日本史

明治初期の啓蒙家で慶応義塾大学の創設者「福沢諭吉」について歴女がとことん解説

4-2、諭吉、「学問のすすめ」を出版

1872年(明治5年2月)「学問のすすめ」は初編出版後、数年かけて順次刊行され、1876年(明治9年11月25日)に17編で一応完成。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という冒頭の一節は著名ですが、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案というのが最も有力な説。この本はかなり先進的な内容で、新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の知識人の気概をもって、わかりやすく書かれていたことで、当時の日本人に広く受容されたそう。近代最も著名で、最もよく売れた啓発書とされていて、当時の日本の人口約3000万人の10人に1人が買ったということ。

諭吉は他にも「文明論之概略」、「瘠我慢の説」、「福翁自伝」などを出版、ベストセラーに

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

これは名言だが、なるのどアメリカ独立宣言からだったのか。

4-3、諭吉、学制制定に関わる

明治6年(1873年)9月4日には長与専斎の紹介で文部卿だった木戸孝允と会談、「学制」の制定には諭吉が深くかかわったためか、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声が。

また諭吉は中央銀行の考え方を政府に伝え、日本銀行の設立に注力したということ。

4-4、諭吉、「時事新報」を発刊

諭吉は明治15年(1882年)3月1日、時事新報という新聞を創刊。諭吉の創刊後は慶應義塾大学とその出身者が全面協力して運営し、戦前の5大新聞の一つに。創刊時、「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言。紙面を5部に分け、日本の新聞で初めて天気予報や漫画を掲載、料理のレシピを載せるなど、非常に画期的な新聞で国権皇張、不偏不党を掲げて、わかりやすく経済重視の紙面が新鮮だったせいか、最初は1500部余りの発行部数が2年後には5,000部余りまで増加。

4-5、北里柴三郎を援助して私立伝染病研究所設立

諭吉は、北里柴三郎医学博士がドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈したため母校東大医学部と対立、明治25年(1892年)に帰国後も日本での研究などが困難になった事態を知り、北里博士の私立伝染病研究所設立を援助したということ。その後、北里博士は伝染病予防と細菌学に取り組み、明治27年(1894年)にはペストの蔓延していた香港に派遣されてペスト菌を発見したのは有名。

また諭吉は私立の総合的な学校が慶應義塾のみではなく、もっと多くの私立学校が必要だと考えて、一橋大学や早稲田大学、専修大学などの創立に関わったということ。

明治34年(1901年)2月3日、東京で脳溢血再発のため68歳で死去。
昭和59年(1989年)諭吉の肖像が一万円札の紙幣に採用。

同世代の志士たちとは違う道を進み、日本を新時代に導いた

福沢諭吉は木戸孝允や坂本龍馬らの維新の志士たちと同年代の人間。若い頃から有能で、オランダ語や英語を勉強して知識を身に付けたばかりではなく、幕府の派遣使節でアメリカやヨーロッパに渡って先進国の文明を目の当たりにしました。

しかし、志士として新しい日本を作る運動には参加せず、あくまで本を翻訳したり、本を著して一般に日本初の様々な情報を伝え、塾を開いて若者に学ばせ、門閥制度を打ち破り学問で身を立てることを推し進める教育者、啓蒙家の道に進んだ人でした。

明治の新しい時代になって政府要人にと誘われても断り、あくまで民間人として慶應義塾の他にも政府に頼らない私学創設に携わったり、新聞を発行して政府を批判したりと独立独歩を貫き、まさに天は人の上に人を作らずを地で行った生涯だったと思います。

1 2 3 4
Share:
angelica