
3 国内改革を図るも暗殺が頻発する事態へ
クリミア戦争の敗戦を機に国内改革を進めようとしたアレクサンドル2世。ロシア国内の農奴を解放して工場労働者として自国の近代化を進めようと試みることに。しかしこの改革は中途半端だったため、保守派と改革推進派からも反発される事態となりました。それでは詳しく見ていきましょう。
3-1 農奴解放令を出すも…
自国の遅れを痛感したアレクサンドル2世。彼はモスクワ貴族を集めて解放委員会を設置。そして貴族らに農奴解放を検討させることに。ところが貴族らは、農奴が不利となるような条件を作ることに。
そんな経緯があって、農奴解放令は1861年に出されました。この解放令で農奴から解放されたのは、2200万人以上に。しかし農奴から解放された人々からは失望の声が上がりました。農奴解放令では、これまでの耕作地は5分の2を削減され、土地を持つにはかなり高額で買わねばならない状況に。更にひどいケースでは、地主の家で従事していた農奴は家を追い出され失業者となったものも。
当初は地主らがアレクサンドルの命を正しく理解していないと解釈されていたよう。だが次第にこの解放令が皇帝の指示であったと分かると皇帝への憎悪が膨れ上がることに。こうしてアレクサンドルが求めていたロシア国内の工業化が進むことになりましたが、同時に暗殺未遂が度々起こることになったのでした。
3-2 ロシア・トルコ戦争で勝利するも…
その後のロシアは、パン⁼スラヴ主義を掲げ、再びオスマン帝国へ挑むことに。背景には当時バルカン半島のスラヴ民族の中で独立運動の機運が高まっていたため。この戦争ではロシアが勝利。これで念願だったバルカン半島への進出が達成されたかのようにみえましたが、またしてもイギリスとオーストリアからの干渉を受けることに。最終的にはベルリン会議でロシアの南下政策はまたしても失敗に終わることに。
3-3 国内改革を図るも暗殺未遂事件が相次ぐことに
アレクサンドル2世はロシア国内の近代化を図るため、農奴の解放令を出すことに。ところがこの解放令の内容が中途半端だったため、保守派と改革推進派から反発されることに。ロシア国内では格差社会が広がり、一部のエリートと多くの貧しい民衆となるように。これを平等な社会へと求めたインテリや学生らがいました。そして次第に彼らは過激なテロを行うように。ロシアではナロードニキと呼ばれる革命家たちがいました。彼らは貧しい民衆たちの立場に立ち、社会主義の実現を目指すことに。こうしてアレクサンドルは、度々暗殺されそうになりました。
1866年には皇帝暗殺未遂事件が起き、その後アレクサンドルはポーランドを弾圧することに。側近たちを保守派に固めました。しかしその後もアレクサンドルは狙われることに。なんと2年間で7回も暗殺未遂事件が起こることになったのです。これに関してアレクサンドルは「私は狩り出される野獣か」と怒りをあらわにしたそう。
3-4 アレクサンドルの暗殺
アレクサンドル2世の死因は爆殺でした。1881年に彼の乗った馬車に2度爆弾が投げ込まれる事態に。1度目の爆弾では無事だったアレクサンドル。ところが負傷者を救助し、犯人に対し尋問しようとした時、2度目の爆弾が彼に命中。爆弾によって、アレクサンドル2世は、両足がちぎれ目が飛び出ていたそう。しかし即死ではなかったアレクサンドル。死に際に彼は、宮殿で最期を迎えたいと言い、宮殿でこと切れることに。
テロリストの首謀者は、なんと27歳の女性。首謀者の名はソフィア⁼ペロフスカヤと言い、もともと貴族出身の女性。しかしヴ⁼ナロード運動に共鳴して社会を変えるため、皇帝の暗殺を企てたのです。
ツァーリの暗殺は世界中を驚愕させることに。ソフィアはその後逮捕され、翌月には仲間ともども処刑されることに。ちなみにアレクサンドル2世の息子のアレクサンドル3世が父帝の後を継ぐことになりましたが、彼が初めに行ったことは2世が暗殺された現場の橋の側に教会を建てたことでした。この教会は「血の上の教会」と呼ばれ、現在では観光名所として有名となっています。
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