今回はイギリスのアン女王についてです。

アン女王はステュアート朝最後の女王として君臨した女王です。彼女が即位する直前には世界ではスペイン国王カルロス2世の死によってスペイン継承戦争が勃発していたんです。イギリスはオーストリア、オランダと共にフランス、スペインと戦うことになったんです。

それじゃあそんなアン女王の生涯を歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ各国の王室に興味があり、最近はイギリス王室に関する本を愛読中。今回は、ステュアート朝最後の君主であるアン女王の生涯や彼女にまつわるエピソードを紹介していく。

1 アン女王のプライベート

image by iStockphoto

17世紀にジェイムズ2世の次女として生まれたアン。アンはデンマーク王の次男と結婚していましたが、姉夫婦に子供が生まれそうにないことから、早くからイギリスで暮らしていたそう。そんな彼女は一体どんな人物だったのでしょうか。ここでは彼女の幼少期のエピソードや、アンの結婚などについて紹介していきます。

1-1 アンの誕生

アン女王はジェイムズ2世の次女として1665年に誕生。アンには姉のメアリがいました。(彼女が後にオランダへ嫁ぎ夫のウィリアム3世とイギリスを共同統治していくことになる)アンは幼い頃から体が弱く、天然痘にかかってしまいます。また目の治療では祖母のいるフランスへ数年間滞在。そのためフランス語は堪能だったそう。

1-2 デンマーク王の次男ゲオルクと結婚

アンが17歳の時には35歳の独身だったマルグレイブ卿に目を付けられることに。実際にアンは彼から口説かれ、熱心なラブレターまで送られる始末。そのためマルグレイブ卿は1682年に宮廷の出入り禁止となりました。その後アンはデンマーク王の次男、ゲオルクと結婚することに。彼はアンよりも10歳以上も年上の男性でした。しかし年の差がネックになることなく、二人は夫婦円満。

1-3 子どもに恵まれなかったアン

Queen Anne and William, Duke of Gloucester by studio of Sir Godfrey Kneller.jpg
By 作者不明 - Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, Link

アンは一説によると、妊娠を14回とも18回ともしたと言われています。妊娠の回数があいまいなのは、想像妊娠も含まれているため。ところが流産や死産を繰り返し、無事に生まれたのはわずか5人。しかもその内2歳までに夭逝したのが4人でした。たった一人、息子のウィリアム王子だけは11歳まで生きますが、彼も若くしてこの世を去ることに。どれほどアンは悲しんだことでしょうか。一説によると、彼女がここまで子どもに恵まれなかったのは、遺伝性のポリフィリン症だったのではないかとも言われています。

1-4 アン女王とブランデー

さて、アン女王と言えばブランデーがつきもの。これはアンが好んでよくブランデーを口にしていたため。そのためアン女王のあだ名は「ブランデーおばあちゃん」と呼ばれています。ちなみにアンは肥満や痛風に悩まされ、自力で歩くことができず移動は輿に担がれたそう。戴冠式の様子についても、イスのような輿でウエストミンスター寺院へ運ばれ、式の間は立つことがなかったとも言われています。

\次のページで「2 女王となったアン」を解説!/

2 女王となったアン

アンはステュアート朝最後の女王。ステュアート朝とは、テューダー朝のエリザベス1世が亡くなった後にスコットランドの国王だったジェームズ6世がイングランド王も兼ねたことで始まった王朝。イングランドではピューリタン革命が起き、チャールズ1世は処刑されることに。その後王位に就いたのは1世の息子であるチャールズ2世ジェームズ2世。しかしこの2人の国王はキリスト教徒でした。特にアンの父であるジェームズ2世は親キリスト政策を打ち出したため、議会と対立するように。ここでは、アンが女王に即位するまでの様子を紹介していきます。

2-1 名誉革命

ジェームズ2世は次々に親キリストの政策を取ったため、彼の国内人気がどん底になっていくことに。そんな中、議会は嫁いだメアリとその夫ヴィレムにイングランド王にと目論みます。メアリは父と同じカトリックではなくプロテスタント。当時では親子間で進行している宗教が違うのは不思議ではなかったのです。こうしてメアリとヴィレムはオランダからイングランドへ。オランダから5万もの兵を前にジェームズ2世は亡命するしかなかったそう。そして一滴の血が流れることなく、2人はイングランドを共同統治していくことに。これが世に言う名誉革命です。

2-2 アン女王の即位

アンの即位は彼女が37歳の時でした。アンよりも先に即位した姉のメアリ2世とその夫ウィリアム3世でしたが、メアリが先に亡くなり、その後ウィリアム3世も亡くなることに。2人には子どもがいなかったため、ウィリアムは王位継承法で後継者を決めていました。それは、ステュアート家の者かつプロテスタントを信仰している者。この法によってアンは即位することに。

2-3 アンの聖なる手

信仰深かったアン女王。彼女は義理の兄、ウィリアム3世が迷信だとして廃止していた病人に触れて病を治すという民間療法を再開させることに。このため、アンは何時間もかけて病人たちを1人で触れなければならなくなりました。そしてアン女王はこの民間療法を行ったイギリス最後の君主となることに。ちなみにこの民間療法はもともとフランスの王がしていたもの。余談ですが、ウィリアム3世と同様にルイ16世も迷信という理由からこれを廃止していました。

2-4 アン女王の幼馴染のサラ・チャーチル

Sarah, Duchess of Marlborough by Jervas.jpg
By チャールズ・ジャーヴァス - en:File:Ds of M.jpg or [1], パブリック・ドメイン, Link

アン女王が即位してわずか2週間後にイギリスはスペイン継承戦争へ参戦を決定しました。ここでアン女王は、彼女の幼馴染でもあった女官のサラ・チャーチルを寵愛することに。アンは即位すると、まずサラを女官長に起用。その後も多くの重要な役職にチャーチル家を起用することに。その内の1人、サラの夫のジョン・チャーチルも例外ではありませんでした。アンはジョンをイギリス、オランダ、オーストリアの連合軍の総司令官へ任命しました。

3 スペイン継承戦争

アン女王の治世で重なった大きな出来事として、スペイン継承戦争が挙げられます。この戦争は、スペイン・ハプスブルク家の最後の王が崩御したことで起こった継承戦争。それでは具体的にどのような経緯となったのか見ていきましょう。

3-1 スペイン継承戦争とは? 

Carlos II; Koning van Spanje.jpg
By フアン・カレーニョ・デ・ミランダ - Schloss Rohrau, Graf Harrach'sche Familiensammlung, パブリック・ドメイン, Link

そもそもスペイン継承戦争とはどのような戦争でしょうか。事の発端は、スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世が亡くなったことから起こりました。カルロス2世は、父フェリペ4世が半ば諦めかけていた頃に授かった奇跡の子としてスペイン中から祝福を受けて誕生。ところがカルロス2世は、ハプスブルク家の近親婚の影響から心身ともに蝕まれた人物でした。奇跡の子はやがて呪われた子としてささやかれることに。そんなカルロス2世が1700年に亡くなり、遺言でフランスのルイ14世の孫のフェリペ5世に継承させることが決まることに。ところがフェリペ5世がフランスの王位継承権を放棄せず、即位後はフランスに便宜を図ったことからフェリペ5世の継承に反対したオーストリア、オランダ、そしてイギリスが参戦することになったのです。

\次のページで「3-2 なぜフェリペ5世が継承することができたのか?」を解説!/

3-2 なぜフェリペ5世が継承することができたのか?

スペイン継承について、なぜフランスのブルボン家だったフェリペ5世が継承することになったのでしょうか。それはカルロス2世の姉マリー・テレーズがフランスのルイ14世の妃として嫁いでいたため。だからスペイン・ハプスブルクの血が流れているフェリペ5世が継承する正当な理由があったのです。当然スペイン・ハプスブルク家がブルボン家に乗っ取られる形となるため、オーストリア・ハプスブルク家は反発することに。スペイン継承戦争は、ハプスブルク家とブルボン家の争いであり、植民地を巡ったイギリスとフランスとの対立として起こったものでした。

3-3 当時の最強国フランスに挑む

アン女王が幼馴染を贔屓して任命されたジョン・チャーチルでしたが、華々しい結果を次々と出しました。彼は当時の最強と言われたフランス軍と戦い、勝利を勝ち取っていきます。アン女王はジョンの功績を称え、マールバラ公爵へ取り立てることに。そしてその後のブレンハイム村での戦闘では大勝利を収めたジョンに今度は60万平方キロの土地を与えることに。ちなみにジョン・チャーチルはブレナム宮殿を建築していましたが、土地が広大すぎたため城が完成する前に亡くなったそう。ブレナム宮殿といえば、今日ではユネスコの世界遺産に登録されていますね。またこの宮殿はイギリス首相だったウィンストン・チャーチルの生家としても有名。

3-4 次第に追い詰められていくルイ14世

戦場はヨーロッパ地方とアメリカの植民地で展開していくことになったスペイン継承戦争。当初はフランス、スペインの優勢でしたが次第に戦況は悪化することに。1704年にはジブラルタルをイギリスが占領。ちなみに今日までジブラルタルはイギリス領となっています。またアメリカ植民地でもイギリスとフランスは対決することに。しかしフランスは十分に兵力を植民地まで割くことができなかったため、終始イギリスが優勢に戦いを進めることになりました。このアメリカ植民地での戦いは、アンの名を取ってアン女王戦争と呼ばれることに。

4 アン女王の晩年

1702年に即位したアン女王でしたが、晩年は車椅子の生活を余儀なくされることに。即位してわずか12年間の治世でしたが、彼女は精力的に国務を務めていました。閣議に参加したり、有力な政治家と意見を交えながらイギリスの繁栄を目指したアン。そんな彼女の治世にはスコットランドがイングランドに併合されることになります。それでは詳しく見ていきましょう。

4-1 グレートブリテン連合王国誕生!

アン女王の治世では、グレートブリテン連合王国が誕生しました。これは1707年の出来事。この間もスペイン継承戦争は続いていました。しかしなぜスコットランドとイングランドは併合することになったのでしょうか。

もともとこの2つの国は別々の国。ところが1603年にスコットランドのジェームズ6世がイングランドのジェームズ1世として即位したことで、この2つの国は同じ君主が統治することになったのです。この状況では、スコットランドは経済的に不利な状況に陥ることに。当時イングランドは新大陸との貿易を自由に行っていました。ところがスコットランドは自由に行えなかったのです。そしてスコットランドは親仏派。しかし今回の継承戦争でフランスはことごとくイングランドに負けました。ここからイングランドと手を結んだ方が得策と考えたから。

\次のページで「4-2 次第に関係が悪化する2人」を解説!/

4-2 次第に関係が悪化する2人

幼馴染だったサラとの関係は1708年頃から次第に悪化していくことになりました。その頃にサラは、女王に対して宛てた手紙で女王がレズビアンの傾向があるなどと批判。しかしスペイン継承戦争で彼女の夫のジョンが活躍していたため、女王はサラに手出しができない状況に。サラは夫の代弁者でもあり、アン女王にとっては側近。サラは女王に戦争の推進を主張しましたが、アンは次第に和平を目指していくことに。こうして両者は次第に対立していき、1710年に女王はサラを宮廷を追放することに。

4-3 ユトレヒト条約にて終戦

1713年から14年にかけて、ついにスペイン継承戦争が終わり、ユトレヒト条約が締結。この条約においてイギリスは、スペインからジブラルタル・ミノルカ島を、フランスからニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾を手に入れました。そしてイギリスは、当時最強と謳われていたフランス軍に圧勝したことで、一気に一流の軍隊を備えた大国として認知されることに。スペイン継承戦争は表向きではハプスブルクの勝利と語られていますが、イギリスが多くの領土を手にして実益を取ったことが分かりますね。またユトレヒト条約締結の翌年に付帯事項として、イギリスのアシエントが認められることに。アシエントとは、奴隷供給契約。これによってイギリスは毎年1000人にも及ぶアフリカからの黒人奴隷をスペインのアメリカ植民地へ送ることが可能に。こうしてイギリスには多くの富がもたらされるようになるのでした。

4-3 現在のウィンザー朝の始祖となるハノーヴァー家

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By James Thornhill (1675-1734) - P.M. History. Januar 2006, S. 24., パブリック・ドメイン, Link

アン女王は1714年に息を引き取りました。彼女はかなりの肥満であったことから、棺は正方形だったとも。とうとうアン女王は子宝に恵まれることなくこの世を去りました。しかしアンは次の後継者を決めていました。後継者にはジェームズ1世の孫娘ゾフィアもしくはその子どもを指名。ところが肝心のゾフィアは、アンが死去する前に亡くなっていました。そこで彼女の長男のゲオルクがジョージ1世として即位することに。このゲオルク改め、ジョージ1世が開いたハノーヴァー朝が今日まで続くウィンザー朝の始祖。この血脈は脈々と続いているのです。

イギリスに繁栄をもたらしたステュアート朝最後の女王

アンは姉夫婦に子供がいなかったため37歳の時に女王となりました。アンは夫婦仲が良かったものの流産と死産を繰り返すことに。そしてやっと授かっても子供たちは成人するまで長生きできなかったことを考えると、アンの悲しみが伝わってきますね。

そして即位してすぐに始まったスペイン継承戦争。この戦争においてアンは、幼馴染の夫を連合軍の総司令官に大抜擢することに。そしてジョン・チャーチルは彼女の起用に報いる結果を残しました。そしてユトレヒト条約では、イギリスに多くの領土をもたらし、アシエントによって奴隷を供給することができるようになり繁栄の礎を築くことに。

そして1714年にアンはこの世を去りました。アンには後継者がいなかったため、ここでステュアート朝が断朝することに。アンの死後、血縁の遠いドイツのハノーヴァー家が登場しイギリス王室として王位に就くことに。このハノーヴァー朝は、脈々と続き、現在のウィンザー朝の始祖とされています。

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イギリスを繁栄へと導いた「アン女王」ステュアート朝最後の君主の生涯をヨーロッパ史大好き歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はイギリスのアン女王についてです。

アン女王はステュアート朝最後の女王として君臨した女王です。彼女が即位する直前には世界ではスペイン国王カルロス2世の死によってスペイン継承戦争が勃発していたんです。イギリスはオーストリア、オランダと共にフランス、スペインと戦うことになったんです。

それじゃあそんなアン女王の生涯を歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ各国の王室に興味があり、最近はイギリス王室に関する本を愛読中。今回は、ステュアート朝最後の君主であるアン女王の生涯や彼女にまつわるエピソードを紹介していく。

1 アン女王のプライベート

image by iStockphoto

17世紀にジェイムズ2世の次女として生まれたアン。アンはデンマーク王の次男と結婚していましたが、姉夫婦に子供が生まれそうにないことから、早くからイギリスで暮らしていたそう。そんな彼女は一体どんな人物だったのでしょうか。ここでは彼女の幼少期のエピソードや、アンの結婚などについて紹介していきます。

1-1 アンの誕生

アン女王はジェイムズ2世の次女として1665年に誕生。アンには姉のメアリがいました。(彼女が後にオランダへ嫁ぎ夫のウィリアム3世とイギリスを共同統治していくことになる)アンは幼い頃から体が弱く、天然痘にかかってしまいます。また目の治療では祖母のいるフランスへ数年間滞在。そのためフランス語は堪能だったそう。

1-2 デンマーク王の次男ゲオルクと結婚

アンが17歳の時には35歳の独身だったマルグレイブ卿に目を付けられることに。実際にアンは彼から口説かれ、熱心なラブレターまで送られる始末。そのためマルグレイブ卿は1682年に宮廷の出入り禁止となりました。その後アンはデンマーク王の次男、ゲオルクと結婚することに。彼はアンよりも10歳以上も年上の男性でした。しかし年の差がネックになることなく、二人は夫婦円満。

1-3 子どもに恵まれなかったアン

Queen Anne and William, Duke of Gloucester by studio of Sir Godfrey Kneller.jpg
By 作者不明 – Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, Link

アンは一説によると、妊娠を14回とも18回ともしたと言われています。妊娠の回数があいまいなのは、想像妊娠も含まれているため。ところが流産や死産を繰り返し、無事に生まれたのはわずか5人。しかもその内2歳までに夭逝したのが4人でした。たった一人、息子のウィリアム王子だけは11歳まで生きますが、彼も若くしてこの世を去ることに。どれほどアンは悲しんだことでしょうか。一説によると、彼女がここまで子どもに恵まれなかったのは、遺伝性のポリフィリン症だったのではないかとも言われています。

1-4 アン女王とブランデー

さて、アン女王と言えばブランデーがつきもの。これはアンが好んでよくブランデーを口にしていたため。そのためアン女王のあだ名は「ブランデーおばあちゃん」と呼ばれています。ちなみにアンは肥満や痛風に悩まされ、自力で歩くことができず移動は輿に担がれたそう。戴冠式の様子についても、イスのような輿でウエストミンスター寺院へ運ばれ、式の間は立つことがなかったとも言われています。

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