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ピューリタン革命で散ったステュアート朝2代目「チャールズ1世」の生涯を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はイギリスのチャールズ1世について紹介します。

彼はステュアート朝の2代目の君主で、父はジェームズ1世。チャールズ1世は議会を軽視してほとんど開かなかったため、議会では王党派と議会派で激しく対立して、ついに内乱へと向かうことになるんです。

その辺りの詳しい経緯についてはイギリスの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ各国の王室について興味があり、最近はイギリス王室に夢中!今回は議会と対立し、ピューリタン革命によって処刑されたステュアート朝2代目のチャールズ1世についてエピソードを交えながら解説していく。

1 チャールズの生い立ち

image by iStockphoto

イギリスのステュアート朝の2代目の君主として君臨したチャールズ1世。彼は一体どんな人物だったのでしょうか。ここでは彼の詳細なプロフィールを紹介していきますね。

1-1 影の薄い子ども時代を送ったチャールズ

チャールズは1600年にジェイムズ1世(スコットランド王も兼任しており、スコットランドではジェイムズ6世)とアン・オブ・デンマークとの間に生まれました。彼は次男。チャールズの幼少時代は、病気がちで足が不自由。そして体も小柄で痩せており、おまけに吃音。彼には兄ヘンリーがおり、周囲の期待は兄に向けられていました。

1-2 兄の急死から

ところがチャールズが12歳の時、兄のヘンリーが急死。一説にはチフスだったとも言われています。このため、ジェイムズ1世はチャールズに帝王教育を施すことに。そして即位後は、王権は神から与えられたものだと信じて専制政治を行うことに。

こうして当初は期待されていなかったチャールズでしたが、王太子として教育を受けることになったのです。

1-3 チャールズの花嫁はフランス王女

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By アンソニー・ヴァン・ダイク – San Diego Museum of Art, パブリック・ドメイン, Link

チャールズ1世の花嫁探しは難航することに。まずかつての敵国スペインと交渉するも挫折。そして次にフランスへ交渉を試みることに。フランスのブルボン家としては、ハプスブルク家の勢力拡大を阻止したい思惑があったと言われています。こうしてチャールズはフランスのヘンリエッタ・マリアを妃として迎えることに。

ヘンリエッタ・マリアの父は宙返りのアンリとして有名なアンリ4世。母はイタリアの富豪メディチ家出身マリー・ド・メディシス。そしてヘンリエッタは母マリーの影響を受け、カトリック教徒でした。イギリスはプロテスタント国でしたが、彼女が嫁ぐ条件としてカトリック信仰を認めることや彼女専用の礼拝堂を造りミサを行うことを認めるというもの。こうして信仰の違う2人が結ばれることに。夫婦仲は良く、2人の間には9人の子どもに恵まれることになりました。

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