年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。
ライター/Kana
年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアであり、今回は「呂布」について、わかりやすくまとめた。
出生は不明。登場は并州刺史「丁原」に仕えた頃からはじまります
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呂布(りょふ)、字は奉先(ほうせん)といいます。生まれた年はわかっておらず、場所は并州(へいしゅう)の五原郡(ごげんぐん)というところです。ここは現在の内モンゴル自治区であり、幼少期から、騎馬戦術や弓術を学べる環境にいたのではないかと思われます。
はじめ呂布は「丁原」(ていげん)という刺史(しし)に仕えました。丁原は、呂布の武勇を高く評価し、養子にするなど重用していました。13ある州のひとつである并州(へいしゅう)のトップである丁原に高く評価されるということは、このころから呂布は一廉の人物であったのでしょう。実際に生まれつき腕力が強く、体格も大きな偉丈夫だったそうです。
贈り物をされたことから、丁原を裏切り、董卓の下へ下る
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丁原の下にいた呂布ですが、189年、洛陽での騒乱の際に上洛を果たした「董卓」(とうたく)の誘いで、丁原を裏切り、殺害してしまいます。
裏切った理由ですが、董卓から名馬を贈られたからだといわれています。赤兎(せきと)という名前の由来にもなった赤い汗を流し、一日に千里を走り抜ける極上の馬だったそうです。
董卓の下についた呂布は、父子の契りを結び、以後董卓の護衛をつとめます。この頃から呂布は、弓術・馬術に非常に優れており、前漢時代武勇に優れた武将「李広」(りこう)になぞらえて、『飛将軍』と呼ばれました。
余談ですが、この赤兎馬(せきとば)は、トルクメニスタン原産の馬『アハルテケ』ではないかと思います。中国産の馬よりも大きな体格で、その毛は金色に輝いており、一日に千里を駆け抜けられるほどの運動能力をもっているそうです、現在もスポーツ馬術で活躍している種なんですよ。
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反董卓連合軍との戦い、陽人の戦いでの敗北
呂布という猛将と、兵力を手中に収めた董卓は、朝廷の中枢に入り込み、専横を極めていました。もちろんそんな董卓の暴虐な振る舞いを許す諸侯はおらず、反董卓連合軍が結成されます。
連合軍の一人・「孫堅」(そんけん)が陽人(ようじん)という砦に駐屯していることを知ると、董卓は呂布と「胡軫」(こしん)という武将を派遣しました。しかし、呂布と胡軫はお互いに欺報を流すほどに仲が悪く、その隙を孫堅につかれ、敗北してしまいます。
この戦いがきっかけで、董卓軍は形勢不利に陥り、洛陽を炎上させ、長安へと退きました。
専横を極めた董卓を、裏切る
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長安まで退いた董卓は、再び悪政を敷いていきます。そんな暴君に反旗を翻したのが、朝廷内の有力者の一人であった「王允」(おういん)でした。この王允の董卓暗殺計画への誘いに乗って、呂布は再び主人を裏切り、斬り捨ててしまうのです。
丁原に引き続きあっさりと主人、それも義父を裏切った呂布、その胸中はどんなものだったのでしょうか。
裏切りの理由はいくつかあるようですが、宴の最中、腹を立てた董卓に刃物を投げられたことを憎んでいた。董卓の侍女と密通していたため、それが露見することを恐れた。などと考えられています。
董卓殺害後、王允と呂布は統治を行いますが、董卓軍の残党兵であった「郭汜」(かくし)と「李傕」(りかく)が長安を攻め、呂布らは敗走してしまいました。王允は、幼い献帝を一人には出来ない、と捕まったのちに処刑され、呂布は王允を助けようとしましたが叶わず、各地を流浪することとなります。
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