたのですね。

なので、幕閣では忠順に対する避難ごうごうで、この年の2月に勘定奉行、軍艦奉行を免職に。しかし造船所の建設は小栗の罷免と時を同じくして着工されたということ。

3-3、忠順、軍制改革に

忠順は、将軍家茂のもとで勘定奉行勝手方、歩兵奉行だったときに導入した、洋式の歩兵、騎兵、砲兵の三兵制度が実質的な機能を果たしていないことで改革を。
忠順はフランス公使のロッシュに相談を持ちかけて、陸軍教師の斡旋を依頼。老中松前伊豆守は文章をもって正式に陸軍教師の招聘をロッシュに依頼、慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始され、軍事顧問団と同時にフランスへ大砲90門、シャスポー銃10000丁を含んだ後装小銃25000丁、陸軍将兵用の軍服27000人分等の大量の兵器装備品を発注。

15代将軍慶喜がナポレオン三世から贈られたフランスの軍服を着ている写真はこのときのことでしょう。

忠順は、2月の免職からわずか3か月後の5月には軍政御用取調、6月には勘定奉行勝手方、閏8月に江戸町奉行、12月に歩兵奉行兼勘定奉行勝手方(幕府の財政全般担当の最重要ポスト)と、立て続けに重責を任され、幕府の財政立て直しを期待されて要職に返り咲くことに。

3-4、忠順、製鉄所の他にも近代化促進

忠順は、生糸貿易の独占権を抵当に横須賀製鉄所建設で240万ドルの借款をフランスに依頼、そして横須賀製鉄所の首長にフランスのレオンス・ヴェルニーを任命。幕府公認の事業では初の事例で、この人事で職務分掌、雇用規則、社内教育、月給制などといった経営学や人事労務管理の基礎がはじめて日本に導入されたことに。
製鉄所の建設をきっかけに、日本初のフランス語学校の横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力でフランス人講師を招いて本格的な授業が開始されたということ。

忠順は他にも慶応2年(1866年)に関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にして三都商人と結び日本全国の商品流通を掌握しようとしたが、これが後の商社設立に繋がることに。慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した日本最初の株式会社組織に。また、この商社の生みだす利益を使って、ガス灯の設置と郵便局の開設を同時に提案したということ。そして日本初の本格的なホテルである築地ホテルの建設など、日本の近代化の基礎となる偉業を残しています。

3-5、忠順、薩長軍との徹底抗戦を主張

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、将軍慶喜が朝廷に大政奉還、慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争に。慶喜が大坂城から船で江戸に帰還後、慶応4年(1868年)1月12日から江戸城で開かれた評定で、忠順は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張。この時の忠順の作戦は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」というもの。

後に、大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と言ったということ。実際にこの時点では旧幕府側は、鳥羽伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していたし、薩長軍(官軍)は資金不足がはなはだしかったのですが、とにかく朝敵になりたくない慶喜は、一説に慶喜の袖をとらえたとか、裾に縋って訴えたと言われる忠順の手を振り払い、勝海舟の恭順論を採用したことは有名。

天下を郡県となし、大樹(将軍)を以て大統領となさん
忠順は、朝廷を国の象徴として位置づけて慶喜を大統領として政治の執行機関に、そして藩を廃して郡県制を導入して、大統領による共和体制をつくりあげようと構想していたということ。

アメリカ社会を見聞きした忠順と違い、当時の日本で理解できる人物はほとんどいなかったということですが、議会制度を構想した坂本龍馬の船中八策の1年前に提唱されていたということで、この忠順の案は勝海舟などを通じて龍馬に影響を与えたのではとの推測も。ただ、フランスとの関係が深すぎるために、下手をすると植民地化にと危険視されたそう。

3-6、忠順、お役御免となり知行地に隠棲

慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて老中より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡され、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出。

旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたが丁重に断った話もあり、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えたということ。

2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されるも、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と拒絶。

そして3月初頭、一家揃って権田村の東善寺に移り住み、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子などはなかったが、3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵があっさりと退け、首謀者を斬首したということ。また、徳川埋蔵金に関わっているという伝説に関しては、忠順は勘定奉行として必死にやりくりし、フランスから資金を借りているというのに幕府にそんな隠し金があるはずないだろうという話が本当のようです。

\次のページで「3-7、忠順、官軍により処刑される」を解説!/

3-7、忠順、官軍により処刑される

慶応4年(1868年)閏4月4日、忠順は、東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵によって権田村の東善寺で捕縛され、閏4月6日に取り調べもなく烏川の水沼河原で家臣たちとともに斬首されました。享年42歳。

4-1、忠順の逸話

率直な物言いが災いして何度も免職になっても他に人材がいないので、そのたびに復職なったと言われますが、色々な話があります。

4-2、36年後、東郷平八郎から感謝される

横須賀製鉄所は、横須賀造船所と改名され慶応元年(1865年)11月着工で明治2年(1869年)に完成、多くの軍艦が建造されましたが、明治38年(1905年)5月27日、28日、東郷平八郎率いる日本連合艦隊が、日本海海戦で世界最強のロシアのバルチック艦隊を破ったのは完成から36年目のこと。

明治45年(1912年)の夏、東郷平八郎は小栗の遺児のクニの婿貞雄と忠順の孫の息子又一を自邸に招いて上座をすすめ、日本海海戦の勝利は小栗が作った横須賀造船所のおかげと礼を述べたという話。

4-3、忠順、インサイダー取引疑惑

ポーハタン号が江戸を出発した2日後の安政7年(1860年)1月20日に、幕府は安政小判、天保小判の増価を命じ、貨幣の交換価値を引き上げる政策を決定。この「増価」令では、安政小判1両を2両2分3朱に、天保小判を3両1分2朱に切り上げたということで、天保小判の価値は3倍になり、忠順がフィラデルフィアで通貨交渉をした万延小判の金含有量とほぼ等しくなったということです。

そして忠順の家に仕えて縁のあった商人の三野村利左衛門は、旧主小栗家で、「洋銀との交換比率を調整するため天保小判1両が万延小判3両1分2朱と交換される布令が出るらしい」と聞き込み、家も担保に入れて資金を用意し天保小判を買い集めて莫大な利益を手にして、後に三井の大番頭に出世したという話が。

三野村利左衛門は忠順の死後、忠順の遺族の面倒を見たことで知られていますが、恩を返すだけの儲けがあったということでしょうね。

4-4、忠順の名言

横須賀製鉄所建設は、勝海舟も忠順の計画に真っ向から反対、軍艦は数年で造れるが、海軍を運用する人材育成には500年かかるので、海軍が先ではと進言、しかし船を買って来てどこで修理するんだと反論したということ。

また、忠順の唯一の協力者の栗本鋤雲も、費用に関しては懐疑的で忠順に忠告したが、これに対する小栗の回答は、ドックの建設は、かえって無駄な経費を節約させる口実になるし、出来上がった製鉄所は、「たとえ幕府が滅びても、土蔵付きの売り家として次の政権に引き渡せる」というもので、これは忠順は幕府が倒れることを悟っていたが、それでもなお日本にとって製鉄所が必要であるという意味だということで、「親が不治の病と知っても薬を与えないのは親孝行ではないように、滅ぶからと言って幕府を見捨てるのは武士の振舞いではない」、「幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない」、「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり 幕府が滅亡したるはこの一言なり」という言葉とともに大変有名。

幕臣として新しい時代を視野に入れてその基盤を作った人

小栗忠順は、ほとんどが役に立たなかった直参旗本八万騎のなかでは、稀に見る逸材。外国語は出来なくても、アメリカでも堂々と交渉が出来るうえに、先見の明があり新しい情報や技術を取り入れることに熱心で、国防や海軍の必要性からの製鉄所の建設など、妻が忠順の親戚である大隈重信が「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」という言葉を残しているなどで、最近改めて評価されているということ。

しかし職を辞して田舎の知行地に引っ込んでいるのに、戊辰戦争でいらぬ疑いで処刑されたのが悔しい。長生きすれば他にも日本の近代化の役に立つ仕事ができたはず、そして歴史が変わっていたかもしれないと思うのは私だけではないでしょう。

" /> 明治の父とも言われた「小栗忠順」明治に先駆けた事業を残した最後の幕臣を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史明治明治維新歴史

明治の父とも言われた「小栗忠順」明治に先駆けた事業を残した最後の幕臣を歴女がわかりやすく解説

今回は小栗忠順を取り上げるぞ。

幕臣の使節としてアメリカへ行ったとか、横須賀に製鉄所を作ったとか色々と再評価されてるらしいが、その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小栗上野介忠順について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小栗忠順は幕臣の生まれ

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By 不明 – 東善寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

小栗忠順(おぐり ただまさ)は、文政10年(1827年)、禄高2500石の大身旗本小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷で誕生。幼名は剛太郎。通称の又一は先祖代々小栗家当主が名乗っている名前で、忠順の先祖が戦場で何度も一番槍の功名を立てたので家康に、また一番槍は小栗かと言われて「又一」を名乗るようにと言われたということ。

元服して忠順、また安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任し、その後、文久3年(1863年)、上野介と改名したので、小栗上野介と呼ばれることも多いが、ここでは忠順。

1-2、忠順の幼年時代

忠順は、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたそうですが、成長すると文武に抜群の才能を発揮し、8歳で小栗家の屋敷内にあった安積艮斎(あさかごんさい)の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合い、武術は、剣術を島田虎之助、後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝の腕前。

そして14歳の頃、すでに婚約が決まっていた播州林田藩1万石の建部内匠頭の屋敷を訪れたとき、大人のような立ち居振る舞いだったそう。忠順は、堂々として「すでに巨人の風あり」と、煙草を燻らしキセルで煙草盆をたたく姿も堂に入っていて、藩主の建部政醇との受け答えも言語明晰で、家臣たちはその高慢に驚きつつ、後々どんな大人物になるのかと噂したということ。

この頃は数え年なので今でいえば中学1年くらいのはずですが、まだお酒とたばこは20歳になってからという法律はなかったのですね。

忠順は、砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事し、天保11年(1840年)頃、田付主計の同門の結城啓之助から開国論を聞かされて影響を受けたそう。また、忠順が窪田助太郎清音から山鹿流兵学を学んでいた時期には、当代の名刀工の源清麿が窪田家に住み込みで修業していたということで、忠順は清麿の作刀を見て鉄の基礎知識を持ち、後の製鉄所建設につながったのではという新説が。

安積艮斎
幕末の朱子学者ですが、朱子学だけではなく危険視された陽明学などの他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱えていて、外国事情にも詳しく、海防論の論客でもあったということ。

屋敷内に有名な安積艮斎の私塾があったなんてすごいですね。文化11年(1814年)から万延元年(1860年)に安積艮斎が亡くなるまで門人は2000人以上、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、安場保和、秋月悌次郎、栗本鋤雲、清河八郎、前島密など、著名な塾生だけでも200人を数えるということです。

1-3、忠順、17歳で御殿勤めに

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天保14年(1843年)、忠順は17歳で江戸城に初登城して将軍家慶にお目見えを。そして文武の才を注目され、小栗忠高嫡子の身分のままで、西の丸書院番に登用されました。率直な物言いをするために人受けがよくなく、何度も役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されたというのがアスペルガー症候群っぽくて興味深いです。嘉永2年(1849年)23歳のときには、林田藩の前藩主建部政醇の娘道子と結婚。

1-4、ペリー来航

嘉永6年(1853年)、忠順が27歳のとき、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航。忠順は、来航する異国船に対処するための詰警備役に。
幕府は関船と呼ばれる戦国時代以来の船しか持っていなかったので、アメリカと同等の交渉はできないと考えた忠順は、この頃から外国との積極的通商を主張、造船所を作らなければと思ったということ。

安政2年(1855年)、父忠高の死去で家督を相続。

2-1、忠順、万延元年遣米使節ポーハタン号で渡米

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By Alexander Gardner (?) per below similar image – “Old photograph of the Bakumatsu and Meiji periods” ISBN 4404031122, パブリック・ドメイン, Link

安政7年(1860年)、忠順は大老井伊直弼の抜擢で32歳で遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着。代表は新見なのに、目付の忠順の方が詰警備役として外国人と交渉経験が豊富で、初のアメリカでも落ち着いて行動したために代表と勘違いされたということ。

また、目付をスパイと訳されたせいで日本はスパイを同行させているのかと疑われたが、忠順は「目付とはCensor(ケンソル)のこと」と主張して切り抜けたそう。「Censor」(検閲官または監察官)となると重要な職となり代表扱いされたのかも。

2-2、忠順、交渉で絶賛される

忠順は、古都フィラデルフィアの造幣局本庁で、日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当だったことで、経済の混乱が生じていた通貨の交換比率の見直しの交渉を行いました。忠順は、小判と金貨の分析実験をもとにして、自説の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らず。が、この交渉に関して、多くのアメリカの新聞は記事で絶賛したということ。

また忠順は、ワシントン海軍工廠を見学したときに、製鉄や金属加工技術などの差にびっくりして、記念にネジを持ち帰りました。
忠順は帰国後、遣米使節の功によって200石を加増されて、外国奉行に就任。

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