そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「桐野利秋」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
桐野利秋
一八三八年〈天保九年〉〜一八七七年〈明治十年〉
実像とはほど遠い誤ったイメージを持たれた敗者は多い。桐野利秋などは、その典型だろう。今日に至るまで桐野が誤解されている第一の原因は、「人斬り半次郎」という異名を世間から賜ったことにほかならない(桐野の元の名は中村半次郎という)。
これにより桐野は、志士や軍人というよりも殺し屋という印象が強くなり、さらに出自が低く、学問もろくに修めていなかったことから、悪いイメージを一身に背負うことになった。
そして西南戦争後は、「西郷隆盛を西南戦争に駆り立て、死に追い込んだ男」という評価が定着した。
まず人斬りという誤解から改めていきたいが、史実と認定できるもので桐野が人を斬ったのは、信州上田藩士で洋式軍学者の赤松小三郎の一例だけだ。その事件は慶応三年(一八六七)九月に起こった。薩摩藩が公武合体から倒幕に転換しようとしていた矢先で、赤松を幕府か会津藩のスパイだと思い込んだらしい。
一例だけでも「人斬りは人斬りだ」と言われてしまえば、反論のしようもないが、少なくとも人斬りを専らとする者ではなかった。
幕末に活躍した情に厚い男
天保九年(一八三八)、桐野は鹿児島北方の家禄五石の郷士(外城士)の家に生まれた。青年になり、十一歳年上の西郷隆盛に弟子入りしようと思い、薩摩芋を三本持っていった話は有名だ。その時、西郷の弟・吉二郎が失笑するのを見た西郷は、「贈り物に厚薄なし。半次郎どんが懸命に作った芋なら、これほどの贈り物はない」と言って吉二郎を?った。この時、桐野は涙を流して「この人のために死のう」と思ったという。
幕末期、桐野は西郷の耳目として諜報活動に従事し、危険を顧みず敵方に潜入した。
その豪胆さは、禁門の変の直前まで、京都の長州藩邸に出入りしていたことからもうかがえる。
西郷は大久保利通への書簡の中で、「中村が本当の暴客(過激尊攘志士)になってしまうかもしれないが、戻ってくれば長州の事情が詳しく分かるはずだ」と記しており、西郷でさえも、この時期の桐野をコントロールしきれていなかったと分かる。
また桐野は薩摩藩家老の小松帯刀に、勝海舟の神戸海軍操練所に入所したいとも言っている。もし実現していたら、坂本龍馬同様、勝の弁舌に取り込まれ、その熱烈な弟子になっていたかもしれない。
桐野は直情径行で涙もろく、頼られれば嫌とは言えない性格だった。
水戸天狗党を救うべく、単身で美濃の山中に急行し、討伐軍の情報を伝えたり、新選組に追われている御陵衛士の残党をかくまったり、佐賀の乱で逃げてきた元佐賀藩士を隠したりと、情の厚さは西郷譲りである。
禁門の変から戊辰戦争にかけて、桐野は主に軍事面で活躍し、鳥羽・伏見の戦いでは薩軍一番隊を指揮し、四十名中二十八名の部下を失うという奮戦をする。
会津城降伏の儀では、軍監として受け取り役の大任を果たした。この時、松平容保父子の落魄した姿を見て涙したことで、桐野の名はさらに騰がる。
城受け取りの大任を全うした後、すべての仕来りに精通していることに感服した仲間から、「城受け取りの儀をどこで学んだのか」と問われた桐野は、「愛宕下の寄席で聞いたのさ」とうそぶいたという。つまり寄席で『忠臣蔵』の赤穂城明け渡しの話を聞き、その通りにしたというのだ。こうした図太さも桐野ならではだ。
等身大の桐野利秋
ファイル:Kirino Toshiaki.jpg – Wikipedia
等身大の桐野については、同時代人の言葉が最も的確だろう。
西南戦争で敵味方に分かれて戦った朋友の高島鞆之助は、「竹を割ったような正直で剝き出しな性質」「男らしく潔白で豪放」「さっぱりした快闊な男」と褒めちぎり、軍刀の拵えを金無垢にした洒落者の一面も伝えている。
薩摩藩の支藩である佐土原藩の富田通信は、「功に奢らず謙遜なる人」「至って勇猛にして敵ならば鬼を挫く勢いでありながら、また至って愛情深き人」と称賛した。
明治になってからの話だが、桐野が屋敷を出る時、いつも大きな握り飯を二つ持っていくのを不審に思った富田が、その理由を問うと、桐野は「最近は飢民が多いと聞くので、もし道路で餓死しかかっている者を見かけたら、与えたいと思ってね」と答えたという。
桐野の遠縁にあたる肝付兼行によると、「実に磊落な淡白な性質の人で、何人に対しても障壁を設けることをしなかった。上下貴賤の差別なしに誰が来ても同じ部屋に通し、遠慮なしに話をするのが常だった」という。
土佐藩の山本頼蔵は、「随分正義の赴き(趣き)也」とし、同じく土方久元は、「真に正論家、討幕の儀を唱える事最烈なり」と日記に記している。
最後に西郷の桐野評を記しておく。
「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾々の及ぶ所にあらず」
つまり、若い時に学問をする機会があれば、桐野は自分など及びもつかない逸物になっていたというのだ。
西郷にしたがって鹿児島に帰郷
明治五年に熊本鎮台司令長官、そして陸軍裁判所所長と、軍人として出世街道をひた走っていた桐野は、明治六年の政変によって下野した西郷を追うように官を辞し、鹿児島に帰ることにする。
桐野は帰郷後、篠原国幹や村田新八が中心となって設立した私学校党とは距離を置き、士族授産の道を開こうとした。すなわち元近衛兵や元邏卒と共に原野を開墾し、粟・唐芋・大根等の農作物を作り、そのかたわら学業を修めることにしたのだ。その授産事業の母体として吉野開墾社を設立する。
西郷の下野に追随して官吏を辞めた者は六百余に及んだが、彼らは西郷を慕い、一時の熱気から辞職した者がほとんどで、今後の生活の方途など考えていない。当座の興奮から覚めると、いかにして食べていくかで彼らは途方に暮れていた。それゆえ桐野は率先して開墾や学問に精を出し、彼らのために授産の道を開こうとした。
桐野は「今日志士として自ら任ずる者の欠点とするところは、志気余りあって、恒産乏しきにあり。恒産無ければ、どうしてよく国家の大事に任ずることができるか」(『西南記伝』)と唱え、率先して働いた。
桐野は軍刀の拵えを金無垢にするほどダンディな反面、自らの出自を恥とせず、仲間と共に土をこねることを厭わない男だった。
西郷と共に桐野が下野した後、岩倉具視の放った密偵によると、桐野は、「天下形勢三年を出ずして一変すべし。故に時機の至るを待の外なし」と言って憚らなかったという。
地租改正、秩禄処分、徴兵制、帯刀禁止令、極端な欧化政策など物心両面で士族を痛め付ける政府への不満は、鹿児島でも高まっていた。
私学校という徒党を組んでしまえば、過激な意見が主流を占めるのは明らかなのだ。
私学校党の若者たちは政府のやることなすことに悲憤慷慨し、西郷と桐野に決起を促すが、この時期の二人は、こうした動きを懸命に抑えていた。
しかし若者たちの熱は、徐々に桐野を侵し始める。
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