今回はイギリスのチャールズ1世について紹介します。

彼はステュアート朝の2代目の君主で、父はジェームズ1世。チャールズ1世は議会を軽視してほとんど開かなかったため、議会では王党派と議会派で激しく対立して、ついに内乱へと向かうことになるんです。

その辺りの詳しい経緯についてはイギリスの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ各国の王室について興味があり、最近はイギリス王室に夢中!今回は議会と対立し、ピューリタン革命によって処刑されたステュアート朝2代目のチャールズ1世についてエピソードを交えながら解説していく。

1 チャールズの生い立ち

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イギリスのステュアート朝の2代目の君主として君臨したチャールズ1世。彼は一体どんな人物だったのでしょうか。ここでは彼の詳細なプロフィールを紹介していきますね。

1-1 影の薄い子ども時代を送ったチャールズ

チャールズは1600年にジェイムズ1世(スコットランド王も兼任しており、スコットランドではジェイムズ6世)とアン・オブ・デンマークとの間に生まれました。彼は次男。チャールズの幼少時代は、病気がちで足が不自由。そして体も小柄で痩せており、おまけに吃音。彼には兄ヘンリーがおり、周囲の期待は兄に向けられていました。

1-2 兄の急死から

ところがチャールズが12歳の時、兄のヘンリーが急死。一説にはチフスだったとも言われています。このため、ジェイムズ1世はチャールズに帝王教育を施すことに。そして即位後は、王権は神から与えられたものだと信じて専制政治を行うことに。

こうして当初は期待されていなかったチャールズでしたが、王太子として教育を受けることになったのです。

1-3 チャールズの花嫁はフランス王女

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By アンソニー・ヴァン・ダイク - San Diego Museum of Art, パブリック・ドメイン, Link

チャールズ1世の花嫁探しは難航することに。まずかつての敵国スペインと交渉するも挫折。そして次にフランスへ交渉を試みることに。フランスのブルボン家としては、ハプスブルク家の勢力拡大を阻止したい思惑があったと言われています。こうしてチャールズはフランスのヘンリエッタ・マリアを妃として迎えることに。

ヘンリエッタ・マリアの父は宙返りのアンリとして有名なアンリ4世。母はイタリアの富豪メディチ家出身マリー・ド・メディシス。そしてヘンリエッタは母マリーの影響を受け、カトリック教徒でした。イギリスはプロテスタント国でしたが、彼女が嫁ぐ条件としてカトリック信仰を認めることや彼女専用の礼拝堂を造りミサを行うことを認めるというもの。こうして信仰の違う2人が結ばれることに。夫婦仲は良く、2人の間には9人の子どもに恵まれることになりました。

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2 議会を軽視した王

チャールズは先代のジェームズ1世と同様に専制政治を進めることに。ところがジェームズ1世の時代では、カトリック側からもプロテスタント側からも嫌われ、魔女狩りを行ったため民衆からも嫌われることに。そうして味方を増やそうと国庫にも手をつけたため、みるみる内に減っていくことに。

こうして先代の王からの負の遺産を受け継ぐことになったチャールズ。ここでは専制政治を進めたため、議会と対立していく様子を解説していきます。

2-1 即位後に結婚したチャールズ

父ジェイムズ1世が病気で崩御したため、チャールズ1世が即位することに。チャールズは1625年に即位し、その数か月後にはヘンリエッタとの結婚することに。ちなみにヘンリエッタは熱心なカトリック信者だったため、国教会式の戴冠式を拒んだそう。これによって後年彼女が夫チャールズを亡くした後にもらえるはずだった寡婦年金が貰えず金銭的に苦しむことに

2-2 議会と対立するチャールズ 

さて即位したチャールズ1世でしたが、彼は議会を軽視したため議会と対立することに。彼は1628年に議会を召集しましたが、議会が権利の請願を可決します。

権利の請願とはチャールズ1世に対し議会の承認なしに課税することができないというもの。これに対しチャールズは反発。翌年に議会を解散させ、以来11年間も議会を開くことはありませんでした。

2-3 パトロンだったチャールズ

チャールズ1世といえば、芸術のパトロンとしても有名な人物です。特に彼が首席宮廷画家としてイギリスへ迎えたのは、フランドル出身のアンソニー・ヴァン・ダイク

当初はイギリスでの宮廷画家となることに不安を感じていたヴァン・ダイク。なぜなら、当時のイギリスは芸術後進国だったことと、イギリスはプロテスタント国で教会からの大きな依頼が入らないと考えたため。しかしチャールズは彼に対し、高額の給金や年金をはじめ、サーの称号やロンドンの街中に家を用意するなど多くの破格ともいえる条件を提示したのです。更に王侯しか使うことが許されないエルサム宮殿内に個室を与えるなどかなり優遇したのでした。ヴァン・ダイクは40点程のチャールズ1世の肖像画を描くことに。またチャールズは絵画のコレクターだったため、多くのコレクションを持っていました。

2-4 ヴァン・ダイクの描く王の肖像画 

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By アンソニー・ヴァン・ダイク - http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/charles-i-hunt?sous_dept=1, パブリック・ドメイン, Link

ヴァン・ダイクの描いた肖像画として有名なのが、「狩り場のチャールズ1世」。通常ならば絵画の画面の中にあるはずの国王を示すアトリビュートが見当たらない本作。しかし左手袋は高貴や狩猟権を表すので彼がただ者ではないことが分かりますね。

画面の真ん中に立ち、こちらに目線を送る男性の身に着けている物はどれも一流の品。凝ったデザインの襟のついたシャツや左耳には当時流行していた大粒の真珠のピアス、艶のあるジャケットに深紅の半ズボン。少し憂いを帯びた表情はどこか優し気にもうつりますね。

ヴァン・ダイクはドラマティックな演出を手掛けるのが得意な画家でした。国王チャールズにスポットライトが当たっているかのような光の当たり方、そして彼と対照的に暗い位置から描かれた召使と馬。ヴァン・ダイクは対象を粉飾するのに長けた人物でした。チャールズ1世はとても小柄で155センチしかなかったそうですが、絵画では小柄をごまかすために馬の頭を下げさせているのです。

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2-5 議会を開くも…

ヴァン・ダイクの絵画では優し気な印象だったチャールズ1世。ところが実際に彼は王権は神から与えられた絶対なものであると信じていたため、国内情勢を顧みることをせず専制政治を貫くことに。

長い間議会を開かなかったチャールズ1世でしたが、ここで転機が訪れることに。1637年にスコットランドに対しプロテスタントを強要したため、スコットランド国内で反乱が発生。チャールズはこの反乱を押さえるため議会を開き臨時の課税を認めさせようとします。ところが議会はこれに反対。チャールズは議会を解散させる選択肢を取りますが、再び議会を召集することに。

2-6 ピューリタン革命勃発!

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By Sir John Gilbert - bridgemanartondemand.com, パブリック・ドメイン, Link

ピューリタン革命が起こったきっかけは、チャールズ1世は専制政治を行い、国教会の立場からピューリタンを弾圧したためでした。ところでなぜピューリタンは弾圧されたのでしょうか。ピューリタンとはカルヴァン派と呼ばれる人々で、国家権力から独立志向が強いとが特徴。そして議会派の中心メンバーはピューリタンたちだったため、議会では王党派(チャールズの味方)と議会派が激しく対立することに。

そしてついに内乱へ。この内乱のことをピューリタン革命と言います。1642年に王党派がノッティンガムで挙兵。1644年にマーストン・ムーアの戦いが勃発。この戦いでは議会派のオリバー・クロムウェルの鉄軌隊が活躍することに。そして1645年のネーズビーの戦いでチャールズ側が敗戦しました。

2-7 チャールズの処刑

ネーズビーの戦いの後、国王チャールズ1世は裁判にかけられることに。チャールズ1世の罪状は、暴君や民衆の敵などとされていました。ちなみにこの間にチャールズ1世は王妃ヘンリエッタと子どもたちをフランスへ亡命させることに成功。

余談ですが、後年にフランスのルイ16世がチャールズを自分自身への教訓として英国史を読んでいたエピソードが残っています。前者は妻子を亡命させることができましたが、後者は王妃もギロチンにかけられ子どもも長女以外は助からなかったことを考えると複雑な思いになりますね。

さてチャールズ1世ですが、クロムウェルは議会で長老派を追放し、国王の処刑へと踏み切ることに。こうしてチャールズ1世は1649年に処刑されることになりました。

3 共和制となったイギリス

専制政治を行っていたチャールズ1世でしたが、ピューリタン革命によって処刑されることに。こうしてチャールズはイギリスで初の革命によって処刑された国王となりました。さて、チャールズ1世を処刑した後のイギリスはどうなっていったのでしょうか。詳しく見ていきましょう。

3-1 神を処刑したイギリス

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By ポール・ドラローシュ - bridgemanart.com, パブリック・ドメイン, Link

ピューリタン革命後に国王チャールズ1世が公開処刑されることは前代未聞の出来事でした。当時の民衆は国王を神と同様の存在と考えており、そんな王を処刑するというのだから怖気づいてしまう様子が目に浮かびますよね。(クロムウェルの感覚と民衆の感覚がかなりかけ離れていますね)

そして処刑されてチャールズの首が胴体と離れると、王の元へ民衆が押し寄せて滴る血を布に吸わせ、これを聖遺物とした者が多かったそう。ここからチャールズ1世は専制政治を行った暴君ではなく、殉教王として民衆から人気が出ることに。

\次のページで「3-2 クロムウェルの独裁政治」を解説!/

3-2 クロムウェルの独裁政治

チャールズ1世の死後のイギリスは一体どうなったのでしょうか。国王による専制政治を否定したイギリスの議会は、国王の処刑後は共和制を宣言することに。そして1653年にクロムウェルが護国卿に任じられることに。護国卿とは、王権と並ぶ最高統治権が与えられたものでした。つまり、クロムウェルは独裁権を握ることになったのです。彼は芝居など娯楽を禁止し、民衆に息苦しい時代をもたらすことに。そしてチャールズ1世が処刑されて9年後にインフルエンザに倒れ病死しました。

3-3 チャールズのコレクションたちの行方は?

さて、チャールズ1世がせっせと集めた絵画はどうなったのでしょうか。なんと革命政府によって競売にかけられていました。これは一説には絵画の価値を革命政府が把握していなかったからとも、逆に分かっていたからこそ資金を得るために売却したとも言われています。こうして売りに出された絵画は、同じく熱心なコレクターだったスペインのフェリペ4世が購入することに。この購入に関して、宮廷画家だったベラスケスの助言をフェリペは得ていたそう。

そしてヴァン・ダイクの傑作、「狩り場のチャールズ1世」はなんとフランスへ渡っていました。これは王妃ヘンリエッタが持ち帰ったとも言われています。そして最終的にはルイ15世の寵姫デュ・バリー婦人の所持品となることに。

3-4 クロムウェルの死後

クロムウェルの死後は、その後を息子が継承することに。ところが王族ならいざ知らず。カリスマ性もないクロムウェルの息子だったためすぐにチャールズ1世の息子、チャールズ2世へ声がかかることに。議会は1660年に王政復古を決議しました。こうしてイギリスは再び王が君臨し、チャールズ2世は戴冠することに。ちなみにこの戴冠式の様子をヘンリエッタも目にすることができたそう。

3-5 亡命先から帰ってきたチャールズ2世

こうしてクロムウェルの死後に王政復古を果たしたステュアート朝。3代目はチャールズ1世の長男チャールズ2世が即位することに。16歳から亡命生活をしていた彼は既に30歳となっていました。そして即位すると、クロムウェルが禁止していた芝居小屋などを再び復活させることに。民衆はこの新しい王を「陽気な王様」とあだ名をつけ親しんだそう。

革命によって命を落とした王

もともとは王を継承する確率が低かったチャールズ。しかし兄の死から彼の人生が激的な変化を遂げることに。父ジェームズ1世からは帝王教育を施され、王権神授説を信じたチャールズ。そして自身の権力を制限しようとする議会と数々の対立、そして最終的にはピューリタン革命へと繋がっていくことに。

また芸術のパトロンとしても知られたチャールズ。彼はフランドルの有名な画家、ヴァン・ダイクを迎えました。そして多くの傑作を描き続けたヴァン・ダイク。チャールズは他にもコレクターとしてティツィアーノ、デューラーなどの絵を手にしていたそう。

先代の王の負の遺産を受け継ぎ、同じく処刑された君主にフランスのルイ16世がいます。しかしチャールズとルイとの違いは妻子を亡命させたかどうか。チャールズは妃ヘンリエッタと子どもたちをヘンリエッタの故郷フランスへ亡命させることに成功。かたやルイはアントワネットを亡命させることができず、2人もろともギロチンへかけられることに。

専制君主としてイギリスへ君臨したチャールズ1世は、ピューリタン革命後に処刑されることになりましたが、処刑後に民衆の間で殉教王としてあがめられることになったのでした。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

ピューリタン革命で散ったステュアート朝2代目「チャールズ1世」の生涯を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はイギリスのチャールズ1世について紹介します。

彼はステュアート朝の2代目の君主で、父はジェームズ1世。チャールズ1世は議会を軽視してほとんど開かなかったため、議会では王党派と議会派で激しく対立して、ついに内乱へと向かうことになるんです。

その辺りの詳しい経緯についてはイギリスの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ各国の王室について興味があり、最近はイギリス王室に夢中!今回は議会と対立し、ピューリタン革命によって処刑されたステュアート朝2代目のチャールズ1世についてエピソードを交えながら解説していく。

1 チャールズの生い立ち

image by iStockphoto

イギリスのステュアート朝の2代目の君主として君臨したチャールズ1世。彼は一体どんな人物だったのでしょうか。ここでは彼の詳細なプロフィールを紹介していきますね。

1-1 影の薄い子ども時代を送ったチャールズ

チャールズは1600年にジェイムズ1世(スコットランド王も兼任しており、スコットランドではジェイムズ6世)とアン・オブ・デンマークとの間に生まれました。彼は次男。チャールズの幼少時代は、病気がちで足が不自由。そして体も小柄で痩せており、おまけに吃音。彼には兄ヘンリーがおり、周囲の期待は兄に向けられていました。

1-2 兄の急死から

ところがチャールズが12歳の時、兄のヘンリーが急死。一説にはチフスだったとも言われています。このため、ジェイムズ1世はチャールズに帝王教育を施すことに。そして即位後は、王権は神から与えられたものだと信じて専制政治を行うことに。

こうして当初は期待されていなかったチャールズでしたが、王太子として教育を受けることになったのです。

1-3 チャールズの花嫁はフランス王女

HenriettaMariaofFrance02.jpg
By アンソニー・ヴァン・ダイク – San Diego Museum of Art, パブリック・ドメイン, Link

チャールズ1世の花嫁探しは難航することに。まずかつての敵国スペインと交渉するも挫折。そして次にフランスへ交渉を試みることに。フランスのブルボン家としては、ハプスブルク家の勢力拡大を阻止したい思惑があったと言われています。こうしてチャールズはフランスのヘンリエッタ・マリアを妃として迎えることに。

ヘンリエッタ・マリアの父は宙返りのアンリとして有名なアンリ4世。母はイタリアの富豪メディチ家出身マリー・ド・メディシス。そしてヘンリエッタは母マリーの影響を受け、カトリック教徒でした。イギリスはプロテスタント国でしたが、彼女が嫁ぐ条件としてカトリック信仰を認めることや彼女専用の礼拝堂を造りミサを行うことを認めるというもの。こうして信仰の違う2人が結ばれることに。夫婦仲は良く、2人の間には9人の子どもに恵まれることになりました。

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