アレクサンドル2世は父がニコライ1世、伯父はナポレオンを追い詰めたアレクサンドル1世を持つ人物です。アレクサンドル2世はクリミア戦争敗北後に国内の改革を進めた人物としても知られていますね。
そこで今回は、そんなアレクサンドル2世の生涯についてまぁこと一緒に解説していきます。
ライター/まぁこ
ヨーロッパの歴史に興味があるアラサー女子。ここ最近のマイブームはロシアを治めたロマノフ家について関連書を愛読すること。そんなヨーロッパ史大好き歴女が、ロシア国内の改革を目指したアレクサンドル2世の生涯について詳しく解説していく。
1 改革を目指したツァーリ
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ツァーリとは、ロシアで使われた皇帝の称号。アレクサンドル2世は、ロシアのツァーリとしてロシア国内の改革を進めた人物です。ではなぜロシア国内で改革を進めなければならなかったのでしょうか。今回は当時の世界情勢を踏まえながら解説していきます。
1-1 将来のツァーリとして英才教育を受ける
アレクサンドル2世は、1818年に生まれました。彼の父は、ニコライ1世。ニコライ1世と言えば、国内で激しい弾圧を行ったため最も暗い治世と言われていますね。
さて、アレクサンドルに話を戻すと彼は将来の皇帝として教育を受けることに。言語もフランス語、英語、ドイツ語などを習得。そして政府機関に勤務して、実際の政治や外交を学んだそう。
1-2 恋人を求めたアレクサンドル
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アレクサンドル2世と言えば、恋多き男性としても有名。彼は皇太子時代にドイツへ旅行していた際に、ドイツ大公の娘に夢中になることに。この娘が後の妃となるマリア・アレクサンドロヴナ。この時アレクサンドルは20歳、マリアは14歳でした。アレクサンドルは周りの反対を押し切り結婚しましたが、すぐに別の女性に心を奪われることに。
これは34歳となったマリア・アレクサンドロヴナ。白の美しいレースがふんだんにあしらわれたドレスをまとい、こちらを見据えていますね。しかし背景が暗いためか、ちっとも幸福感が伝わってこない肖像画。それもそのはず。なぜなら結婚後8人もの子宝に恵まれた彼女でしたが、夫であるアレクサンドルには全く顧みられることがなかったそう。皇帝は別の貴族女性との間に庶子を3人も成すことに。この結果を知ると、マリアが身に着けている多くの真珠がまるで彼女の涙のように見えてくるようですね。
1-3 自分の娘よりも年下の女性との恋
アレクサンドルは50歳を目前にしてまた恋することに。しかも相手は自分の娘よりも若い公爵令嬢エカチェリーナ・ドルゴルーカヤ。ちなみに彼女の愛称はカーチャ。アレクサンドルはカーチャが当時女学生だったため卒業するまで待ち、その後4人の子どもにも恵まれ幸福な家庭生活をすることに。そして病弱だった皇后マリアが56歳でこの世を去ると、すぐにカーチャと再婚。ところが既にロシアはピョートル大帝の時代のように貴賤結婚を認めておらず、アレクサンドル2世の死後はカーチャら親子は追い払われることに。
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