世界史

ロシアの近代化を目指した「アレクサンドル2世」の生涯について歴女が5分で解説!

よぉ、桜木建二だ。今回は、ロシアの皇帝アレクサンドル2世についてだ。

アレクサンドル2世は父がニコライ1世、伯父はナポレオンを追い詰めたアレクサンドル1世を持つ人物だ。アレクサンドル2世はクリミア戦争敗北後に国内の改革を進めた人物としても知られているよな。

そこで今回は、そんなアレクサンドル2世の生涯についてまぁこと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/まぁこ

ヨーロッパの歴史に興味があるアラサー女子。ここ最近のマイブームはロシアを治めたロマノフ家について関連書を愛読すること。そんなヨーロッパ史大好き歴女が、ロシア国内の改革を目指したアレクサンドル2世の生涯について詳しく解説していく。

1 改革を目指したツァーリ

image by iStockphoto

ツァーリとは、ロシアで使われた皇帝の称号アレクサンドル2世は、ロシアのツァーリとしてロシア国内の改革を進めた人物です。ではなぜロシア国内で改革を進めなければならなかったのでしょうか。今回は当時の世界情勢を踏まえながら解説していきます。

1-1 将来のツァーリとして英才教育を受ける

アレクサンドル2世は、1818年に生まれました。彼の父は、ニコライ1世。ニコライ1世と言えば、国内で激しい弾圧を行ったため最も暗い治世と言われていますね。

さて、アレクサンドルに話を戻すと彼は将来の皇帝として教育を受けることに。言語もフランス語、英語、ドイツ語などを習得。そして政府機関に勤務して、実際の政治や外交を学んだそう。

1-2 恋人を求めたアレクサンドル

アレクサンドル2世と言えば、恋多き男性としても有名。彼は皇太子時代にドイツへ旅行していた際に、ドイツ大公の娘に夢中になることに。この娘が後の妃となるマリア・アレクサンドロヴナ。この時アレクサンドルは20歳、マリアは14歳でした。アレクサンドルは周りの反対を押し切り結婚しましたが、すぐに別の女性に心を奪われることに。

これは34歳となったマリア・アレクサンドロヴナ。白の美しいレースがふんだんにあしらわれたドレスをまとい、こちらを見据えていますね。しかし背景が暗いためか、ちっとも幸福感が伝わってこない肖像画。それもそのはず。なぜなら結婚後8人もの子宝に恵まれた彼女でしたが、夫であるアレクサンドルには全く顧みられることがなかったそう。皇帝は別の貴族女性との間に庶子を3人も成すことに。この結果を知ると、マリアが身に着けている多くの真珠がまるで彼女の涙のように見えてくるようですね。

1-3 自分の娘よりも年下の女性との恋

アレクサンドルは50歳を目前にしてまた恋することに。しかも相手は自分の娘よりも若い公爵令嬢エカチェリーナ・ドルゴルーカヤ。ちなみに彼女の愛称はカーチャ。アレクサンドルはカーチャが当時女学生だったため卒業するまで待ち、その後4人の子どもにも恵まれ幸福な家庭生活をすることに。そして病弱だった皇后マリアが56歳でこの世を去ると、すぐにカーチャと再婚。ところが既にロシアはピョートル大帝の時代のように貴賤結婚を認めておらず、アレクサンドル2世の死後はカーチャら親子は追い払われることに

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ピョートル大帝の時代のロシアでは貴賤結婚が許されていたロシア。ちなみに他のヨーロッパの王室では貴賤結婚は認められていなかった。しかしアレクサンドル2世の時代ではロシア国内でもヨーロッパ化が進み、貴賤結婚が許されなかったんだ。だからアレクサンドルの死によってカーチャたち親子は追い出されてしまうことになるんだ。

2 ニコライとアレクサンドルの政策

ロシアでは度々凍らない港を求めて、南下政策を取ることに。ちなみに女帝エカテリーナの時代ではクリミア半島を手中に治めていたロシア。ニコライ1世、アレクサンドル2世らの目的は現在のイスタンブルを手に入れるためでした。南下政策によって凍らない港を手にすることができたのでしょうか。それでは見ていきましょう。

2-1 凍らない海を求めて

18世紀の後半からロシアは度々南下政策を取るように。これはロシア国内の港が冬になると凍ってしまうためでした。しかしこの南下政策は挫折することに。1853年に起こったクリミア戦争もまたそうでした。ギリシア正教徒の保護を大義名分に掲げ、ロシアはオスマン帝国と戦うことに。ところが、イギリスとフランスがオスマン帝国側についたためロシアは敗戦しました。

2-2 白衣の天使、ナイティンゲール

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By H. Lenthall, London – このファイルは以下の画像から切り出されたものです: Florence Nightingale three quarter length.jpg heritage auctions, パブリック・ドメイン, Link

クリミア戦争というと、ナイティンゲールを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。ナイティンゲールはイギリス出身の貴族階級の女性。彼女はイギリス軍に従軍し、クリミア戦争の戦場へ。当時は女性が労働するのは卑しいこととされていました。そして看護婦とは通常娼婦がやっていた職業。家族の反対は並大抵のものではなかったと想像できますね。さて、戦場の彼女ですが野戦病院で献身的な看護を続けたお陰で死亡率が半減。まさに彼女は白衣の天使でした。そして後にアンリ⁼デュナンと共に国際赤十字社を設立することに。

2-3 イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳」

Ilia Efimovich Repin (1844-1930) - Volga Boatmen (1870-1873).jpg
By イリヤ・レーピンlj.rossia.org, パブリック・ドメイン, Link

ロシアの有名な画家、イリヤ・レーピンが描く「ヴォルガの船曳」。ロシアの底辺労働者が従事する仕事の様子が描かれています。服装がボロボロで、血色がかなり悪い画面の登場人物たち。彼らには幅の広い紐がつけられ、彼らの背中越しには帆を畳んだ一隻の船が見えます。彼らはどんな労働をしているのでしょうか。なんと下流から上流へ船を進めるために人が押していたのです。船を目的地まで何時間も何日間も引き続けなければならなかった船曳たち。

ところでこれはいつの時代と思いますか?なんとクリミア戦争の20年も後の時代を描いたもの。絵画の中では奧の方に描かれている船は既に蒸気機関船。ところがそんな船を導入するよりも船曳を雇った方が安くついたため、未だに過酷な労働があったのです。ロシアの国内産業の遅れを感じさせますね。

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南下政策のため、ロシアはオスマン帝国とクリミア戦争を起こすことになったんだ。ところがイギリスとフランスがオスマン帝国側に味方して戦うことになると、近代化されたイギリスやフランスの軍隊に勝ち目がなかったロシア。この戦いによってロシアの近代化の遅れが露見することになり、アレクサンドルが国内の近代化を進めないといけないと考えるようになったんだ。

2-4 ニコライ1世の死

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By ミハイ・ジチ – Coronation Book of Alexander II., パブリック・ドメイン, Link

1855年に父ニコライ1世が肺炎のため死去。その後を継いだのが、アレクサンドル2世でした。当時はクリミア戦争の最中で、ニコライの死後半年足らずでロシアの敗戦となることに。そのためアレクサンドルはクリミア戦争の戦後処理を行いました。

クリミア戦争では、ロシア国内の改革の必要性をヒシヒシと感じることになったアレクサンドル。そこで彼は農奴を解放し、彼らを工場労働者にしようと考えました。

3 国内改革を図るも暗殺が頻発する事態へ

クリミア戦争の敗戦を機に国内改革を進めようとしたアレクサンドル2世。ロシア国内の農奴を解放して工場労働者として自国の近代化を進めようと試みることに。しかしこの改革は中途半端だったため、保守派と改革推進派からも反発される事態となりました。それでは詳しく見ていきましょう。

3-1 農奴解放令を出すも…

自国の遅れを痛感したアレクサンドル2世。彼はモスクワ貴族を集めて解放委員会を設置。そして貴族らに農奴解放を検討させることに。ところが貴族らは、農奴が不利となるような条件を作ることに。

そんな経緯があって、農奴解放令は1861年に出されました。この解放令で農奴から解放されたのは、2200万人以上に。しかし農奴から解放された人々からは失望の声が上がりました。農奴解放令では、これまでの耕作地は5分の2を削減され、土地を持つにはかなり高額で買わねばならない状況に。更にひどいケースでは、地主の家で従事していた農奴は家を追い出され失業者となったものも。

当初は地主らがアレクサンドルの命を正しく理解していないと解釈されていたよう。だが次第にこの解放令が皇帝の指示であったと分かると皇帝への憎悪が膨れ上がることに。こうしてアレクサンドルが求めていたロシア国内の工業化が進むことになりましたが、同時に暗殺未遂が度々起こることになったのでした。

3-2 ロシア・トルコ戦争で勝利するも…

その後のロシアは、パン⁼スラヴ主義を掲げ、再びオスマン帝国へ挑むことに。背景には当時バルカン半島のスラヴ民族の中で独立運動の機運が高まっていたため。この戦争ではロシアが勝利。これで念願だったバルカン半島への進出が達成されたかのようにみえましたが、またしてもイギリスとオーストリアからの干渉を受けることに。最終的にはベルリン会議ロシアの南下政策はまたしても失敗に終わることに

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ロシアが南下政策に舵を切るが、クリミア戦争ではイギリスとフランスが介入。そしてロシア・トルコ戦争ではイギリスとオーストリアの介入によって南下政策はうまくいかなかったんだ。つまり列強だった当時の各国はロシアが台頭するのを阻止しようとしたんだな。

3-3 国内改革を図るも暗殺未遂事件が相次ぐことに

アレクサンドル2世はロシア国内の近代化を図るため、農奴の解放令を出すことに。ところがこの解放令の内容が中途半端だったため、保守派と改革推進派から反発されることに。ロシア国内では格差社会が広がり、一部のエリートと多くの貧しい民衆となるように。これを平等な社会へと求めたインテリや学生らがいました。そして次第に彼らは過激なテロを行うように。ロシアではナロードニキと呼ばれる革命家たちがいました。彼らは貧しい民衆たちの立場に立ち、社会主義の実現を目指すことに。こうしてアレクサンドルは、度々暗殺されそうになりました。

1866年には皇帝暗殺未遂事件が起き、その後アレクサンドルはポーランドを弾圧することに。側近たちを保守派に固めました。しかしその後もアレクサンドルは狙われることに。なんと2年間で7回も暗殺未遂事件が起こることになったのです。これに関してアレクサンドルは「私は狩り出される野獣か」と怒りをあらわにしたそう。

3-4 アレクサンドルの暗殺

アレクサンドル2世の死因は爆殺でした。1881年に彼の乗った馬車に2度爆弾が投げ込まれる事態に。1度目の爆弾では無事だったアレクサンドル。ところが負傷者を救助し、犯人に対し尋問しようとした時、2度目の爆弾が彼に命中。爆弾によって、アレクサンドル2世は、両足がちぎれ目が飛び出ていたそう。しかし即死ではなかったアレクサンドル。死に際に彼は、宮殿で最期を迎えたいと言い、宮殿でこと切れることに

テロリストの首謀者は、なんと27歳の女性。首謀者の名はソフィア⁼ペロフスカヤと言い、もともと貴族出身の女性。しかしヴ⁼ナロード運動に共鳴して社会を変えるため、皇帝の暗殺を企てたのです。

ツァーリの暗殺は世界中を驚愕させることに。ソフィアはその後逮捕され、翌月には仲間ともども処刑されることに。ちなみにアレクサンドル2世の息子のアレクサンドル3世が父帝の後を継ぐことになりましたが、彼が初めに行ったことは2世が暗殺された現場の橋の側に教会を建てたことでした。この教会は「血の上の教会」と呼ばれ、現在では観光名所として有名となっています。

ロシアの改革を試みたツァーリ

プライベートな面では恋多き男性として知られるアレクサンドル。ドイツへ行った先で妃マリア・アレクサンドロヴナ、そして自分の娘よりも若い女性カーチャとの幸福な結婚生活…。アレクサンドルからすればつかの間の幸せな時間だったのかもしれませんが、妃マリアもカーチャもその後を知れば決して幸福とは言い難いですね。

皇帝として幼い頃から帝王教育を受け、将来の君主が約束されていたアレクサンドル2世。彼は父帝の時代に始まったクリミア戦争においてロシアが近代化されていないことをヨーロッパ中に知られてしまうことに。ここから国内改革の必要性を痛感し、改革へと歩み出しました。

ところがその一環となる農奴解放令は、待ち浴びていた農奴たちから失望の声が上がることに。保守派からも改革推進派からも反発を受け、ついに過激なテロリストらから命を狙われることになったアレクサンドル。そして幾度も難を逃れた彼でしたが、ついに乗っていた馬車を爆撃されてしまい暗殺されることに。

しかしアレクサンドルの改革のお陰で、ロシアは大国へと再び返り咲くことになったのです。アレクサンドルが爆撃された現場に彼の息子アレクサンドル3世が建てた血の上の教会は、今日では観光名所として有名となっています。

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