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イギリスを繁栄へと導いた「アン女王」ステュアート朝最後の君主の生涯をヨーロッパ史大好き歴女が5分でわかりやすく解説!

よぉ、桜木建二だ。今回はイギリスのアン女王についてだ。

アン女王はステュアート朝最後の女王として君臨した女王だ。彼女が即位する直前には世界ではスペイン国王カルロス2世の死によってスペイン継承戦争が勃発していたんだ。イギリスはオーストリア、オランダと共にフランス、スペインと戦うことになったんだ。

それじゃあそんなアン女王の生涯を歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ各国の王室に興味があり、最近はイギリス王室に関する本を愛読中。今回は、ステュアート朝最後の君主であるアン女王の生涯や彼女にまつわるエピソードを紹介していく。

1 アン女王のプライベート

image by iStockphoto

17世紀にジェイムズ2世の次女として生まれたアン。アンはデンマーク王の次男と結婚していましたが、姉夫婦に子供が生まれそうにないことから、早くからイギリスで暮らしていたそう。そんな彼女は一体どんな人物だったのでしょうか。ここでは彼女の幼少期のエピソードや、アンの結婚などについて紹介していきます。

1-1 アンの誕生

アン女王はジェイムズ2世の次女として1665年に誕生。アンには姉のメアリがいました。(彼女が後にオランダへ嫁ぎ夫のウィリアム3世とイギリスを共同統治していくことになる)アンは幼い頃から体が弱く、天然痘にかかってしまいます。また目の治療では祖母のいるフランスへ数年間滞在。そのためフランス語は堪能だったそう。

1-2 デンマーク王の次男ゲオルクと結婚

アンが17歳の時には35歳の独身だったマルグレイブ卿に目を付けられることに。実際にアンは彼から口説かれ、熱心なラブレターまで送られる始末。そのためマルグレイブ卿は1682年に宮廷の出入り禁止となりました。その後アンはデンマーク王の次男、ゲオルクと結婚することに。彼はアンよりも10歳以上も年上の男性でした。しかし年の差がネックになることなく、二人は夫婦円満。

1-3 子どもに恵まれなかったアン

Queen Anne and William, Duke of Gloucester by studio of Sir Godfrey Kneller.jpg
By 作者不明 – Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, Link

アンは一説によると、妊娠を14回とも18回ともしたと言われています。妊娠の回数があいまいなのは、想像妊娠も含まれているため。ところが流産や死産を繰り返し、無事に生まれたのはわずか5人。しかもその内2歳までに夭逝したのが4人でした。たった一人、息子のウィリアム王子だけは11歳まで生きますが、彼も若くしてこの世を去ることに。どれほどアンは悲しんだことでしょうか。一説によると、彼女がここまで子どもに恵まれなかったのは、遺伝性のポリフィリン症だったのではないかとも言われています。

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アン女王の妊娠した回数には、想像妊娠もあったそうだ。王家の人間は次の王位継承者を産まなければならないというストレスがあったのかもしれないな。ついにアンの子供たちは成人することなく亡くなることになるんだが、アルコールばかり摂っていたのはつらい気持ちを紛らわせたかったのかもしれないな。

1-4 アン女王とブランデー

さて、アン女王と言えばブランデーがつきもの。これはアンが好んでよくブランデーを口にしていたため。そのためアン女王のあだ名は「ブランデーおばあちゃん」と呼ばれています。ちなみにアンは肥満や痛風に悩まされ、自力で歩くことができず移動は輿に担がれたそう。戴冠式の様子についても、イスのような輿でウエストミンスター寺院へ運ばれ、式の間は立つことがなかったとも言われています。

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