
山城屋事件と尾去沢銅山事件

ところが、維新政府内にも悪党はいる。彼らは藩閥権力の傘の下で、私腹を肥やすことだけを考えている。
明治五年、かつて長州藩の奇兵隊士だった山城屋和助は、陸軍省御用商人として軍需品の納入を手掛けて巨利を貪っていた。その代わりに、山県有朋をはじめとした長州系軍人・官吏に遊興費を都合していたのだ。
調子に乗った山城屋は生糸相場に手を広げ、陸軍省の公金十五万ドルを借り出して投機に回した。ところが生糸相場が暴落し、山城屋の借用金は六十五万円にまで膨れ上がった。六十五万円といえば、当時の国家歳入の1%を超え、陸軍省予算の一割弱に相当する途方もない額だ。
これを桐野利秋ら薩摩藩閥に嗅ぎつけられた山県は、その追及を受けて同年七月、陸軍中将と近衛都督を辞任した。
追及は江藤ら司法省の手に委ねられたが、山城屋に返済能力はない。そのため同年十一月、山城屋は証拠書類を処分の上、陸軍省内の一室で割腹自殺を遂げた。これにより事件は闇から闇へと葬られ、山県は政治生命を断たれずに済む。
さらに、油商の三谷三九郎が陸軍省公金三十五万円を費消した事件が発覚する。山県は井上と結託して三谷を追い込み、借金のかたに財産を没収し、公金返済を三井組に肩代わりさせるかわりに財産を三井組に渡すことで、三井組から裏金を得ることまでした。
極めつけは、井上が策を弄して旧盛岡藩御用達商人の村井茂兵衛を陥れ、尾去沢銅山を強奪したという尾去沢銅山事件である。これは、大蔵大輔の地位を利用して官権を濫用し、民間人から財を奪うという前代未聞の権力犯罪だった。
すぐに江藤は調査を開始すると、見事な手際で井上の悪事を暴き、逮捕を太政官に申請するところまでいった。
これらの汚職や不祥事を続発させた長州閥は、江藤を排斥追放しない限り、存続できる術はないと思うようになる。
佐賀の乱

ちょうどそんな時、木戸が欧州巡遊から帰国する。
時あたかも征韓論をめぐって参議たちは二分されていた。木戸は伊藤を介し、水面下で大久保と手を握る。木戸は江藤を、大久保は西郷を葬り去ろうというのだ。
その辺りの経緯は、「西郷隆盛」の項で記すので省略する。
結局、江藤と西郷は参議を辞して下野することになり、大久保は「有司専制」への一歩を踏み出し、長州閥は首の皮一枚でつながった。
明治七年(一八七四)一月、官を辞した江藤は板垣退助らと共に「民撰議院設立建白書」に署名し、自由民権運動に邁進しようとする。
言論により「有司専制」を打破しようという自由民権運動は、司法制度の整備を行い、民権を拡張した上で議会政治を導入し、法治国家を築こうとした江藤の理想に合致していた。
ところがそんな時、佐賀士族の不穏な動きが、東京の江藤の許に伝わってくる。
ここ数年、版籍奉還、廃藩置県、国民皆兵を目指した徴兵制、散髪脱刀令など、士族の神経を逆なでするような政策が相次ぎ、士族階級の不満は積もりに積もっていた。こうしたことから士族たちは徒党を組み、派閥抗争を繰り広げるようになる。それが最も盛んな地の一つが佐賀だった。
江藤は佐賀士族を慰撫すべく、佐賀に帰ることにする。
大久保の待っていた時が到来した。大久保としては、自らが築こうとしている「有司専制」体制を邪魔しようとする江藤を抹殺したかったのだ。
大久保は、佐賀県権令に土佐藩出身の岩村高俊を指名し、佐賀に送った。
岩村は戊辰戦争の折、傲慢な態度で長岡藩の河井継之助を怒らせ、長岡戦争を勃発させた張本人だ。そのようないわくつきの人物を送れば、結果は火を見るより明らかだろう。
当時の佐賀では、政府の欧化政策に反対する憂国党と、江藤を支持する征韓党の二代派閥が力を持っていた。
江藤と同時に帰郷したのが島義勇だった。「北海道開拓の父」と呼ばれた島は三条実美から佐賀鎮撫を依頼され、岩村と共に佐賀に向かったのだが、船中で岩村の傲慢無礼な態度に接し、憂国党に与することに決した。
帰国した江藤も征韓党を抑えきれず、結局、その首領に祭り上げられる。
一方の岩村は大久保の指示に従い、六百四十名の熊本鎮台兵を率いて佐賀城に入った。
明治七年二月十五日、憂国・征韓両党に所属する四千五百の士族が挙兵し、十八日には佐賀城から岩村らを追い落とした。
一方、大久保は司法と軍事の全権を自らに委ねる決定を閣議で勝ち取り、十九日には、各地の鎮台兵五千三百を率いて博多に着いていた。大久保は海陸の輸送力を総動員し、瞬く間に侵攻を開始し、三方面から佐賀城を包囲攻撃した。
これほど迅速に政府軍が攻め寄せてくると思っていなかった江藤は、西郷を頼るしかないと覚り、落城寸前の佐賀城から脱出して鹿児島に向かった。
やっとの思いで西郷を捜し出したものの、西郷から色よい返事はもらえなかった。
結局、江藤が西郷と会ったと同じ三月一日に佐賀城は落ち、島義勇も鹿児島に逃れようとしていたところを捕まった。
それでも江藤はあきらめず四国に渡るが、結局、逮捕された。
江藤の死
ファイル:Grave of Eto Shinpei Hongyoji.jpg – Wikipedia
佐賀に連れていかれた江藤は、島と共に裁判に付されたが、裁判は二日間という短期間で結審し、二人は除族の上、斬罪梟首という最も重い罪を言い渡される。本人の陳述もなし、上告も認めないという暗黒裁判だった。
近代的司法制度の確立に邁進した江藤としては、無念の極みだったに違いない。
この時の法廷には大久保も同席していたが、結審した際、発言の機会が与えられないと知った江藤は取り乱し、法廷と大久保を口汚く罵ったという。
大久保は四月十三日の日記に、「江藤、島以下十二人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜躰(醜態)笑止なり」と記した。
さらに大久保は斬罪となった江藤の晒し首の写真を撮らせ、江藤の妾に送り付け、彼女が芸者をしていた新橋の色町にもばらまかせた。よほど江藤が憎かったのだろう。
ところがこの時、政府顕官の暗殺を企てていた島田一郎ら石川県士族六人が、この写真を見て憤激し、後に大久保は暗殺される。それこそは、死せる江藤の強烈なしっぺ返しだったに違いない。
だが、江藤に非はなかったのだろうか。私はそうは思わない。歴史上でも藤原頼長、石田三成、そして江藤に共通しているのは過度な厳格さだ。自分が正しいとなれば、一切の妥協をせず相手を排撃する。落としどころを探らず、100パーセントの勝ちを収めるまで徹底的に相手を追い詰める。こうした人格の行き着く先は常に破滅しかない。
人には様々な考え方がある。それを受け入れ、妥協点を探していかない限り、社会は成り立たない。江藤のように完全無欠の正義漢であっても、それは同じだろう。
100パーセントの勝ちを目指したがゆえに、江藤は敗れ去ったのだ。
かくして江藤は敗者となったが、彼の精神は受け継がれ、以後、司法省の権限は強化され、貪官汚吏のはびこる余地はなくなった。
江藤のおかげで、日本は真の近代国家となった。やはり正義は勝ったのだ。