プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「西郷隆盛」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19

肥大化した人望にのみ込まれた人格者

西郷隆盛
一八二七年〈文政十年〉~一八七七年〈明治十年〉

長らく外資系企業のサラリーマンを務めてきた私だが、日本人と欧米人の違いとして一つ気づいたのは、日本人が無意識裡に崇拝する人間の「風貌」が特異ということだ。一言でいえば日本人は、「大人」すなわち「大柄で鈍そうな人」が大好きなのだ。

一方、欧米人は、目先の変化に即座に対応して動き回る「小才子」を評価する。つまり、頭の回転と弁舌(表現力)がリーダーの条件となる。そこに、外資系企業が日本の風土になじまない原因の一つがある。

戦国時代を代表する織田信長や武田信玄といった武将には、カリスマ的リーダーシップがあったと言われる。だがそこには、配下との間に「がんばれば報われる」という利害関係が成立しており、それがなければ誰も働かない。秀吉に至っては「利で釣る」ばかりで、家康も「御恩と奉公」という互恵的な関係を政権理念の一つにしていた。つまり戦国時代は、誰しもが忠節を誓う代わりに見返りを求めていたのだ。これは鎌倉時代や室町時代も、さして変わらない。

しかしここに、利害関係や互恵関係などを超越し、何の見返りがなくても誰もがついていく男がいる。

西南戦争に党薩隊(旧薩摩藩士以外の西郷支持勢力)の一つとして参加した中津隊長の増田宋太郎は、いよいよ追いつめられた薩軍が解軍となった時、同志たちに郷里に帰ることを命じた後、こう言ったとされる。

「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」

日本史上において、唯一無二のカリスマリーダーと言ってもよい西郷隆盛は、いかにして敗者となったのか。その謎を解くことは、日本人の本質を知る上でも極めて重要なことだろう。

情熱の人

image by PIXTA / 39909919

西郷隆盛の背丈は五尺九寸(約百七十九センチメートル)、体重は二十九貫(百九キログラム)というから、成人男子の平均身長が百六十センチメートルに満たなかった当時としては、見上げるような大男だった。

顔については諸説紛々としているが、イギリスの外交官・アーネスト・サトウが、「西郷は黒ダイヤのように大きな目玉をしている」と書き残しており、どうやら最も有名なキヨソネの絵が実像に近いようだ。

さらに上野の銅像に見られるように、薩摩絣の着流しに、小倉の袴、腰には切腹用の脇差のみを帯び、美髯は蓄えず無精髭だけ生やし、髪型は法界坊(五分刈り)とくれば、この姿を愛さない日本人はいない。

その西郷だが、若い頃から温厚な人柄だったかというと、そうでもない。逆に情熱の人と言った方がいいだろう。

藩主の父である島津久光を「地五郎(田舎者)」と呼び捨てた末、命令違反を平気で犯して流罪に処されたこともあれば、勤皇僧の月照と入水自殺を図ったこともあった(月照は死に、西郷は蘇生した)。

実は、こうした熱情を西郷は腹の中に蔵しており、それがまた、人を引き付ける要因になっていたのだ。

そんな大西郷が、なぜ敗者になったのか。

本項では、その直接的な原因となる西南戦争ではなく、それ以前の政争、すなわち「明治六年の政変」に的を絞り、西郷の敗因に迫りたいと思う。

西郷率いる留守政府と岩倉使節団の対立

戊辰戦争が終わり、明治新政府が発足した。

己の役目は終わったとばかりに帰農した西郷だったが、明治二年(一八六九)二月、旧主の島津忠義の懇望により、鹿児島県参政を拝命して県政を手伝うことになった。

そこに舞い込んできたのが国政への復帰要請である。

明治政府は兵部省を作り、長州藩出身の大村益次郎に軍制改革を任せてきたが、大村が暗殺され、改革は頓挫していた。そこに帝政ロシアを外遊してきた山県有朋が戻り、国軍を創設しないと外圧に対抗できないと唱えた。と言うのも版籍奉還はさせたものの全国諸藩の体制は旧来と変わらず、軍事力はいまだ藩ごとに保持していたからだ。ところが、これほどの大改革を断行するだけの名も力も、この時の山県にはない。

そこで明治四年(一八七一)一月、岩倉具視と大久保利通は西郷に入閣を請い、西郷もこれを受けて参議の座に就いた。西郷は薩長土三藩の兵一万余を擁して御親兵(近衛兵)を創設する。これにより日本は初めて国軍を持つことになった。

そして同年七月、西郷は国軍の力を背景に廃藩置県を断行した。この時、予想された反乱や暴動が起こらなかったのは、西郷の信望と人徳によるものと言われる。

これを見届けた岩倉、大久保、木戸孝允らは十一月、留守政府を西郷らに託し、不平等条約改正の下交渉のため欧米へと出発した。留守政府の実質的首班となった西郷は(名目上の首班は三条実美)、廃藩置県の反動から来る社会不安を乗り切り、いつ倒れてもおかしくない明治政府を軌道に乗せた。

ただし出発前、岩倉や大久保らは、自分たちが外遊している間、主要政策の決定や重要人事を留守政府が行ってはならないという「十二カ条の約定書」を、西郷ら留守組(大隈重信、板垣退助、山県有朋ら)との間で取り交わしていた。しかし西郷らは、朝敵とされた大名や旧幕軍将兵の全員大赦、徴兵制の施行、地租改正、学制の制定、鉄道開業、太陽暦の採用などの重要政策を立て続けに決定し、参議に後藤象二郎、大木喬任、江藤新平を新規に補充したため、約定などあってなきものとなった。

征韓論

image by PIXTA / 4932472

こうした情報を新聞によって海外で知った大久保は、自分の作品に等しい明治政府が徐々に西郷のものになってしまうという危機感を抱き、帰国を早めようとしていた。

しかし西郷にしてみれば、約定は約定だが、新たな一歩を踏み出した日本国が、その場にとどまることはできないと思っていた。

実は、西郷が政府の実質的首班となっていたのは、外遊組の出発から帰国までの一年十カ月で、意外に短い。しかしこの二年弱こそ、明治政府が最も実績を挙げた期間であり、政治家西郷の面目躍如たるものがあった。今でも根強く残る「西郷は政治家に向いていない」というイメージは、払拭すべき時が来ているように思う。

この二年弱の間、西郷を支えたのが司法卿の江藤であり、留守政府は別名、西郷・江藤政権とも言われる。

新政府の抱える問題は多々あったが、この頃、日本政府からの国交樹立の呼び掛けに対し、鎖国政策を布いて容易に開国しない朝鮮国に対する不満が、国内にくすぶっていた。

日本の最近隣国である朝鮮との正常な国交樹立は新政府にとって喫緊の課題だが、朝鮮政府は日本を見下し、しまいには「属国」呼ばわりする始末である。

誤解してほしくないのは、征韓論とは大人しくしている朝鮮国を日本が征服しようとしたのではなく、朝鮮国が侮辱的な外交姿勢で日本を挑発したことに起因する。

明治六年(一八七三)五月、朝鮮国は、日本公館への生活物資の供給及び同館に出入りする日本人商人の貿易活動を規制してきた。

朝鮮政府の言い分としては、貿易は対馬商人だけという江戸幕府との取り決めに、日本が違反したというのだ。しかしそれは建て前にすぎず、これまでは黙認してきたことを突如として禁じるのはおかしい。さらに日本を「無法之国」と罵ったので、これは「朝威を貶め、国辱にかかわる問題」だとされた。

板垣退助ら強硬派は、「すぐにでも居留民保護の名目で軍隊を送るべし」と騒いだが、西郷は「陸海軍を送る前に、まずは使節を派遣し、公理公道をもって談判すべきである」と説諭し、「派兵すれば必ず戦争になる。初めにそんなことでは、未来永劫、両国の関係にひびが入る。それゆえ断じて出兵を先行させてはならぬ」と言い張った。

その結果、西郷自ら使節となり、朝鮮に赴くと主張する。つまり西郷は、必ずしも征韓論者ではなかったのだ。ただし自らが殺されれば、「征韓もやむなし」と思っていたのではないだろうか。

この件について詳細を知りたい方は、『明治六年政変』(毛利敏彦著 中公新書)をお読みいただきたい。

西郷が征韓論者だという誤解を受けたのは、留守政府の閣議において、土佐藩出身の板垣や後藤を味方に付けるために、「使節が殺されれば、あなた方の望みどおりに派兵できる。それゆえ自分を使節とすることに賛成してほしい」と言って、賛意を取り付けたからだ。

明治六年八月十七日、土佐派の支持を得た西郷は、閣議において正式に朝鮮派遣使節に任命された。西郷は板垣への手紙の中で、「生涯の愉快此の事に御座候」と謝意を表している。

十九日、太政大臣の三条実美が西郷の使節決定を天皇に上奏すると、天皇は即座に了解し、「ただし、岩倉具視の帰国を待って最終決定すべし」と回答した。すでに木戸と大久保は帰国しており、岩倉からは一カ月以内に帰国するという一報が届いていた。この何の作為もない一報が、西郷と薩摩隼人たちの命運を決することになる。

\次のページで「明治六年の政変」を解説!/

明治六年の政変

九月十三日、岩倉らが帰国し、十月十四日に再び閣議が開かれた。

岩倉、大久保、木戸ら外遊組と、留守組の大隈と大木が使節派遣に猛反対する。

この席上で大久保は、使節派遣によって万が一開戦した場合の不利益を七つ挙げた。

最も重要なのは、政府財政は戦費負担に耐えられず、それを人民に押し付ければ、各地で暴動が起こるという点にあった。さらに大久保は欧米列強との条約改正に備え、国権を確立し、国内体制の整備を優先すべしと主張した。

ところが、西郷は「それは論点がずれている」と言い張る。西郷は「使節派遣の目的は日朝両国の交誼を厚くするためであり、開戦など考えていない」と反論した。これにより、ほかの参議も西郷を支持せざるを得なくなり、西郷使節の派遣は本決まりとなる。

これに怒った大久保が参議を辞すと、木戸、大隈、大木もこれに倣った。

この時、アクシデントが起こる。大久保らの辞意に驚いた三条が、心痛のため精神錯乱状態となり、太政大臣の職務である天皇への上奏ができなくなったのだ。

これでは政務が滞るということで、次席の公家である岩倉が二十日、太政大臣代理に就いた。これで一気に雲行きが変わる。

二十二日、西郷、板垣、江藤、副島種臣の四参議(後藤は欠席)が岩倉邸に押しかけ、天皇への上奏を促した。ところが岩倉は、「自分は前任者とは別人なので、知らない」と言い張る。

岩倉の主張は明らかに「太政官職制」違反であり、これには法の番人の江藤が黙っていない。しかし岩倉の違法行為に対して、西郷は抗議一つせず辞意を表明する。

これに対し、西郷に同心する四参議(板垣・江藤・副島・後藤)は、天皇の裁可が出るまで待つよう押しとどめるが、西郷の意志は変わらない。すでに西郷は、国政に参与する熱意を失っていたのだ。

西郷は十月二十三日、正式な辞表を提出する。西郷を支持する旧薩藩系の陸軍少将・桐野利秋、同・篠原国幹ら近衛士官二百九十名も辞職した。

二十四日、天皇の裁可を待つ四参議に対し、天皇は「十月十五日の閣議決定を支持しない」、つまり岩倉を支持することを明らかにした。二十歳を過ぎたばかりの天皇は、岩倉に言いくるめられたのだ。法治主義の観念が十分に行き渡っていなかった当時、いかに江藤が騒いだところで、天皇の意向は絶対だった。

これにより、大久保による「有司専制」体制への道筋ができた。

自らの虚像に飲み込まれた西郷

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本項では、西南戦争について述べるつもりはない。あくまで西郷が国政にとどまるか否かの勝負どころは、明治六年の政争にあり、それに敗れた時点で西郷の下野は決まり、それが西南戦争の引き金になったからだ。

しかし西郷とて、下野した時点で自らに死が迫っているとは思ってもいなかっただろう。農作業でもしながら、のんびり余生を送ろうとでも思っていたかもしれない。

しかし不平士族たちの西郷への信望は、宗教的なまでに肥大化しており、そのまま西郷を一村夫子として捨てておくわけにはいかなかった。

西郷と共に鹿児島に戻った篠原は私学校を設立し、桐野は開墾事業に精を出すが、共に戻った多くの元近衛兵たちの怒りはくすぶっていた。

彼らの心の拠り所は西郷であり、西郷ある限り、たとえ十倍する政府軍を相手にしても、負ける気がしなかったに違いない。

かくして西郷は、やむにやまれず立ち上がる。

西郷は、期せずして肥大化していった自らの虚像にのみ込まれた。日本史上、唯一無比のカリスマリーダーは、独り歩きし始めた自らの虚像を担がれ、それに引きずられるようにして命を絶たねばならなかった。

町内会長から大企業のトップまで、周囲から担がれて何かの主座に就き、責任だけ取らされることは枚挙にいとまがない。責任ある仕事に就く場合は、慎重に慎重を期して検討する必要があるだろう。

西南戦争については、西郷の主体性が問われる戦いでもあるので、「桐野利秋」の項で取り上げたい。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

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幕末敗者烈伝日本史歴史江戸時代

【3分でわかる】西郷隆盛はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる西郷隆盛の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「西郷隆盛」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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肥大化した人望にのみ込まれた人格者

西郷隆盛
一八二七年〈文政十年〉~一八七七年〈明治十年〉

長らく外資系企業のサラリーマンを務めてきた私だが、日本人と欧米人の違いとして一つ気づいたのは、日本人が無意識裡に崇拝する人間の「風貌」が特異ということだ。一言でいえば日本人は、「大人」すなわち「大柄で鈍そうな人」が大好きなのだ。

一方、欧米人は、目先の変化に即座に対応して動き回る「小才子」を評価する。つまり、頭の回転と弁舌(表現力)がリーダーの条件となる。そこに、外資系企業が日本の風土になじまない原因の一つがある。

戦国時代を代表する織田信長や武田信玄といった武将には、カリスマ的リーダーシップがあったと言われる。だがそこには、配下との間に「がんばれば報われる」という利害関係が成立しており、それがなければ誰も働かない。秀吉に至っては「利で釣る」ばかりで、家康も「御恩と奉公」という互恵的な関係を政権理念の一つにしていた。つまり戦国時代は、誰しもが忠節を誓う代わりに見返りを求めていたのだ。これは鎌倉時代や室町時代も、さして変わらない。

しかしここに、利害関係や互恵関係などを超越し、何の見返りがなくても誰もがついていく男がいる。

西南戦争に党薩隊(旧薩摩藩士以外の西郷支持勢力)の一つとして参加した中津隊長の増田宋太郎は、いよいよ追いつめられた薩軍が解軍となった時、同志たちに郷里に帰ることを命じた後、こう言ったとされる。

「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」

日本史上において、唯一無二のカリスマリーダーと言ってもよい西郷隆盛は、いかにして敗者となったのか。その謎を解くことは、日本人の本質を知る上でも極めて重要なことだろう。

情熱の人

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西郷隆盛の背丈は五尺九寸(約百七十九センチメートル)、体重は二十九貫(百九キログラム)というから、成人男子の平均身長が百六十センチメートルに満たなかった当時としては、見上げるような大男だった。

顔については諸説紛々としているが、イギリスの外交官・アーネスト・サトウが、「西郷は黒ダイヤのように大きな目玉をしている」と書き残しており、どうやら最も有名なキヨソネの絵が実像に近いようだ。

さらに上野の銅像に見られるように、薩摩絣の着流しに、小倉の袴、腰には切腹用の脇差のみを帯び、美髯は蓄えず無精髭だけ生やし、髪型は法界坊(五分刈り)とくれば、この姿を愛さない日本人はいない。

その西郷だが、若い頃から温厚な人柄だったかというと、そうでもない。逆に情熱の人と言った方がいいだろう。

藩主の父である島津久光を「地五郎(田舎者)」と呼び捨てた末、命令違反を平気で犯して流罪に処されたこともあれば、勤皇僧の月照と入水自殺を図ったこともあった(月照は死に、西郷は蘇生した)。

実は、こうした熱情を西郷は腹の中に蔵しており、それがまた、人を引き付ける要因になっていたのだ。

そんな大西郷が、なぜ敗者になったのか。

本項では、その直接的な原因となる西南戦争ではなく、それ以前の政争、すなわち「明治六年の政変」に的を絞り、西郷の敗因に迫りたいと思う。

西郷率いる留守政府と岩倉使節団の対立

戊辰戦争が終わり、明治新政府が発足した。

己の役目は終わったとばかりに帰農した西郷だったが、明治二年(一八六九)二月、旧主の島津忠義の懇望により、鹿児島県参政を拝命して県政を手伝うことになった。

そこに舞い込んできたのが国政への復帰要請である。

明治政府は兵部省を作り、長州藩出身の大村益次郎に軍制改革を任せてきたが、大村が暗殺され、改革は頓挫していた。そこに帝政ロシアを外遊してきた山県有朋が戻り、国軍を創設しないと外圧に対抗できないと唱えた。と言うのも版籍奉還はさせたものの全国諸藩の体制は旧来と変わらず、軍事力はいまだ藩ごとに保持していたからだ。ところが、これほどの大改革を断行するだけの名も力も、この時の山県にはない。

そこで明治四年(一八七一)一月、岩倉具視と大久保利通は西郷に入閣を請い、西郷もこれを受けて参議の座に就いた。西郷は薩長土三藩の兵一万余を擁して御親兵(近衛兵)を創設する。これにより日本は初めて国軍を持つことになった。

そして同年七月、西郷は国軍の力を背景に廃藩置県を断行した。この時、予想された反乱や暴動が起こらなかったのは、西郷の信望と人徳によるものと言われる。

これを見届けた岩倉、大久保、木戸孝允らは十一月、留守政府を西郷らに託し、不平等条約改正の下交渉のため欧米へと出発した。留守政府の実質的首班となった西郷は(名目上の首班は三条実美)、廃藩置県の反動から来る社会不安を乗り切り、いつ倒れてもおかしくない明治政府を軌道に乗せた。

ただし出発前、岩倉や大久保らは、自分たちが外遊している間、主要政策の決定や重要人事を留守政府が行ってはならないという「十二カ条の約定書」を、西郷ら留守組(大隈重信、板垣退助、山県有朋ら)との間で取り交わしていた。しかし西郷らは、朝敵とされた大名や旧幕軍将兵の全員大赦、徴兵制の施行、地租改正、学制の制定、鉄道開業、太陽暦の採用などの重要政策を立て続けに決定し、参議に後藤象二郎、大木喬任、江藤新平を新規に補充したため、約定などあってなきものとなった。

征韓論

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こうした情報を新聞によって海外で知った大久保は、自分の作品に等しい明治政府が徐々に西郷のものになってしまうという危機感を抱き、帰国を早めようとしていた。

しかし西郷にしてみれば、約定は約定だが、新たな一歩を踏み出した日本国が、その場にとどまることはできないと思っていた。

実は、西郷が政府の実質的首班となっていたのは、外遊組の出発から帰国までの一年十カ月で、意外に短い。しかしこの二年弱こそ、明治政府が最も実績を挙げた期間であり、政治家西郷の面目躍如たるものがあった。今でも根強く残る「西郷は政治家に向いていない」というイメージは、払拭すべき時が来ているように思う。

この二年弱の間、西郷を支えたのが司法卿の江藤であり、留守政府は別名、西郷・江藤政権とも言われる。

新政府の抱える問題は多々あったが、この頃、日本政府からの国交樹立の呼び掛けに対し、鎖国政策を布いて容易に開国しない朝鮮国に対する不満が、国内にくすぶっていた。

日本の最近隣国である朝鮮との正常な国交樹立は新政府にとって喫緊の課題だが、朝鮮政府は日本を見下し、しまいには「属国」呼ばわりする始末である。

誤解してほしくないのは、征韓論とは大人しくしている朝鮮国を日本が征服しようとしたのではなく、朝鮮国が侮辱的な外交姿勢で日本を挑発したことに起因する。

明治六年(一八七三)五月、朝鮮国は、日本公館への生活物資の供給及び同館に出入りする日本人商人の貿易活動を規制してきた。

朝鮮政府の言い分としては、貿易は対馬商人だけという江戸幕府との取り決めに、日本が違反したというのだ。しかしそれは建て前にすぎず、これまでは黙認してきたことを突如として禁じるのはおかしい。さらに日本を「無法之国」と罵ったので、これは「朝威を貶め、国辱にかかわる問題」だとされた。

板垣退助ら強硬派は、「すぐにでも居留民保護の名目で軍隊を送るべし」と騒いだが、西郷は「陸海軍を送る前に、まずは使節を派遣し、公理公道をもって談判すべきである」と説諭し、「派兵すれば必ず戦争になる。初めにそんなことでは、未来永劫、両国の関係にひびが入る。それゆえ断じて出兵を先行させてはならぬ」と言い張った。

その結果、西郷自ら使節となり、朝鮮に赴くと主張する。つまり西郷は、必ずしも征韓論者ではなかったのだ。ただし自らが殺されれば、「征韓もやむなし」と思っていたのではないだろうか。

この件について詳細を知りたい方は、『明治六年政変』(毛利敏彦著 中公新書)をお読みいただきたい。

西郷が征韓論者だという誤解を受けたのは、留守政府の閣議において、土佐藩出身の板垣や後藤を味方に付けるために、「使節が殺されれば、あなた方の望みどおりに派兵できる。それゆえ自分を使節とすることに賛成してほしい」と言って、賛意を取り付けたからだ。

明治六年八月十七日、土佐派の支持を得た西郷は、閣議において正式に朝鮮派遣使節に任命された。西郷は板垣への手紙の中で、「生涯の愉快此の事に御座候」と謝意を表している。

十九日、太政大臣の三条実美が西郷の使節決定を天皇に上奏すると、天皇は即座に了解し、「ただし、岩倉具視の帰国を待って最終決定すべし」と回答した。すでに木戸と大久保は帰国しており、岩倉からは一カ月以内に帰国するという一報が届いていた。この何の作為もない一報が、西郷と薩摩隼人たちの命運を決することになる。

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