今日は三国志最強の武将「呂布」について、勉強していこう。呂布奉先の名前は三国志に詳しくない人でも、一度は耳にしたことがあるでしょう。最強の武を持つとされる武将「呂布」の逸話は、どれも伝説的なものばかりです。愛馬『赤兎馬』のように、『飛将』の名に相応しく乱世を駆け抜けていった呂布の一生を、わかりやすくまとめておいた。
年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアであり、今回は「呂布」について、わかりやすくまとめた。

出生は不明。登場は并州刺史「丁原」に仕えた頃からはじまります

Lü Bu Portrait.jpg
By w:Image:Lü Bu Portrait.jpg, パブリック・ドメイン, Link

 呂布(りょふ)、字は奉先(ほうせん)といいます。生まれた年はわかっておらず、場所は并州(へいしゅう)の五原郡(ごげんぐん)というところです。ここは現在の内モンゴル自治区であり、幼少期から、騎馬戦術や弓術を学べる環境にいたのではないかと思われます。

 はじめ呂布は「丁原」(ていげん)という刺史(しし)に仕えました。丁原は、呂布の武勇を高く評価し、養子にするなど重用していました。13ある州のひとつである并州(へいしゅう)のトップである丁原に高く評価されるということは、このころから呂布は一廉の人物であったのでしょう。実際に生まれつき腕力が強く、体格も大きな偉丈夫だったそうです。

贈り物をされたことから、丁原を裏切り、董卓の下へ下る

image by iStockphoto

 丁原の下にいた呂布ですが、189年、洛陽での騒乱の際に上洛を果たした「董卓」(とうたく)の誘いで、丁原を裏切り、殺害してしまいます
裏切った理由ですが、董卓から名馬を贈られたからだといわれています。赤兎(せきと)という名前の由来にもなった赤い汗を流し、一日に千里を走り抜ける極上の馬だったそうです。

 董卓の下についた呂布は、父子の契りを結び、以後董卓の護衛をつとめます。この頃から呂布は、弓術・馬術に非常に優れており、前漢時代武勇に優れた武将「李広」(りこう)になぞらえて、『飛将軍』と呼ばれました。

 余談ですが、この赤兎馬(せきとば)は、トルクメニスタン原産の馬『アハルテケ』ではないかと思います。中国産の馬よりも大きな体格で、その毛は金色に輝いており、一日に千里を駆け抜けられるほどの運動能力をもっているそうです、現在もスポーツ馬術で活躍している種なんですよ。

反董卓連合軍との戦い、陽人の戦いでの敗北

 呂布という猛将と、兵力を手中に収めた董卓は、朝廷の中枢に入り込み、専横を極めていました。もちろんそんな董卓の暴虐な振る舞いを許す諸侯はおらず、反董卓連合軍が結成されます。

 連合軍の一人・「孫堅」(そんけん)が陽人(ようじん)という砦に駐屯していることを知ると、董卓は呂布と「胡軫」(こしん)という武将を派遣しました。しかし、呂布と胡軫はお互いに欺報を流すほどに仲が悪く、その隙を孫堅につかれ、敗北してしまいます。
この戦いがきっかけで、董卓軍は形勢不利に陥り、洛陽を炎上させ、長安へと退きました。

専横を極めた董卓を、裏切る

image by iStockphoto

 長安まで退いた董卓は、再び悪政を敷いていきます。そんな暴君に反旗を翻したのが、朝廷内の有力者の一人であった「王允」(おういん)でした。この王允の董卓暗殺計画への誘いに乗って、呂布は再び主人を裏切り、斬り捨ててしまうのです。

 丁原に引き続きあっさりと主人、それも義父を裏切った呂布、その胸中はどんなものだったのでしょうか。

 裏切りの理由はいくつかあるようですが、宴の最中、腹を立てた董卓に刃物を投げられたことを憎んでいた。董卓の侍女と密通していたため、それが露見することを恐れた。などと考えられています。

 董卓殺害後、王允と呂布は統治を行いますが、董卓軍の残党兵であった「郭汜」(かくし)と「李傕」(りかく)が長安を攻め、呂布らは敗走してしまいました。王允は、幼い献帝を一人には出来ない、と捕まったのちに処刑され、呂布は王允を助けようとしましたが叶わず、各地を流浪することとなります。

\次のページで「寄る地を得るため、各地を流浪することになる」を解説!/

寄る地を得るため、各地を流浪することになる

image by iStockphoto

 長安を追われた呂布とその軍勢は、まず荊州の「袁術」(えんじゅつ)を頼ります。そこでは手厚くもてなされはしましたが、受け入れられることはありませんでした。

 次に頼ったのが、河北を統治する「袁紹」(えんしょう)です。当時袁紹は、黒山賊の「張燕」(ちょうえん)との戦いの真っただ中でした。呂布の武勇に目を付けた袁紹は、共に黒山賊と戦うことを条件に呂布を迎え入れます。黒山賊といわれる張燕の軍は、1万人の精兵と数千匹の騎馬がいましたが、呂布はなんとたった数十騎で戦いを挑んだのです。呂布軍の戦法は突撃でした、1日に数度突撃を行い、次々と打ち破っていきます。そして数十日も経つと、黒山賊は敗れ、離散していきました。これも、呂布の伝説的な逸話の一つです。

 この戦いの功績から、戦った愛馬・赤兎と共に『人中に呂布あり、馬中に赤兎あり』(人の中で優れている呂布・馬の中で優れている赤兎)と賞されました。

 その後袁紹の下にいた呂布ですが、配下の将兵が略奪を行ったことから、袁紹との関係も悪くなり離れることとなります。

次に目をつけたのは兗州。魏の英雄・曹操の留守中に濮陽を攻め落とした

 各地を流浪する呂布を迎え入れたのは、曹操の配下の「張超」(ちょうちょう)・「陳宮」(ちんきゅう)・「張邈」(ちょうばく)でした。彼らは、曹操が徐州(じょしゅう)の陶謙を討つために兗州(えきしゅう)を留守にした際に、濮陽へと奇襲をかけ奪い取ったのです。

 曹操が徐州から帰還すると、呂布は濮陽に籠城をはじめました。次々に迫りくる曹操軍を、呂布軍は打ち破っていきます。この戦いは1年ほど続きました。しかし、旱魃が続いてしまい兵糧(食料)が尽きてくると、呂布軍の旗色は悪くなり、曹操軍に敗北してしまいます。命からがら脱出した後に、呂布は次の寄る辺を求めました。

次に頼ったのは、仁君・劉備。呂布なりに礼をつくしたようだが…

image by iStockphoto

 呂布は「劉備」(りゅうび)の下を訪れると、妻に挨拶をさせ自身の寝室に招き、酒を酌み交わしました。その時に、劉備を弟と呼んだそうです。

 当時これはかなり無礼な振る舞いであったそうですが、もしかしたら、呂布なりの礼の尽くし方なのかなと思います。長きに渡り各地を流浪し、行く先行く先で裏切りを続けてきた呂布は、中国各地で『裏切者』として知られていたハズです。もはや寄る辺などなく、配下の将兵のためにもどこか、国を持たなければいけなかった呂布は、なんとか劉備に取り入ろうとしたのではないでしょうか。

 しかし、劉備は呂布の一貫性のない態度や言葉を見抜き、不快さを感じていたようです。そしてこれも呂布には伝わっていたのでしょう。劉備が袁術と徐州を巡って争うようになると、その隙をついて劉備の本拠地である下邳(かひ)を奪い取ってしまいました。

下邳を奪った呂布は、劉備を配下にしてしまう

 呂布に本拠地を奪われた劉備は、降伏するほかありませんでした。劉備の降伏を受け入れた呂布は、小沛(しょうはい)の守備を任せました。

 その後、袁術が劉備目がけ3万の軍を差し向けると、劉備は呂布に援軍を要請します。呂布はこの要請に、自ら赴きました。しかし、この時呂布は戦うのではなく、両軍の仲裁を目的にしていました。

 小沛に到着した呂布は、袁術軍の大将・「紀霊」(きれい)と劉備を自分のところへ招くと、紀霊に向かって「遠くに見える戟にこの矢を命中させたら、兵を引いてはくれないか」と頼みます。紀霊はまさか当たるハズがないものと、約束をしました。

 そして、呂布が弓を引くと、なんとみごとに矢は命中したのです。そうして紀霊は兵を退くことにします。これも、呂布に残された伝説的な逸話の一つです。

 しかし、この後呂布はせっかく救った劉備のいる小沛を、なぜか襲ってしまい敗走させてしまいました。これは劉備が秘密裏に兵を集め、謀反を企てていたからかと思われます。

呂布に敗走した劉備を受け入れた曹操は、下邳へと大軍を進める

 劉備は、本拠地を奪われ、守備を任された小沛も奪われる…。もはや劉備になす術はなく、曹操を頼ることにしました。曹操もまた呂布に辛酸を舐めさせられた過去をもっていたため、劉備を受け入れるとすぐに出立の準備を整えます。曹操は自ら大軍を率い、徐州に攻め込みました。

 下邳での戦いでは、曹操軍に押され籠城戦を余儀なくされます。陳宮ら軍師は、必死に献策をしようとしますが、呂布は聞く耳を持ちません。包囲した後、籠城を続ける呂布軍に対し、曹操軍は中々攻め落とせず、兵たちは疲弊していきました。それを憂えた曹操は撤退の指示を出そうとしましたが、「荀攸」(じゅんゆう)・「郭嘉」(かくか)が献策を申し出ます。そして、その策こそが、呂布の命運を決めたのです。

 呂布が得意としたのは、その武勇によってささえられた騎馬戦術でした。史実では、この下邳での戦いにおいて、野戦の記録はありません。つまり、最期の最期で、呂布はその武勇を振るうことが出来なかったのではないでしょうか。

\次のページで「勝敗を決した曹操軍の秘策」を解説!/

勝敗を決した曹操軍の秘策

image by iStockphoto

 下邳に籠城した呂布軍を攻め落とすため、曹操軍が用意した秘策は、水計でした。元々、空腹と疲労で兵にも限界が来ていたハズです。水が門を突き破ると、呂布軍からは次々と造反者が出てしまいました。ここまで、主人を裏切り続けてきた呂布は、最後に配下たちに裏切られてしまいました。その中でも武将であった「侯成」(こうせい)は、陳宮らを捕らえてしまいます。

 腹心すらも捕らえられてしまった呂布は、ついに投降しました。

 降伏した呂布はきつく縛られ、曹操の前に連れられました。呂布は「縄がきつすぎるので、緩めてくれ」と言いますが、曹操は「虎を縛るのに、緩めることなどできるものか」と一蹴します。再び呂布が「殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定は容易なこと」と言うと、曹操の顔には疑惑の色が浮かびました。そこへ劉備が進み出て「この者は裏切者です」そう言い、丁原や董卓、自身の話も交えます。その話を聞いた曹操は、尤もだと呂布を処刑しました。

三国志最強の武将の敗因とは、何だったのか

 三国志の中で、最もと言ってよいほど有名な「呂布」

圧倒的な武勇を持っていたハズの呂布は、何度も裏切りを重ねていました。最期には配下にも裏切られ、放浪していた時に受け入れてくれた劉備すらも、最期は裏切者だと断罪してしまいました。

そんな呂布の敗因は何だったのでしょうか。

私は、配下の意見を取り入れられる柔軟性だと思います。配下の献策を受け入れ、水計という策を実行した曹操と、陳宮などの軍師の献策を聞く耳を持たなかった呂布。この二人の明暗を分けたのは、まさにここだったのではないかと思います。呂布軍の陳宮は若い頃に『王佐の才』と評された軍師です。彼の意見を取り入れていれば、と悔しさすらも感じます。

ですが、武勇に優れたそれ一辺倒な男というのも、人物としては非常に魅力的なことも事実ですね。

" /> 三国志最強の武を誇り、愛馬と共に乱世を駆け抜けていった飛将「呂布」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説 – Study-Z
三国時代・三国志世界史中国史歴史

三国志最強の武を誇り、愛馬と共に乱世を駆け抜けていった飛将「呂布」!その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

今日は三国志最強の武将「呂布」について、勉強していこう。呂布奉先の名前は三国志に詳しくない人でも、一度は耳にしたことがあるでしょう。最強の武を持つとされる武将「呂布」の逸話は、どれも伝説的なものばかりです。愛馬『赤兎馬』のように、『飛将』の名に相応しく乱世を駆け抜けていった呂布の一生を、わかりやすくまとめておいた。
年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアであり、今回は「呂布」について、わかりやすくまとめた。

出生は不明。登場は并州刺史「丁原」に仕えた頃からはじまります

Lü Bu Portrait.jpg
By w:Image:Lü Bu Portrait.jpg, パブリック・ドメイン, Link

 呂布(りょふ)、字は奉先(ほうせん)といいます。生まれた年はわかっておらず、場所は并州(へいしゅう)の五原郡(ごげんぐん)というところです。ここは現在の内モンゴル自治区であり、幼少期から、騎馬戦術や弓術を学べる環境にいたのではないかと思われます。

 はじめ呂布は「丁原」(ていげん)という刺史(しし)に仕えました。丁原は、呂布の武勇を高く評価し、養子にするなど重用していました。13ある州のひとつである并州(へいしゅう)のトップである丁原に高く評価されるということは、このころから呂布は一廉の人物であったのでしょう。実際に生まれつき腕力が強く、体格も大きな偉丈夫だったそうです。

贈り物をされたことから、丁原を裏切り、董卓の下へ下る

image by iStockphoto

 丁原の下にいた呂布ですが、189年、洛陽での騒乱の際に上洛を果たした「董卓」(とうたく)の誘いで、丁原を裏切り、殺害してしまいます
裏切った理由ですが、董卓から名馬を贈られたからだといわれています。赤兎(せきと)という名前の由来にもなった赤い汗を流し、一日に千里を走り抜ける極上の馬だったそうです。

 董卓の下についた呂布は、父子の契りを結び、以後董卓の護衛をつとめます。この頃から呂布は、弓術・馬術に非常に優れており、前漢時代武勇に優れた武将「李広」(りこう)になぞらえて、『飛将軍』と呼ばれました。

 余談ですが、この赤兎馬(せきとば)は、トルクメニスタン原産の馬『アハルテケ』ではないかと思います。中国産の馬よりも大きな体格で、その毛は金色に輝いており、一日に千里を駆け抜けられるほどの運動能力をもっているそうです、現在もスポーツ馬術で活躍している種なんですよ。

反董卓連合軍との戦い、陽人の戦いでの敗北

 呂布という猛将と、兵力を手中に収めた董卓は、朝廷の中枢に入り込み、専横を極めていました。もちろんそんな董卓の暴虐な振る舞いを許す諸侯はおらず、反董卓連合軍が結成されます。

 連合軍の一人・「孫堅」(そんけん)が陽人(ようじん)という砦に駐屯していることを知ると、董卓は呂布と「胡軫」(こしん)という武将を派遣しました。しかし、呂布と胡軫はお互いに欺報を流すほどに仲が悪く、その隙を孫堅につかれ、敗北してしまいます。
この戦いがきっかけで、董卓軍は形勢不利に陥り、洛陽を炎上させ、長安へと退きました。

専横を極めた董卓を、裏切る

image by iStockphoto

 長安まで退いた董卓は、再び悪政を敷いていきます。そんな暴君に反旗を翻したのが、朝廷内の有力者の一人であった「王允」(おういん)でした。この王允の董卓暗殺計画への誘いに乗って、呂布は再び主人を裏切り、斬り捨ててしまうのです。

 丁原に引き続きあっさりと主人、それも義父を裏切った呂布、その胸中はどんなものだったのでしょうか。

 裏切りの理由はいくつかあるようですが、宴の最中、腹を立てた董卓に刃物を投げられたことを憎んでいた。董卓の侍女と密通していたため、それが露見することを恐れた。などと考えられています。

 董卓殺害後、王允と呂布は統治を行いますが、董卓軍の残党兵であった「郭汜」(かくし)と「李傕」(りかく)が長安を攻め、呂布らは敗走してしまいました。王允は、幼い献帝を一人には出来ない、と捕まったのちに処刑され、呂布は王允を助けようとしましたが叶わず、各地を流浪することとなります。

\次のページで「寄る地を得るため、各地を流浪することになる」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: