敗者烈伝日本史

【3分でわかる】江藤新平はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる江藤新平の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「江藤新平」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19

正義を貫きすぎた硬骨漢

江藤新平
一八三四年〈天保五年〉~一八七四年〈明治七年〉

どこの世界にも正義漢はいる。ハリウッド映画では、最後には必ず正義が勝ち、悪は敗れ去ることになっている。だが現実社会では悪に敗れる正義も多い。それが歴史の残酷さなのだが、そうした事例があるからこそ、悪に手を染める者は後を絶たない。

日本史上において敗者は様々だ。必ずしも「正義に殉じた」とまでは言いきれない敗者も多い。ところが今回、紹介する男は徹頭徹尾、正義なのだ。しかもその正義とは、新たな国家を築く際に絶対に必要な正義だった。

男の名は江藤新平。

悪を排斥し、正義を執行するために生まれてきた男である。

稀代の正義漢

日本史上において、あらゆる階層の人々が仕事から生活まで様々な分野にわたって大転換を迫られたのは、明治維新だけだろう。

日本を西欧諸国に伍していけるだけの近代国家に変えるべく、維新の元勲たちは矢継ぎ早に多くの改革を行った。

だが人とは変化を嫌う生き物であり、それを他人から強いられれば、反発を招くことになる。とくに江戸時代、無産階級でありながら豊かな生活を享受してきた武士たちにとって、精神と生活の両面で明治政府の改革は耐え難いものだった。

しかも維新で功のあったとされる志士の生き残りたちが、明治政府の顕官の座を独占し、豪邸を建てて女を囲い、政商と癒着して財を成すのだから、これに怒らぬ者はいない。

清貧を愛する西郷隆盛などは、戊辰戦争が終わった後、権力を握ることを嫌い、故郷に帰ってしまったほどだ。

そんな中、最もひどかったのが長州藩閥だ。

長州藩は、吉田松陰の薫陶を受けた俊秀たちが尊王攘夷を旗印に決起し、倒幕の原動力となった藩だ。ところが一流の志士たちは、維新の曙光を見ずに舞台から去り、残ったのは二流以下の者たちだった。

それでも木戸孝允と伊藤博文は一流半で通るが、山県有朋と井上馨に至っては、三流どころか単なる貪官汚吏だろう。

こうした連中を、希代の正義漢・江藤新平が許しておくはずがない。

佐賀藩のために働いた江藤新平

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江藤新平は天保五年(一八三四)、肥前佐賀(鍋島)藩の下級武士の家に生まれた。

西郷より七つ、ライバルとなる大久保利通より四つ、木戸より一つ年下だった。

少年から青年時代の江藤は身なりなど一切構わず、がむしゃらに書物を読み、貪欲に知識を吸収するような日々を送っていたという。

文久二年(一八六二)、二十九歳の時に脱藩して京に上り、志士活動に奔走する。ところが当時、脱藩は重罪であり、捕吏に捕らえられて佐賀に送還され、永蟄居を命じられた。その後、江藤は前藩主・鍋島閑叟の手足となって働き、新政府内における佐賀藩の発言力を確保した。

三十四歳の時に大政奉還があり、江藤は佐賀藩を代表して新政府軍に参加する。

戊辰戦争の折は東征大総督府軍監などを務め、軍事よりも占領地の戦後処理に手腕を発揮した。

公家や志士上がりの素人政治家が多い中、江藤のように万巻の書物に通じ、論理的思考を持ち、なおかつそれを法規として確立できる人材は貴重だった。

しかも江藤は単なる論客というだけではなく、鉄の意志と実行力を持つ「知行合一」を地で行くような男だった。

人は、物事を先達の教えや書物から学ぶ。しかし、それだけでは知識のままだ。それを自らのフィルターを通して仮説として構築し、具現化できる人間は極めて少ない。

言うなれば現代社会の受験戦争は、知識をより多く持っている「頭でっかち」が勝者になる仕組みであり、その後の仮説構築と実践というプロセスがないがしろにされている。それゆえ官僚や役人、また一流と言われる企業の上層部は、創造性と実行力の伴わない人物ばかりで溢れている。

幕末の諸藩にもそうした人物は多かったが、藤田東湖、橋本左内、佐久間象山、横井小楠といった本物を除き、吸収した知識を日本の国情に合わせた思想に昇華し、なおかつ敷衍しようとした者は少ない。それゆえ吉田松陰や宮部鼎蔵ら実践派は「知行合一」を唱え、志士という人種を生み出したのだ。

司法卿就任

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江藤は頭でっかちな学者タイプではなく、典型的な実践派だった。

維新後、まず江藤は文部大輔として文教行政に取り組み、短期間で省内の官制と職掌を定め、「国家が進んで全国に学校を設置して、全国民の教育を行う」という方針に従い、「学制」の原型を作り出す。

続いて江藤は左院に転じ(当時は正院・左院・右院の三院制)、副議長として、立法府の義務や職掌を定義した。

江藤が最も手腕を発揮したのが明治五年(一八七二)四月、司法卿(大臣)になってからだった。

江藤は統一的な国家法体系の樹立と法規に立脚した行政の実現を目指し、これを「国家富強盛衰の根源」だと主張した。

近代民主主義国家の根本である法治主義こそ国家安定のために必須と説いた江藤は、公正にして迅速・簡易な裁判と社会正義の実現を目指した。

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