3-5、諭吉、遣欧使節でヨーロッパ歴訪

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文久元年(1861年)に中津藩士土岐太郎八の次女お錦と結婚。その後、9人の子女に恵まれることに。
そして文久2年1月1日(1862年1月30日)には、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節に諭吉も翻訳方として随行。他にも蘭学者仲間の松木弘安、箕作秋坪が同行。
諭吉は、香港で植民地主義、帝国主義を目の当たりにし、シンガポールを経てインド洋と紅海を渡ってスエズ地峡を汽車で越えて地中海を渡ってフランスのマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問し、ロンドン万国博覧会を視察、蒸気機関車、電気機器などを見たり、樺太国境問題を討議のためロシアのペテルブルクに行き、陸軍病院で外科手術を見学。
諭吉は幕府から支給された支度金400両で英書、物理書、地理書を買い込んだそう。諭吉は書物を集めるだけでなく、病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについても調べて、日本に洋学普及が必要だと痛感。また、フランスの「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員になったり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任したそう。
諭吉が帰国して品川に到着した翌日には、英国公使館焼き討ち事件が起こるなど、文久3年(1863年)になると攘夷運動が過激になっていて、同僚たちが斬られそうになるなど、諭吉らには物騒な世の中に。
3-6、諭吉、翻訳者として新造語も作り出す
文久3年(1863年)7月、薩英戦争が勃発して幕府の仕事が多忙になり、外国奉行松平康英の屋敷で外交文書を徹夜で翻訳することに。その後、翻訳活動を進めるなかで、コピーライトを版権、スピーチを演説、ソサエティーを社会、ポスト・オフィスを飛脚場など、翻訳語を考案。
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3-7、諭吉、「西洋事情」を著す
諭吉は、文久3年12月11日(1863年1月30日)に帰国、「西洋事情」を著して啓蒙活動を開始。幕府機構の改革を唱え、アメリカ独立宣言の全文を翻訳して「西洋事情」に盛り込み、他には理化学、器械学が特に強調され、欧米の病院、銀行、郵便、徴兵制度や設備についても言及。尚、慶応2年(1866年)に初編3冊を刊行、慶応3年(1867年)再渡米後の明治元年(1868年)に外編3冊、明治3年(1870年)2編4冊を刊行。
諭吉は、元治元年(1864年)には、10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕することになり、臨時の御雇い改め幕府直参となって150俵15両で御目見以上の旗本になったということ。
3-8、諭吉、軍艦受け取りの随員として再渡米
慶応3年1月23日(1867年2月27日)、諭吉は使節主席小野友五郎と幕府の軍艦受取委員会随員として再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪問。紀州藩や仙台藩から預かった資金5000両で辞書や物理書、地図帳を買い込み、帰国後に「西洋旅案内」を著して、そのなかで「災難請合の事、インスアランス」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の災難請合、日本で最初に近代保険制度について紹介。
3-9、諭吉、慶應義塾を本格的に始動
慶応4年(1868年)、諭吉は蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念。三田藩、仙台藩、紀州藩、中津藩、越後長岡藩と懇意になって藩士を大量に受け入れ、運営資金の支えにも。また塾生からきっちりと毎月講義料をとったのは私塾として初のこと、諭吉としては独立独歩の塾の経営を重んじた結果なのだが、その時代としては塾で儲けるなど論外として、勝海舟などにも皮肉を言われたということ。
諭吉は、江戸が無血開城となり、官軍と彰義隊の合戦が起こるなか、F・ウェイランド「経済学原論」の講義を続け、その後、新政府から出仕を求められたが辞退、以後も官職に就かず、翌年には帯刀をやめて平民に。
4-1、明治後の諭吉
維新後は、九鬼隆一、白根専一、濱尾新、渡辺洪基ら教え子を新政府の文部官吏として送り込んだが、諭吉自身は政治家らとの付き合いはあったものの、慶應義塾の運営と著書や新聞を通じての啓蒙活動に専念。
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