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イギリスを繁栄へと導いた「アン女王」ステュアート朝最後の君主の生涯をヨーロッパ史大好き歴女が5分でわかりやすく解説!

4-2 次第に関係が悪化する2人

幼馴染だったサラとの関係は1708年頃から次第に悪化していくことになりました。その頃にサラは、女王に対して宛てた手紙で女王がレズビアンの傾向があるなどと批判。しかしスペイン継承戦争で彼女の夫のジョンが活躍していたため、女王はサラに手出しができない状況に。サラは夫の代弁者でもあり、アン女王にとっては側近。サラは女王に戦争の推進を主張しましたが、アンは次第に和平を目指していくことに。こうして両者は次第に対立していき、1710年に女王はサラを宮廷を追放することに。

4-3 ユトレヒト条約にて終戦

1713年から14年にかけて、ついにスペイン継承戦争が終わり、ユトレヒト条約が締結。この条約においてイギリスは、スペインからジブラルタル・ミノルカ島を、フランスからニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾を手に入れました。そしてイギリスは、当時最強と謳われていたフランス軍に圧勝したことで、一気に一流の軍隊を備えた大国として認知されることに。スペイン継承戦争は表向きではハプスブルクの勝利と語られていますが、イギリスが多くの領土を手にして実益を取ったことが分かりますね。またユトレヒト条約締結の翌年に付帯事項として、イギリスのアシエントが認められることに。アシエントとは、奴隷供給契約。これによってイギリスは毎年1000人にも及ぶアフリカからの黒人奴隷をスペインのアメリカ植民地へ送ることが可能に。こうしてイギリスには多くの富がもたらされるようになるのでした。

4-3 現在のウィンザー朝の始祖となるハノーヴァー家

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By James Thornhill (1675-1734) – P.M. History. Januar 2006, S. 24., パブリック・ドメイン, Link

アン女王は1714年に息を引き取りました。彼女はかなりの肥満であったことから、棺は正方形だったとも。とうとうアン女王は子宝に恵まれることなくこの世を去りました。しかしアンは次の後継者を決めていました。後継者にはジェームズ1世の孫娘ゾフィアもしくはその子どもを指名。ところが肝心のゾフィアは、アンが死去する前に亡くなっていました。そこで彼女の長男のゲオルクがジョージ1世として即位することに。このゲオルク改め、ジョージ1世が開いたハノーヴァー朝が今日まで続くウィンザー朝の始祖。この血脈は脈々と続いているのです。

イギリスに繁栄をもたらしたステュアート朝最後の女王

アンは姉夫婦に子供がいなかったため37歳の時に女王となりました。アンは夫婦仲が良かったものの流産と死産を繰り返すことに。そしてやっと授かっても子供たちは成人するまで長生きできなかったことを考えると、アンの悲しみが伝わってきますね。

そして即位してすぐに始まったスペイン継承戦争。この戦争においてアンは、幼馴染の夫を連合軍の総司令官に大抜擢することに。そしてジョン・チャーチルは彼女の起用に報いる結果を残しました。そしてユトレヒト条約では、イギリスに多くの領土をもたらし、アシエントによって奴隷を供給することができるようになり繁栄の礎を築くことに。

そして1714年にアンはこの世を去りました。アンには後継者がいなかったため、ここでステュアート朝が断朝することに。アンの死後、血縁の遠いドイツのハノーヴァー家が登場しイギリス王室として王位に就くことに。このハノーヴァー朝は、脈々と続き、現在のウィンザー朝の始祖とされています。

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