日本史歴史飛鳥時代

古墳から飛鳥時代で権勢を振るった蘇我氏を最後の「蘇我入鹿」まで歴史オタクがわかりやすく5分で解説

古墳時代から飛鳥時代に巨大な勢力をほこった「蘇我一族」。その権力を維持するために天皇暗殺まで行ったとされている。つまり、やりたい放題だったわけです。

今回は蘇我氏の隆盛と、その最後となった「蘇我入鹿」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。飛鳥時代の日本を、今度は個人にスポットライトを当てて引き続き解説する。

『日本書紀』にも登場する古代日本の権力者

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By 不明http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=4&ID=w012&SubID=s000, パブリック・ドメイン, Link

『日本書紀』は奈良時代に成立した古代日本の歴史書です。イザナミノミコトの神代から始まり、飛鳥時代の持統天皇の御代までの長い歴史を紡いだ最古の歴史書ですね。

『日本書紀』には少なからず蘇我氏との因縁がありました。歴史書を編纂するきっかけとなったのは、乙巳の変で蘇我氏が滅ぶ際、蘇我蝦夷が自宅に火をかけたことで書庫に保管されていた多くの歴史書が焼失したことに始まります。失われた歴史書に代わるものが必要だったんですね。天武天皇はまず稗田阿礼(ひえだのあれ)らに命じて『古事記』を編纂させ、その後、焼け残った歴史書や難を逃れた歴史書をもとに『日本書紀』を編纂します。

蘇我氏の祖・武内宿禰

弥生時代より発展を遂げてきた日本。3世紀から始まる古墳時代にいくつもの地方国家が連合して成立した大和朝廷は、大王(おおきみ)を中心に北は東北、西は九州にまで及ぶ国家を形成していきました。

その時代の中で蘇我氏の祖となった、第八代孝元天皇のひ孫・武内宿禰(たけうちのすくね)。彼は第十二代景行天皇から第十六代の仁徳天皇まで五代に渡って仕えたとされる伝説の忠臣でした。武内宿禰の業績は、東北遠征の進言や反乱の鎮圧と武人らしさがうかがえる一方で、琴や和歌にも通じた文武両道のスーパーマンです。

特に第十三代成務天皇は武内宿禰と同日生まれで、彼を大和朝廷で最高の官職「大臣(おおおみ)」に任命して寵愛します。ここから「大臣」の地位は武内宿禰の子孫へと受け継がれ、やがて蘇我一族が歴任するようになりました。

古墳時代の終わり、仏教公伝

538年、朝鮮半島の百済の聖王から大和朝廷の欽明天皇に仏教が公伝されます。公伝というのは簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」で、仏教自体は渡来人たちによってすでに日本へ入ってきてはいたのです。渡来人たちが個人的に仏教を信仰しているだけで、大和朝廷は関与していない状態でした。

聖王は釈迦仏像や経典を大和朝廷におくってきたのですが、大和朝廷は日本神話の神々を信仰する神道があります。天皇家はイザナミノミコトの子孫とされていましたし、他の氏族もそれぞれの祖先からお祀りしているカミ様がいました。そのカミ様と一緒に仏教も信仰してはどうか、と言われても、はいそうですね、と気軽にできるものではありませんよね。

仏教の賛否で割れる大和朝廷

このときの大和朝廷のトップは欽明天皇に、大臣・蘇我稲目、大連・物部尾輿(もののべのおこし)。「大連(おおむらじ)」は大臣と並ぶ最高の執政官です。

大和朝廷では氏族ごとに「姓(かばね)」という階級的称号を授けていました。蘇我稲目の「臣」は天孫を祖先とする天皇家からわかれた一族に与えられ、物部尾輿の「連」は他のカミ様を祖先にする氏族に与えられた称号です。その中でも「大臣」や「大連」は特に有力なものを指します。

さて、『日本書紀』によると、欽明天皇は臣下たちを集めて仏教を信仰すべきかどうか問いました。

聖王の手紙には「インドから朝鮮半島にいたるまで仏教を信奉していない国はありません」と書かれていましたから、蘇我稲目は「日本だけ信仰しないなんてできません」と答えます。しかし、物部尾輿は「私たちの国はずっと神道を信仰してきました。今から外国の神様を拝んだら、我が国の神々の怒りを買いますよ」と反対しました。

蘇我稲目、日本初の寺をつくる

蘇我稲目のような仏教賛成派を崇仏派、物部尾輿のような仏教反対派を廃仏派と言います。この二者で朝廷は真っ二つに意見が割れてしまいました。しかし、原因の釈迦仏像と経典は百済の聖王からおくられたものの上、大陸の他の多くの国々に信仰されていますから、仏像や経典を無碍に捨てると日本は国際的に孤立しかねません。

そこで欽明天皇はひとまず崇仏派の蘇我稲目にこれらを渡して様子をみることにしました。蘇我稲目は飛鳥の向原というところにあった家を祓い清めて釈迦仏像を安置します。これが日本最初の寺となりました。

争いのはじまりは疫病の流行

蘇我稲目が向原で仏像を祀ると、タイミングの悪いことに国に疫病が流行り始めたのです。廃仏派の物部尾輿は「外国の神様を祀って自国のカミを蔑ろにしたから天罰が下ったんですよ!早く仏像など捨てさせて、神々の怒りを解きましょう」と欽明天皇に奏上します。病気の原理や医療が発達していない古代ですから、そう言われてしまえば欽明天皇も頷くしかありません。

我が意を得たりとばかりに物部尾輿はすぐに向原の寺を焼き払い、釈迦仏像を大阪湾の水路に流し捨ててしまいました。すると、空に雷雲もないのに天皇の住む大殿から火の手が上がったと『日本書紀』に書かれています。捨てられた仏が怒り皇居が燃えてしまったということですね。

この後、欽明天皇は霊木で二体の仏像を彫らせたと『日本書紀』にありますので、天皇が完全に仏教を否定したわけではありません。しかし、仏教を大和朝廷で祀ることはせず、蘇我稲目に任せっきりにしたままでした。

\次のページで「「仏罰」と「神罰」の違い」を解説!/

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