今回は福沢諭吉を取り上げるぞ。一万円札でお馴染みの人ですが、立派な教育者だったんですね。

その辺のところを蘭学者繋がりで調べてくれたあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福沢諭吉について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福沢諭吉は大阪生まれ

諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で、中津藩の下級藩士福澤百助と妻於順の次男(末子)として誕生。

諭吉という名は、儒学者だった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に生まれたのを記念して付けたそう。父百助は、鴻池や加島屋などの大坂商人を相手に藩の借財を扱う仕事だったが、藩儒の野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒教に通じた学者。百助の後輩に江州水口藩の藩儒、中村栗園がいて、栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見たほどの深い親交が。
その後父百助は中小姓格(厩方)の役人になったものの、身分格差の激しい中津藩で名をなすこともできず死去。

諭吉はこのために「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と「福翁自伝」で述べるなど封建制度に疑問を感じていたが、兄の三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言だったそう。諭吉は母と兄姉と一緒に暮らしていたが、幼時に叔父中村術平の養子になり中村姓に、しかし後に福沢姓に復帰。

1-2、諭吉の子供時代

諭吉は天保6年(1836年)、1歳で父の死去により大坂から中津(大分県中津市)に帰って育ちました。しかし諭吉は親兄弟や一般的な武家の子弟とは異なって、孝悌忠信や神仏を敬わず、お札を踏んだり、神社で悪戯などをする悪童だったそう

5歳頃、藩士服部五郎兵衛に漢学と一刀流を習い、読書嫌いだったが、14、5歳になって勉学を始めて実力をつけ、様々な漢書を読み漁って漢籍を修め、18歳のときに、兄の三之助も師事した野本真城、白石照山の塾晩香堂へ。「左伝」が得意で15巻もあるのに11度も読み返して面白いところは暗記、先輩を凌いでいたということ。また立身新流の居合術を習得。 ということで、諭吉の学問の基本、原点は儒学だといわれています。

1-3、諭吉、長崎へ遊学

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黒船来航で沿岸防衛の必要で砲術の需要が高まったことで、兄に「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが読んでみる気はないか」と言われたのがきっかけで、諭吉は安政元年(1854年)、19歳で長崎遊学して蘭学を学ぶように。

まず長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に寄宿、オランダ通詞の家に通ってオランダ語を学んだということ。山本家には蛮社の獄の際、高島秋帆から没収した砲術関係の書物が保管されているなどで、諭吉は山本所蔵の砲術関係の書籍をお金を払って借りたり写したりしているうちに、鉄砲の設計図を書けるように。

この役人の山本家というのは、「出島のオランダ屋敷に行きたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせろ」という客が多く、そのなかには薩摩藩の松崎鼎甫、村田蔵六(大村益次郎)らも。そして彼らの世話をするのは諭吉の仕事だったということ。
諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得、縁を頼りに勉学を続けたのでした。

2-1、諭吉、適塾へ入塾

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安政2年(1855年)、諭吉は中津へ戻るように言われたが、中津へ戻らずに大坂を経て江戸へ行く計画を実行。そして大坂で父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄に、江戸へは行かずに大坂で蘭学を学ぶよう説得され、大坂の中津藩蔵屋敷に居候し、蘭学者緒方洪庵の適塾で学ぶことに。

ここで諭吉は腸チフスを患い、洪庵は諭吉を可愛がるあまりに、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む(医者は自分の子供や身内の診療は客観的な処置が出来ないので嫌がるものだが、諭吉に対してもそうだったということ)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力回復後に一時中津へ帰国。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶが、同年、兄が亡くなって福澤家の家督を継ぐことに。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済、母以外の親類の反対を押し切って大坂の適塾で学び、学費は、築城学の教科書を翻訳するという名目で、適塾の住み込み学生に。諭吉は生涯、緒方洪庵先生の恩を忘れなかったということ。

2-2、諭吉、適塾の塾頭に

諭吉は安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となったが、後任に長与専斎を指名。適塾を主宰した緒方洪庵は蘭方医で、適塾は診療所が附設してある医学塾、先輩である後の大村益次郎でさえ最初は蘭方医であったのですが、洪庵先生は塾生に医師になるのを強要しない方針で、諭吉も血を見るのが苦手で最初から医師になるつもりはなく、オランダ語の原書を読んだり、筆写したり、化学実験や簡単な理科実験などをしていたということ。

2-3、諭吉、江戸に出る

幕末の時勢の中、安政5年(1858年)、諭吉も江戸の中津藩邸で開かれていた蘭学塾の講師となるため、古川正雄(岡本周吉、のちに古川節蔵)と原田磊蔵を伴って江戸へ。まもなく足立寛、村田蔵六(大村益次郎)の塾鳩居堂から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介らが入塾。

諭吉の蘭学塾「一小家塾」は、のちの学校法人慶應義塾の基礎となり、この安政5年(1858年)が慶應義塾創立の年に

諭吉の中津藩の殿様奥平家は、蘭癖大名で薩摩藩島津重豪の子孫のせいか、嘉永3年(1850年)頃から藩士たちは佐久間象山に洋式砲術の教授を受けていたので、諭吉は佐久間象山の蔵書を読んで講義に生かしたということ。適塾の塾頭は、各藩から引く手あまただったので、諭吉も出世の道が開けたんですね。

諭吉の住まいは中津藩中屋敷のなかに与えられ、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給。それに有名な幕府お抱えの蘭学医の桂川家の近所だったため、桂川甫周、神田孝平、箕作秋坪、柳川春三、大槻磐渓、宇都宮三郎、村田蔵六(大村益次郎)ら、そうそうたる学者らと信頼関係を結ぶことができたそう。

\次のページで「2-4、諭吉、横浜で看板すら読めずショックを受ける」を解説!/

2-4、諭吉、横浜で看板すら読めずショックを受ける

この頃は大阪の適塾が蘭学の本場で、諭吉は江戸へ蘭学を教えに行くつもりで意気揚々と江戸へ下ったのですが、安政6年(1859年)、諭吉は日米修好通商条約で外国人居留地となった横浜へ行ってみると、横浜の通用語は英語かフランス語で、諭吉が今まで学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めなかったのでした。

それ以来諭吉は英蘭辞書などを頼りに、ほぼ独学で英語の勉強を開始。諭吉はリアルに横浜で実体験したけれど、すでに蘭学者の読んでいるオランダ語の医学や兵学などの本は、たいていドイツ語の翻訳であったので、緒方洪庵先生もこれからはオランダ語よりも英語やドイツ語を学んだ方がいいと認識していたということで、この頃は日本における洋学の蘭学から英学への分岐点だったよう。
諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだり、蕃書調所へ入所してみるも英蘭辞書が持ち出し禁止で退所。適塾の先輩の村田蔵六(大村益次郎)に相談してみたが、大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていたので、結局は蕃書調所の原田敬策と英学を習得していくことに。

3-1、諭吉、咸臨丸で渡米

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By 鈴藤勇次郎 (1826 - 1868) - http://www.usajapan.org/events-forums.html, パブリック・ドメイン, Link

安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することになり、その護衛として咸臨丸を派遣することが岩瀬忠震の建言で決定。

万延元年1月19日(1860年2月10日)、諭吉は咸臨丸の艦長軍艦奉行木村摂津守の従者として渡米、同年5月5日(1860年6月23日)に帰国。
諭吉は、このときの経験について、ペリー来航で蒸気船を初めて目にしてわずか7年後、日本人の手によって太平洋を横断した咸臨丸航海は、世界に誇るべきことであると述べたということ。

尚、咸臨丸の実質的な指揮官は勝海舟でしたが、諭吉とは親しくなれず晩年まで険悪な関係だったが、木村摂津守とは晩年になっても親密な交際を続けたということ。尚、帰国後に諭吉は木村の推薦で、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕、また戊辰戦争後、芝の新銭座にあった有馬家中津屋敷を慶應義塾の土地にと用意したのも木村だそう。

3-2、諭吉、アメリカでカルチャーショックを受ける

渡米した諭吉は本で読んだ技術的なことはさておき、アメリカとの文化の違いに関して色々と衝撃を受けたそう。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンは、日本で江戸幕府を開いた徳川家康という感じで、ワシントンの子孫は代々大統領だと思っていたらしく、その後の大統領がワシントンの子孫ではないことに加えて、アメリカ人にワシントンの子孫がその後どうしているか聞いても誰も知らず、無関心なことにびっくりしたということ。

当時の日本では、ナポレオンはフランス革命の完成者と考えられていて、ワシントンもアメリカ独立の父として、西郷隆盛などの維新の志士たちも、大奈翁とか、ワシントン殿と敬称を付けて呼び、尊敬していたということです(リンカーンはまだ歴史的な評価が出ていなかったんです)。

3-3、諭吉、漢字と英語の辞典を初出版

諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに「ウェブスター大辞書」の省略版や広東語、英語対訳の単語集「華英通語」をアメリカで購入し、英語にカタカナで読みをつけて広東語の漢字の横に日本語の訳語を付記した「増訂華英通語」を初出版。このなかでは、「V」の発音を日本語では「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」、または「ワ」に濁点をつけて「ヷ」を使いましたが、この後「ウ」に濁点の「ヴ」が一般的なものに。

3-4、諭吉、英語で講義を行うように

諭吉は帰国後も鉄砲洲で講義を再開。その内容はオランダ語ではなく英語に切り替え、蘭学塾から英学塾へ転換。また幕府の外国方に雇われて公文書を翻訳するように。この頃は外国から日本への外交文書は、日本語をオランダ語に直して英語に翻訳することになっていたため、英語とオランダ語の対比に都合がよく英語の勉強になったということ。

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3-5、諭吉、遣欧使節でヨーロッパ歴訪

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文久元年(1861年)に中津藩士土岐太郎八の次女お錦と結婚。その後、9人の子女に恵まれることに。

そして文久2年1月1日(1862年1月30日)には、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節に諭吉も翻訳方として随行。他にも蘭学者仲間の松木弘安、箕作秋坪が同行。
諭吉は、香港で植民地主義、帝国主義を目の当たりにし、シンガポールを経てインド洋と紅海を渡ってスエズ地峡を汽車で越えて地中海を渡ってフランスのマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問し、ロンドン万国博覧会を視察、蒸気機関車、電気機器などを見たり、樺太国境問題を討議のためロシアのペテルブルクに行き、陸軍病院で外科手術を見学。

諭吉は幕府から支給された支度金400両で英書、物理書、地理書を買い込んだそう。諭吉は書物を集めるだけでなく、病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについても調べて、日本に洋学普及が必要だと痛感。また、フランスの「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員になったり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任したそう。

諭吉が帰国して品川に到着した翌日には、英国公使館焼き討ち事件が起こるなど、文久3年(1863年)になると攘夷運動が過激になっていて、同僚たちが斬られそうになるなど、諭吉らには物騒な世の中に。

3-6、諭吉、翻訳者として新造語も作り出す

文久3年(1863年)7月、薩英戦争が勃発して幕府の仕事が多忙になり、外国奉行松平康英の屋敷で外交文書を徹夜で翻訳することに。その後、翻訳活動を進めるなかで、コピーライトを版権、スピーチを演説、ソサエティーを社会、ポスト・オフィスを飛脚場など、翻訳語を考案。

3-7、諭吉、「西洋事情」を著す

諭吉は、文久3年12月11日(1863年1月30日)に帰国、「西洋事情」を著して啓蒙活動を開始。幕府機構の改革を唱え、アメリカ独立宣言の全文を翻訳して「西洋事情」に盛り込み、他には理化学、器械学が特に強調され、欧米の病院、銀行、郵便、徴兵制度や設備についても言及。尚、慶応2年(1866年)に初編3冊を刊行、慶応3年(1867年)再渡米後の明治元年(1868年)に外編3冊、明治3年(1870年)2編4冊を刊行。

諭吉は、元治元年(1864年)には、10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕することになり、臨時の御雇い改め幕府直参となって150俵15両で御目見以上の旗本になったということ。

3-8、諭吉、軍艦受け取りの随員として再渡米

慶応3年1月23日(1867年2月27日)、諭吉は使節主席小野友五郎と幕府の軍艦受取委員会随員として再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪問。紀州藩や仙台藩から預かった資金5000両で辞書や物理書、地図帳を買い込み、帰国後に「西洋旅案内」を著して、そのなかで「災難請合の事、インスアランス」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の災難請合、日本で最初に近代保険制度について紹介

3-9、諭吉、慶應義塾を本格的に始動

慶応4年(1868年)、諭吉は蘭学塾を慶應義塾と名づけ、教育活動に専念。三田藩、仙台藩、紀州藩、中津藩、越後長岡藩と懇意になって藩士を大量に受け入れ、運営資金の支えにも。また塾生からきっちりと毎月講義料をとったのは私塾として初のこと、諭吉としては独立独歩の塾の経営を重んじた結果なのだが、その時代としては塾で儲けるなど論外として、勝海舟などにも皮肉を言われたということ。

諭吉は、江戸が無血開城となり、官軍と彰義隊の合戦が起こるなか、F・ウェイランド「経済学原論」の講義を続け、その後、新政府から出仕を求められたが辞退、以後も官職に就かず、翌年には帯刀をやめて平民に。

4-1、明治後の諭吉

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By 福沢研究センター - [1], パブリック・ドメイン, Link

維新後は、九鬼隆一、白根専一、濱尾新、渡辺洪基ら教え子を新政府の文部官吏として送り込んだが、諭吉自身は政治家らとの付き合いはあったものの、慶應義塾の運営と著書や新聞を通じての啓蒙活動に専念。

\次のページで「4-2、諭吉、「学問のすすめ」を出版」を解説!/

4-2、諭吉、「学問のすすめ」を出版

1872年(明治5年2月)「学問のすすめ」は初編出版後、数年かけて順次刊行され、1876年(明治9年11月25日)に17編で一応完成。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という冒頭の一節は著名ですが、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案というのが最も有力な説。この本はかなり先進的な内容で、新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を自覚する明治初期の知識人の気概をもって、わかりやすく書かれていたことで、当時の日本人に広く受容されたそう。近代最も著名で、最もよく売れた啓発書とされていて、当時の日本の人口約3000万人の10人に1人が買ったということ。

諭吉は他にも「文明論之概略」、「瘠我慢の説」、「福翁自伝」などを出版、ベストセラーに

4-3、諭吉、学制制定に関わる

明治6年(1873年)9月4日には長与専斎の紹介で文部卿だった木戸孝允と会談、「学制」の制定には諭吉が深くかかわったためか、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」の声が。

また諭吉は中央銀行の考え方を政府に伝え、日本銀行の設立に注力したということ。

4-4、諭吉、「時事新報」を発刊

諭吉は明治15年(1882年)3月1日、時事新報という新聞を創刊。諭吉の創刊後は慶應義塾大学とその出身者が全面協力して運営し、戦前の5大新聞の一つに。創刊時、「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言。紙面を5部に分け、日本の新聞で初めて天気予報や漫画を掲載、料理のレシピを載せるなど、非常に画期的な新聞で国権皇張、不偏不党を掲げて、わかりやすく経済重視の紙面が新鮮だったせいか、最初は1500部余りの発行部数が2年後には5,000部余りまで増加。

4-5、北里柴三郎を援助して私立伝染病研究所設立

諭吉は、北里柴三郎医学博士がドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈したため母校東大医学部と対立、明治25年(1892年)に帰国後も日本での研究などが困難になった事態を知り、北里博士の私立伝染病研究所設立を援助したということ。その後、北里博士は伝染病予防と細菌学に取り組み、明治27年(1894年)にはペストの蔓延していた香港に派遣されてペスト菌を発見したのは有名。

また諭吉は私立の総合的な学校が慶應義塾のみではなく、もっと多くの私立学校が必要だと考えて、一橋大学や早稲田大学、専修大学などの創立に関わったということ。

明治34年(1901年)2月3日、東京で脳溢血再発のため68歳で死去。
昭和59年(1989年)諭吉の肖像が一万円札の紙幣に採用。

同世代の志士たちとは違う道を進み、日本を新時代に導いた

福沢諭吉は木戸孝允や坂本龍馬らの維新の志士たちと同年代の人間。若い頃から有能で、オランダ語や英語を勉強して知識を身に付けたばかりではなく、幕府の派遣使節でアメリカやヨーロッパに渡って先進国の文明を目の当たりにしました。

しかし、志士として新しい日本を作る運動には参加せず、あくまで本を翻訳したり、本を著して一般に日本初の様々な情報を伝え、塾を開いて若者に学ばせ、門閥制度を打ち破り学問で身を立てることを推し進める教育者、啓蒙家の道に進んだ人でした。

明治の新しい時代になって政府要人にと誘われても断り、あくまで民間人として慶應義塾の他にも政府に頼らない私学創設に携わったり、新聞を発行して政府を批判したりと独立独歩を貫き、まさに天は人の上に人を作らずを地で行った生涯だったと思います。

" /> 明治初期の啓蒙家で慶応義塾大学の創設者「福沢諭吉」について歴女がとことんわかりやすく解説 – Study-Z
日本史明治歴史

明治初期の啓蒙家で慶応義塾大学の創設者「福沢諭吉」について歴女がとことんわかりやすく解説

今回は福沢諭吉を取り上げるぞ。一万円札でお馴染みの人ですが、立派な教育者だったんですね。

その辺のところを蘭学者繋がりで調べてくれたあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福沢諭吉について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福沢諭吉は大阪生まれ

諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で、中津藩の下級藩士福澤百助と妻於順の次男(末子)として誕生。

諭吉という名は、儒学者だった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に生まれたのを記念して付けたそう。父百助は、鴻池や加島屋などの大坂商人を相手に藩の借財を扱う仕事だったが、藩儒の野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒教に通じた学者。百助の後輩に江州水口藩の藩儒、中村栗園がいて、栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見たほどの深い親交が。
その後父百助は中小姓格(厩方)の役人になったものの、身分格差の激しい中津藩で名をなすこともできず死去。

諭吉はこのために「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と「福翁自伝」で述べるなど封建制度に疑問を感じていたが、兄の三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言だったそう。諭吉は母と兄姉と一緒に暮らしていたが、幼時に叔父中村術平の養子になり中村姓に、しかし後に福沢姓に復帰。

1-2、諭吉の子供時代

諭吉は天保6年(1836年)、1歳で父の死去により大坂から中津(大分県中津市)に帰って育ちました。しかし諭吉は親兄弟や一般的な武家の子弟とは異なって、孝悌忠信や神仏を敬わず、お札を踏んだり、神社で悪戯などをする悪童だったそう

5歳頃、藩士服部五郎兵衛に漢学と一刀流を習い、読書嫌いだったが、14、5歳になって勉学を始めて実力をつけ、様々な漢書を読み漁って漢籍を修め、18歳のときに、兄の三之助も師事した野本真城、白石照山の塾晩香堂へ。「左伝」が得意で15巻もあるのに11度も読み返して面白いところは暗記、先輩を凌いでいたということ。また立身新流の居合術を習得。 ということで、諭吉の学問の基本、原点は儒学だといわれています。

1-3、諭吉、長崎へ遊学

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黒船来航で沿岸防衛の必要で砲術の需要が高まったことで、兄に「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが読んでみる気はないか」と言われたのがきっかけで、諭吉は安政元年(1854年)、19歳で長崎遊学して蘭学を学ぶように。

まず長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に寄宿、オランダ通詞の家に通ってオランダ語を学んだということ。山本家には蛮社の獄の際、高島秋帆から没収した砲術関係の書物が保管されているなどで、諭吉は山本所蔵の砲術関係の書籍をお金を払って借りたり写したりしているうちに、鉄砲の設計図を書けるように。

この役人の山本家というのは、「出島のオランダ屋敷に行きたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせろ」という客が多く、そのなかには薩摩藩の松崎鼎甫、村田蔵六(大村益次郎)らも。そして彼らの世話をするのは諭吉の仕事だったということ。
諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得、縁を頼りに勉学を続けたのでした。

2-1、諭吉、適塾へ入塾

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安政2年(1855年)、諭吉は中津へ戻るように言われたが、中津へ戻らずに大坂を経て江戸へ行く計画を実行。そして大坂で父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄に、江戸へは行かずに大坂で蘭学を学ぶよう説得され、大坂の中津藩蔵屋敷に居候し、蘭学者緒方洪庵の適塾で学ぶことに。

ここで諭吉は腸チフスを患い、洪庵は諭吉を可愛がるあまりに、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む(医者は自分の子供や身内の診療は客観的な処置が出来ないので嫌がるものだが、諭吉に対してもそうだったということ)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力回復後に一時中津へ帰国。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶが、同年、兄が亡くなって福澤家の家督を継ぐことに。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済、母以外の親類の反対を押し切って大坂の適塾で学び、学費は、築城学の教科書を翻訳するという名目で、適塾の住み込み学生に。諭吉は生涯、緒方洪庵先生の恩を忘れなかったということ。

2-2、諭吉、適塾の塾頭に

諭吉は安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となったが、後任に長与専斎を指名。適塾を主宰した緒方洪庵は蘭方医で、適塾は診療所が附設してある医学塾、先輩である後の大村益次郎でさえ最初は蘭方医であったのですが、洪庵先生は塾生に医師になるのを強要しない方針で、諭吉も血を見るのが苦手で最初から医師になるつもりはなく、オランダ語の原書を読んだり、筆写したり、化学実験や簡単な理科実験などをしていたということ。

2-3、諭吉、江戸に出る

幕末の時勢の中、安政5年(1858年)、諭吉も江戸の中津藩邸で開かれていた蘭学塾の講師となるため、古川正雄(岡本周吉、のちに古川節蔵)と原田磊蔵を伴って江戸へ。まもなく足立寛、村田蔵六(大村益次郎)の塾鳩居堂から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介らが入塾。

諭吉の蘭学塾「一小家塾」は、のちの学校法人慶應義塾の基礎となり、この安政5年(1858年)が慶應義塾創立の年に

諭吉の中津藩の殿様奥平家は、蘭癖大名で薩摩藩島津重豪の子孫のせいか、嘉永3年(1850年)頃から藩士たちは佐久間象山に洋式砲術の教授を受けていたので、諭吉は佐久間象山の蔵書を読んで講義に生かしたということ。適塾の塾頭は、各藩から引く手あまただったので、諭吉も出世の道が開けたんですね。

諭吉の住まいは中津藩中屋敷のなかに与えられ、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給。それに有名な幕府お抱えの蘭学医の桂川家の近所だったため、桂川甫周、神田孝平、箕作秋坪、柳川春三、大槻磐渓、宇都宮三郎、村田蔵六(大村益次郎)ら、そうそうたる学者らと信頼関係を結ぶことができたそう。

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