日本史明治歴史

明治初期の啓蒙家で慶応義塾大学の創設者「福沢諭吉」について歴女がとことんわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は福沢諭吉を取り上げるぞ。一万円札でお馴染みの人だが、立派な教育者だったんだよな。

その辺のところを蘭学者繋がりで調べてくれたあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福沢諭吉について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福沢諭吉は大阪生まれ

諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で、中津藩の下級藩士福澤百助と妻於順の次男(末子)として誕生。

諭吉という名は、儒学者だった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に生まれたのを記念して付けたそう。父百助は、鴻池や加島屋などの大坂商人を相手に藩の借財を扱う仕事だったが、藩儒の野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒教に通じた学者。百助の後輩に江州水口藩の藩儒、中村栗園がいて、栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見たほどの深い親交が。
その後父百助は中小姓格(厩方)の役人になったものの、身分格差の激しい中津藩で名をなすこともできず死去。

諭吉はこのために「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と「福翁自伝」で述べるなど封建制度に疑問を感じていたが、兄の三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言だったそう。諭吉は母と兄姉と一緒に暮らしていたが、幼時に叔父中村術平の養子になり中村姓に、しかし後に福沢姓に復帰。

1-2、諭吉の子供時代

諭吉は天保6年(1836年)、1歳で父の死去により大坂から中津(大分県中津市)に帰って育ちました。しかし諭吉は親兄弟や一般的な武家の子弟とは異なって、孝悌忠信や神仏を敬わず、お札を踏んだり、神社で悪戯などをする悪童だったそう

5歳頃、藩士服部五郎兵衛に漢学と一刀流を習い、読書嫌いだったが、14、5歳になって勉学を始めて実力をつけ、様々な漢書を読み漁って漢籍を修め、18歳のときに、兄の三之助も師事した野本真城、白石照山の塾晩香堂へ。「左伝」が得意で15巻もあるのに11度も読み返して面白いところは暗記、先輩を凌いでいたということ。また立身新流の居合術を習得。 ということで、諭吉の学問の基本、原点は儒学だといわれています。

1-3、諭吉、長崎へ遊学

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黒船来航で沿岸防衛の必要で砲術の需要が高まったことで、兄に「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが読んでみる気はないか」と言われたのがきっかけで、諭吉は安政元年(1854年)、19歳で長崎遊学して蘭学を学ぶように。

まず長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に寄宿、オランダ通詞の家に通ってオランダ語を学んだということ。山本家には蛮社の獄の際、高島秋帆から没収した砲術関係の書物が保管されているなどで、諭吉は山本所蔵の砲術関係の書籍をお金を払って借りたり写したりしているうちに、鉄砲の設計図を書けるように。

この役人の山本家というのは、「出島のオランダ屋敷に行きたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせろ」という客が多く、そのなかには薩摩藩の松崎鼎甫、村田蔵六(大村益次郎)らも。そして彼らの世話をするのは諭吉の仕事だったということ。
諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得、縁を頼りに勉学を続けたのでした。

2-1、諭吉、適塾へ入塾

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安政2年(1855年)、諭吉は中津へ戻るように言われたが、中津へ戻らずに大坂を経て江戸へ行く計画を実行。そして大坂で父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄に、江戸へは行かずに大坂で蘭学を学ぶよう説得され、大坂の中津藩蔵屋敷に居候し、蘭学者緒方洪庵の適塾で学ぶことに。

ここで諭吉は腸チフスを患い、洪庵は諭吉を可愛がるあまりに、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む(医者は自分の子供や身内の診療は客観的な処置が出来ないので嫌がるものだが、諭吉に対してもそうだったということ)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力回復後に一時中津へ帰国。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶが、同年、兄が亡くなって福澤家の家督を継ぐことに。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済、母以外の親類の反対を押し切って大坂の適塾で学び、学費は、築城学の教科書を翻訳するという名目で、適塾の住み込み学生に。諭吉は生涯、緒方洪庵先生の恩を忘れなかったということ。

2-2、諭吉、適塾の塾頭に

諭吉は安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となったが、後任に長与専斎を指名。適塾を主宰した緒方洪庵は蘭方医で、適塾は診療所が附設してある医学塾、先輩である後の大村益次郎でさえ最初は蘭方医であったのですが、洪庵先生は塾生に医師になるのを強要しない方針で、諭吉も血を見るのが苦手で最初から医師になるつもりはなく、オランダ語の原書を読んだり、筆写したり、化学実験や簡単な理科実験などをしていたということ。

2-3、諭吉、江戸に出る

幕末の時勢の中、安政5年(1858年)、諭吉も江戸の中津藩邸で開かれていた蘭学塾の講師となるため、古川正雄(岡本周吉、のちに古川節蔵)と原田磊蔵を伴って江戸へ。まもなく足立寛、村田蔵六(大村益次郎)の塾鳩居堂から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介らが入塾。

諭吉の蘭学塾「一小家塾」は、のちの学校法人慶應義塾の基礎となり、この安政5年(1858年)が慶應義塾創立の年に

諭吉の中津藩の殿様奥平家は、蘭癖大名で薩摩藩島津重豪の子孫のせいか、嘉永3年(1850年)頃から藩士たちは佐久間象山に洋式砲術の教授を受けていたので、諭吉は佐久間象山の蔵書を読んで講義に生かしたということ。適塾の塾頭は、各藩から引く手あまただったので、諭吉も出世の道が開けたんですね。

諭吉の住まいは中津藩中屋敷のなかに与えられ、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給。それに有名な幕府お抱えの蘭学医の桂川家の近所だったため、桂川甫周、神田孝平、箕作秋坪、柳川春三、大槻磐渓、宇都宮三郎、村田蔵六(大村益次郎)ら、そうそうたる学者らと信頼関係を結ぶことができたそう。

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