敗者烈伝日本史明治歴史

【3分でわかる】桐野利秋はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる桐野利秋の歴史

鹿児島県士族の決起

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明治九年十二月四日に桐野の家で開かれた幹部集会において、珍しく西郷が激高し、「彼(大久保利通)の肉を食ふも飽かざるなり」と言うと、桐野は「二、三の大臣を討たば政府は瓦解すべし。亦奸臣を討て民の疾苦を救ふは是丈夫の本意なり」と抱負を述べ、徐々に決起へと傾いていく。

結局、この時は西郷の「時機を見るべし」という言葉で鎮静したが、西郷が憤激したという噂は薩摩隼人たちの間に広がり、鹿児島には一触即発の空気が漂い始めていた。

幹部の一人の村田新八は、「(私学校党の形勢は)、あたかも四斗樽に水をいっぱいにし、腐れ縄で括っているような有様で、西郷や自分の力でも抑えることはできない。いずれ破裂は免れ得まい」と語ったという。

こうした状況下で、大久保は火に油を注ぐようなことをする。

鹿児島出身の警察官たち六十名余を密偵として帰郷させた上、私学校党の内情を探らせると同時に、鹿児島に備蓄されていた武器弾薬を回収しようとしたのだ。

明治十年一月、汽船から降り立った官吏たちが、何の前触れもなく弾薬庫の武器弾薬の積み込みを開始した。本来、これらの武器弾薬は旧薩摩藩が備蓄しておいたもので、たとえ政府であろうと、何の断りもなしに持ち去るのは道義に反している。

これを聞いた私学校党の若者たちは怒り狂い、弾薬庫を襲撃して武器弾薬を奪ってしまう。鹿児島から武器弾薬を運び出されてしまえば、私学校党は戦いたくとも戦えなくなり、政府の軍事的威圧によって解体させられることになるからだ。

この時、西郷は狩猟に出ており、桐野は吉野台地で開墾に精を出していた。つまり二人とも、このタイミングで暴発が起こるなど考えていなかったのだ。

一方、大警視の川路利良の命によって鹿児島に入った密偵たちは、私学校党の情報を探るかたわら、内部分裂を図るべく離反工作を行っていた。

そんなことをすれば、私学校党にばれるのは明らかだ。

この時、捕らえられて拷問を受けた中原尚雄少警部は、「西郷と刺し違える覚悟で来た」と言ったため、私学校党の者たちは、大久保や川路が西郷暗殺を命じていたと思い込んだ。怒りが沸点を超えた瞬間だった。

同年二月五日に開かれた幹部たちの集会において、桐野は「もはや矢は弦を放たれ、剣が鞘から抜かれたも同じであり、断の一字あるのみ」と言ったとされる。

この時、西郷はいかなる心境だったのか、「おいの体は皆に預けもんそ」と決断を投げてしまっている。もはや西郷でも、決起は止められないと思ったのだろう。

実は、西郷も自らの名を過信しており、戦わずして東京に着き、政府を問責できると本気で思っていたらしい。

薩軍の中心となった桐野利秋

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かくして西南戦争が始まるわけだが、陸軍少将だった桐野と篠原が中心になり、軍事作戦の立案と指揮を執ることになる (村田は文官)。

尤も篠原は寡黙に過ぎる男であり、自然、桐野が薩軍の中心となっていった。つまり「西南戦争は桐野の戦争」と言われる所以がここにある。

いずれにせよ「率兵上京」と決まり、すぐに作戦計画の立案に入るが、この時、幹部の一人である野村忍介の唱えた「三道分進論」が桐野によって却下されることで、熊本城攻略作戦が決定する。

「三道分進論」とは、長崎・熊本・大分の三道を進み、線ではなく面で九州を押さえ、政府軍の侵攻に備えるというものだが、桐野は熊本鎮台司令長官だったこともあり、熊本城攻略に固執する。そこには、議者と呼ばれるほど弁舌に優れた野村との感情的な確執があったようだ。

桐野としては西郷の威徳と薩軍の威容により、戦わずして熊本鎮台を降せると思っていたのだろう。よしんば戦うとしても、桐野は城の隅々まで知り尽くしており、容易に落とせると踏んでいたに違いない。

北上を開始した薩軍は、熊本鎮台のある熊本城を囲む。この時、薩軍内は楽観論に包まれていた。というのも西郷は現役の陸軍大将であり、西郷を神のように慕う薩摩人が鎮台内には多くおり、戦わずして城を開くと思ったのだ。

ところが鎮台軍は熊本城に拠って激しい抵抗を示す。どうしても城を落とせずにいるところに、政府軍が福岡に上陸し、主戦場は北方の田原坂へと移動していく。

田原坂で薩軍は凄まじい戦いぶりを見せるが、最後には力負けし、九州各地を転々とすることになる。

結局、各地で敗れて衰勢に陥った薩軍は、鹿児島に戻って城山に籠城した。しかし最終的に政府軍の前に屈し、西郷も桐野も死を迎えることになる。

西南戦争はなぜ薩軍の敗北に終わったのか

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開戦当初、戦力的には政府軍と見劣りせず、しかも西郷という精神的支柱があったにもかかわらず、薩軍はなぜ敗れたのだろう。そこには五つの敗因があった。

 

・西郷の名を過大評価していた

・徴募兵(農兵)中心の政府軍、とくに熊本鎮台兵を侮っていた

・前装銃を主力にするなど装備が旧式な上、中盤戦以降、弾丸が欠乏した

・兵站線の確保や補給体制に、さほど気を配らなかった

・政府の海軍力(海上輸送力と沿岸戦での砲力)を侮っていた

 

つまり西郷の名を過信し、西郷が起てば全国の不平士族も起つと思い込んだのが、まず間違いで、次に士族としての誇りが、農兵への侮りに通じた。また勝つための計算がなされておらず、装備の古さや補給といったものに気を配らなかった。結局、海軍によって後方に上陸部隊を運ばれ、挟撃態勢を敷かれたことで、薩軍は万事休すとなったのだ。

いよいよ最後の時、西郷だけでも投降させようという意見が出たが、桐野はこれに猛反対し、「潔く散華されてこそ西郷先生である」と言ったとされる。桐野は、西郷を「日本の西郷隆盛」ではなく「おいたちの西郷先生」としておきたかったのだ。つまり西南戦争とは、西郷与党のホモ・ソーシャル(同性間の強い結び付き)が高じた結果、起こった戦争と言えるだろう。

城山で西郷が死を選んだ後も、桐野は自ら銃を取って戦い続け、最後は眉間を撃ち抜かれて死んだ。その遺骸からは、陸軍時代に付けていたものと同じ香水が匂っていたという。

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