日本史

明治初期の啓蒙家で慶応義塾大学の創設者「福沢諭吉」について歴女がとことん解説

2-4、諭吉、横浜で看板すら読めずショックを受ける

この頃は大阪の適塾が蘭学の本場で、諭吉は江戸へ蘭学を教えに行くつもりで意気揚々と江戸へ下ったのですが、安政6年(1859年)、諭吉は日米修好通商条約で外国人居留地となった横浜へ行ってみると、横浜の通用語は英語かフランス語で、諭吉が今まで学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めなかったのでした。

それ以来諭吉は英蘭辞書などを頼りに、ほぼ独学で英語の勉強を開始。諭吉はリアルに横浜で実体験したけれど、すでに蘭学者の読んでいるオランダ語の医学や兵学などの本は、たいていドイツ語の翻訳であったので、緒方洪庵先生もこれからはオランダ語よりも英語やドイツ語を学んだ方がいいと認識していたということで、この頃は日本における洋学の蘭学から英学への分岐点だったよう。
諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだり、蕃書調所へ入所してみるも英蘭辞書が持ち出し禁止で退所。適塾の先輩の村田蔵六(大村益次郎)に相談してみたが、大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていたので、結局は蕃書調所の原田敬策と英学を習得していくことに。

3-1、諭吉、咸臨丸で渡米

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By 鈴藤勇次郎 (1826 – 1868) – http://www.usajapan.org/events-forums.html, パブリック・ドメイン, Link

安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することになり、その護衛として咸臨丸を派遣することが岩瀬忠震の建言で決定。

万延元年1月19日(1860年2月10日)、諭吉は咸臨丸の艦長軍艦奉行木村摂津守の従者として渡米、同年5月5日(1860年6月23日)に帰国。
諭吉は、このときの経験について、ペリー来航で蒸気船を初めて目にしてわずか7年後、日本人の手によって太平洋を横断した咸臨丸航海は、世界に誇るべきことであると述べたということ。

尚、咸臨丸の実質的な指揮官は勝海舟でしたが、諭吉とは親しくなれず晩年まで険悪な関係だったが、木村摂津守とは晩年になっても親密な交際を続けたということ。尚、帰国後に諭吉は木村の推薦で、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕、また戊辰戦争後、芝の新銭座にあった有馬家中津屋敷を慶應義塾の土地にと用意したのも木村だそう。

3-2、諭吉、アメリカでカルチャーショックを受ける

渡米した諭吉は本で読んだ技術的なことはさておき、アメリカとの文化の違いに関して色々と衝撃を受けたそう。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンは、日本で江戸幕府を開いた徳川家康という感じで、ワシントンの子孫は代々大統領だと思っていたらしく、その後の大統領がワシントンの子孫ではないことに加えて、アメリカ人にワシントンの子孫がその後どうしているか聞いても誰も知らず、無関心なことにびっくりしたということ。

当時の日本では、ナポレオンはフランス革命の完成者と考えられていて、ワシントンもアメリカ独立の父として、西郷隆盛などの維新の志士たちも、大奈翁とか、ワシントン殿と敬称を付けて呼び、尊敬していたということです(リンカーンはまだ歴史的な評価が出ていなかったんです)。

3-3、諭吉、漢字と英語の辞典を初出版

諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに「ウェブスター大辞書」の省略版や広東語、英語対訳の単語集「華英通語」をアメリカで購入し、英語にカタカナで読みをつけて広東語の漢字の横に日本語の訳語を付記した「増訂華英通語」を初出版。このなかでは、「V」の発音を日本語では「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」、または「ワ」に濁点をつけて「ヷ」を使いましたが、この後「ウ」に濁点の「ヴ」が一般的なものに。

3-4、諭吉、英語で講義を行うように

諭吉は帰国後も鉄砲洲で講義を再開。その内容はオランダ語ではなく英語に切り替え、蘭学塾から英学塾へ転換。また幕府の外国方に雇われて公文書を翻訳するように。この頃は外国から日本への外交文書は、日本語をオランダ語に直して英語に翻訳することになっていたため、英語とオランダ語の対比に都合がよく英語の勉強になったということ。

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