幕臣の使節としてアメリカへ行ったとか、横須賀に製鉄所を作ったとか色々と再評価されてるらしいが、その辺のところを明治維新に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、小栗忠順は幕臣の生まれ
- 1-2、忠順の幼年時代
- 1-3、忠順、17歳で御殿勤めに
- 1-4、ペリー来航
- 2-1、忠順、万延元年遣米使節ポーハタン号で渡米
- 2-2、忠順、交渉で絶賛される
- 2-3、忠順、ホワイトハウスの儀式で感銘され、ニューヨークでパレードも
- 2-4、忠順、外国奉行を辞任、勘定奉行に就任
- 3-1、忠順、横須賀に製鉄所建設へ
- 3-2、忠順、財政面で責任を負って免職に
- 3-3、忠順、軍制改革に
- 3-4、忠順、製鉄所の他にも近代化促進
- 3-5、忠順、薩長軍との徹底抗戦を主張
- 3-6、忠順、お役御免となり知行地に隠棲
- 3-7、忠順、官軍により処刑される
- 4-1、忠順の逸話
- 4-2、36年後、東郷平八郎から感謝される
- 4-3、忠順、インサイダー取引疑惑
- 4-4、忠順の名言
- 幕臣として新しい時代を視野に入れてその基盤を作った人
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治維新に目がなく、薩摩長州幕府側に限らず誰にでも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小栗上野介忠順について5分でわかるようにまとめた。
1-1、小栗忠順は幕臣の生まれ
By 不明 – 東善寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link
小栗忠順(おぐり ただまさ)は、文政10年(1827年)、禄高2500石の大身旗本小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷で誕生。幼名は剛太郎。通称の又一は先祖代々小栗家当主が名乗っている名前で、忠順の先祖が戦場で何度も一番槍の功名を立てたので家康に、また一番槍は小栗かと言われて「又一」を名乗るようにと言われたということ。
元服して忠順、また安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任し、その後、文久3年(1863年)、上野介と改名したので、小栗上野介と呼ばれることも多いが、ここでは忠順。
1-2、忠順の幼年時代
忠順は、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたそうですが、成長すると文武に抜群の才能を発揮し、8歳で小栗家の屋敷内にあった安積艮斎(あさかごんさい)の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合い、武術は、剣術を島田虎之助、後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝の腕前。
そして14歳の頃、すでに婚約が決まっていた播州林田藩1万石の建部内匠頭の屋敷を訪れたとき、大人のような立ち居振る舞いだったそう。忠順は、堂々として「すでに巨人の風あり」と、煙草を燻らしキセルで煙草盆をたたく姿も堂に入っていて、藩主の建部政醇との受け答えも言語明晰で、家臣たちはその高慢に驚きつつ、後々どんな大人物になるのかと噂したということ。
この頃は数え年なので今でいえば中学1年くらいのはずですが、まだお酒とたばこは20歳になってからという法律はなかったのですね。
忠順は、砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事し、天保11年(1840年)頃、田付主計の同門の結城啓之助から開国論を聞かされて影響を受けたそう。また、忠順が窪田助太郎清音から山鹿流兵学を学んでいた時期には、当代の名刀工の源清麿が窪田家に住み込みで修業していたということで、忠順は清麿の作刀を見て鉄の基礎知識を持ち、後の製鉄所建設につながったのではという新説が。
安積艮斎
幕末の朱子学者ですが、朱子学だけではなく危険視された陽明学などの他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱えていて、外国事情にも詳しく、海防論の論客でもあったということ。
屋敷内に有名な安積艮斎の私塾があったなんてすごいですね。文化11年(1814年)から万延元年(1860年)に安積艮斎が亡くなるまで門人は2000人以上、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、安場保和、秋月悌次郎、栗本鋤雲、清河八郎、前島密など、著名な塾生だけでも200人を数えるということです。
1-3、忠順、17歳で御殿勤めに
天保14年(1843年)、忠順は17歳で江戸城に初登城して将軍家慶にお目見えを。そして文武の才を注目され、小栗忠高嫡子の身分のままで、西の丸書院番に登用されました。率直な物言いをするために人受けがよくなく、何度も役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されたというのがアスペルガー症候群っぽくて興味深いです。嘉永2年(1849年)23歳のときには、林田藩の前藩主建部政醇の娘道子と結婚。
1-4、ペリー来航
嘉永6年(1853年)、忠順が27歳のとき、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航。忠順は、来航する異国船に対処するための詰警備役に。
幕府は関船と呼ばれる戦国時代以来の船しか持っていなかったので、アメリカと同等の交渉はできないと考えた忠順は、この頃から外国との積極的通商を主張、造船所を作らなければと思ったということ。
安政2年(1855年)、父忠高の死去で家督を相続。
2-1、忠順、万延元年遣米使節ポーハタン号で渡米
By Alexander Gardner (?) per below similar image – “Old photograph of the Bakumatsu and Meiji periods” ISBN 4404031122, パブリック・ドメイン, Link
安政7年(1860年)、忠順は大老井伊直弼の抜擢で32歳で遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着。代表は新見なのに、目付の忠順の方が詰警備役として外国人と交渉経験が豊富で、初のアメリカでも落ち着いて行動したために代表と勘違いされたということ。
また、目付をスパイと訳されたせいで日本はスパイを同行させているのかと疑われたが、忠順は「目付とはCensor(ケンソル)のこと」と主張して切り抜けたそう。「Censor」(検閲官または監察官)となると重要な職となり代表扱いされたのかも。
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2-2、忠順、交渉で絶賛される
忠順は、古都フィラデルフィアの造幣局本庁で、日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当だったことで、経済の混乱が生じていた通貨の交換比率の見直しの交渉を行いました。忠順は、小判と金貨の分析実験をもとにして、自説の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らず。が、この交渉に関して、多くのアメリカの新聞は記事で絶賛したということ。
また忠順は、ワシントン海軍工廠を見学したときに、製鉄や金属加工技術などの差にびっくりして、記念にネジを持ち帰りました。
忠順は帰国後、遣米使節の功によって200石を加増されて、外国奉行に就任。
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