プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「江藤新平」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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正義を貫きすぎた硬骨漢

江藤新平
一八三四年〈天保五年〉~一八七四年〈明治七年〉

どこの世界にも正義漢はいる。ハリウッド映画では、最後には必ず正義が勝ち、悪は敗れ去ることになっている。だが現実社会では悪に敗れる正義も多い。それが歴史の残酷さなのだが、そうした事例があるからこそ、悪に手を染める者は後を絶たない。

日本史上において敗者は様々だ。必ずしも「正義に殉じた」とまでは言いきれない敗者も多い。ところが今回、紹介する男は徹頭徹尾、正義なのだ。しかもその正義とは、新たな国家を築く際に絶対に必要な正義だった。

男の名は江藤新平。

悪を排斥し、正義を執行するために生まれてきた男である。

稀代の正義漢

日本史上において、あらゆる階層の人々が仕事から生活まで様々な分野にわたって大転換を迫られたのは、明治維新だけだろう。

日本を西欧諸国に伍していけるだけの近代国家に変えるべく、維新の元勲たちは矢継ぎ早に多くの改革を行った。

だが人とは変化を嫌う生き物であり、それを他人から強いられれば、反発を招くことになる。とくに江戸時代、無産階級でありながら豊かな生活を享受してきた武士たちにとって、精神と生活の両面で明治政府の改革は耐え難いものだった。

しかも維新で功のあったとされる志士の生き残りたちが、明治政府の顕官の座を独占し、豪邸を建てて女を囲い、政商と癒着して財を成すのだから、これに怒らぬ者はいない。

清貧を愛する西郷隆盛などは、戊辰戦争が終わった後、権力を握ることを嫌い、故郷に帰ってしまったほどだ。

そんな中、最もひどかったのが長州藩閥だ。

長州藩は、吉田松陰の薫陶を受けた俊秀たちが尊王攘夷を旗印に決起し、倒幕の原動力となった藩だ。ところが一流の志士たちは、維新の曙光を見ずに舞台から去り、残ったのは二流以下の者たちだった。

それでも木戸孝允と伊藤博文は一流半で通るが、山県有朋と井上馨に至っては、三流どころか単なる貪官汚吏だろう。

こうした連中を、希代の正義漢・江藤新平が許しておくはずがない。

佐賀藩のために働いた江藤新平

image by PIXTA / 43464255

江藤新平は天保五年(一八三四)、肥前佐賀(鍋島)藩の下級武士の家に生まれた。

西郷より七つ、ライバルとなる大久保利通より四つ、木戸より一つ年下だった。

少年から青年時代の江藤は身なりなど一切構わず、がむしゃらに書物を読み、貪欲に知識を吸収するような日々を送っていたという。

文久二年(一八六二)、二十九歳の時に脱藩して京に上り、志士活動に奔走する。ところが当時、脱藩は重罪であり、捕吏に捕らえられて佐賀に送還され、永蟄居を命じられた。その後、江藤は前藩主・鍋島閑叟の手足となって働き、新政府内における佐賀藩の発言力を確保した。

三十四歳の時に大政奉還があり、江藤は佐賀藩を代表して新政府軍に参加する。

戊辰戦争の折は東征大総督府軍監などを務め、軍事よりも占領地の戦後処理に手腕を発揮した。

公家や志士上がりの素人政治家が多い中、江藤のように万巻の書物に通じ、論理的思考を持ち、なおかつそれを法規として確立できる人材は貴重だった。

しかも江藤は単なる論客というだけではなく、鉄の意志と実行力を持つ「知行合一」を地で行くような男だった。

人は、物事を先達の教えや書物から学ぶ。しかし、それだけでは知識のままだ。それを自らのフィルターを通して仮説として構築し、具現化できる人間は極めて少ない。

言うなれば現代社会の受験戦争は、知識をより多く持っている「頭でっかち」が勝者になる仕組みであり、その後の仮説構築と実践というプロセスがないがしろにされている。それゆえ官僚や役人、また一流と言われる企業の上層部は、創造性と実行力の伴わない人物ばかりで溢れている。

幕末の諸藩にもそうした人物は多かったが、藤田東湖、橋本左内、佐久間象山、横井小楠といった本物を除き、吸収した知識を日本の国情に合わせた思想に昇華し、なおかつ敷衍しようとした者は少ない。それゆえ吉田松陰や宮部鼎蔵ら実践派は「知行合一」を唱え、志士という人種を生み出したのだ。

司法卿就任

image by PIXTA / 46645489

江藤は頭でっかちな学者タイプではなく、典型的な実践派だった。

維新後、まず江藤は文部大輔として文教行政に取り組み、短期間で省内の官制と職掌を定め、「国家が進んで全国に学校を設置して、全国民の教育を行う」という方針に従い、「学制」の原型を作り出す。

続いて江藤は左院に転じ(当時は正院・左院・右院の三院制)、副議長として、立法府の義務や職掌を定義した。

江藤が最も手腕を発揮したのが明治五年(一八七二)四月、司法卿(大臣)になってからだった。

江藤は統一的な国家法体系の樹立と法規に立脚した行政の実現を目指し、これを「国家富強盛衰の根源」だと主張した。

近代民主主義国家の根本である法治主義こそ国家安定のために必須と説いた江藤は、公正にして迅速・簡易な裁判と社会正義の実現を目指した。

\次のページで「山城屋事件と尾去沢銅山事件」を解説!/

山城屋事件と尾去沢銅山事件

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ところが、維新政府内にも悪党はいる。彼らは藩閥権力の傘の下で、私腹を肥やすことだけを考えている。

明治五年、かつて長州藩の奇兵隊士だった山城屋和助は、陸軍省御用商人として軍需品の納入を手掛けて巨利を貪っていた。その代わりに、山県有朋をはじめとした長州系軍人・官吏に遊興費を都合していたのだ。

調子に乗った山城屋は生糸相場に手を広げ、陸軍省の公金十五万ドルを借り出して投機に回した。ところが生糸相場が暴落し、山城屋の借用金は六十五万円にまで膨れ上がった。六十五万円といえば、当時の国家歳入の1%を超え、陸軍省予算の一割弱に相当する途方もない額だ。

これを桐野利秋ら薩摩藩閥に嗅ぎつけられた山県は、その追及を受けて同年七月、陸軍中将と近衛都督を辞任した。

追及は江藤ら司法省の手に委ねられたが、山城屋に返済能力はない。そのため同年十一月、山城屋は証拠書類を処分の上、陸軍省内の一室で割腹自殺を遂げた。これにより事件は闇から闇へと葬られ、山県は政治生命を断たれずに済む。

さらに、油商の三谷三九郎が陸軍省公金三十五万円を費消した事件が発覚する。山県は井上と結託して三谷を追い込み、借金のかたに財産を没収し、公金返済を三井組に肩代わりさせるかわりに財産を三井組に渡すことで、三井組から裏金を得ることまでした。 

極めつけは、井上が策を弄して旧盛岡藩御用達商人の村井茂兵衛を陥れ、尾去沢銅山を強奪したという尾去沢銅山事件である。これは、大蔵大輔の地位を利用して官権を濫用し、民間人から財を奪うという前代未聞の権力犯罪だった。

すぐに江藤は調査を開始すると、見事な手際で井上の悪事を暴き、逮捕を太政官に申請するところまでいった。

これらの汚職や不祥事を続発させた長州閥は、江藤を排斥追放しない限り、存続できる術はないと思うようになる。

佐賀の乱

image by PIXTA / 39690841

ちょうどそんな時、木戸が欧州巡遊から帰国する。

時あたかも征韓論をめぐって参議たちは二分されていた。木戸は伊藤を介し、水面下で大久保と手を握る。木戸は江藤を、大久保は西郷を葬り去ろうというのだ。

その辺りの経緯は、「西郷隆盛」の項で記すので省略する。

結局、江藤と西郷は参議を辞して下野することになり、大久保は「有司専制」への一歩を踏み出し、長州閥は首の皮一枚でつながった。

明治七年(一八七四)一月、官を辞した江藤は板垣退助らと共に「民撰議院設立建白書」に署名し、自由民権運動に邁進しようとする。

言論により「有司専制」を打破しようという自由民権運動は、司法制度の整備を行い、民権を拡張した上で議会政治を導入し、法治国家を築こうとした江藤の理想に合致していた。

ところがそんな時、佐賀士族の不穏な動きが、東京の江藤の許に伝わってくる。

ここ数年、版籍奉還、廃藩置県、国民皆兵を目指した徴兵制、散髪脱刀令など、士族の神経を逆なでするような政策が相次ぎ、士族階級の不満は積もりに積もっていた。こうしたことから士族たちは徒党を組み、派閥抗争を繰り広げるようになる。それが最も盛んな地の一つが佐賀だった。

江藤は佐賀士族を慰撫すべく、佐賀に帰ることにする。

大久保の待っていた時が到来した。大久保としては、自らが築こうとしている「有司専制」体制を邪魔しようとする江藤を抹殺したかったのだ。

大久保は、佐賀県権令に土佐藩出身の岩村高俊を指名し、佐賀に送った。

岩村は戊辰戦争の折、傲慢な態度で長岡藩の河井継之助を怒らせ、長岡戦争を勃発させた張本人だ。そのようないわくつきの人物を送れば、結果は火を見るより明らかだろう。

当時の佐賀では、政府の欧化政策に反対する憂国党と、江藤を支持する征韓党の二代派閥が力を持っていた。

江藤と同時に帰郷したのが島義勇だった。「北海道開拓の父」と呼ばれた島は三条実美から佐賀鎮撫を依頼され、岩村と共に佐賀に向かったのだが、船中で岩村の傲慢無礼な態度に接し、憂国党に与することに決した。

帰国した江藤も征韓党を抑えきれず、結局、その首領に祭り上げられる。

一方の岩村は大久保の指示に従い、六百四十名の熊本鎮台兵を率いて佐賀城に入った。

明治七年二月十五日、憂国・征韓両党に所属する四千五百の士族が挙兵し、十八日には佐賀城から岩村らを追い落とした。

一方、大久保は司法と軍事の全権を自らに委ねる決定を閣議で勝ち取り、十九日には、各地の鎮台兵五千三百を率いて博多に着いていた。大久保は海陸の輸送力を総動員し、瞬く間に侵攻を開始し、三方面から佐賀城を包囲攻撃した。

これほど迅速に政府軍が攻め寄せてくると思っていなかった江藤は、西郷を頼るしかないと覚り、落城寸前の佐賀城から脱出して鹿児島に向かった。

やっとの思いで西郷を捜し出したものの、西郷から色よい返事はもらえなかった。

結局、江藤が西郷と会ったと同じ三月一日に佐賀城は落ち、島義勇も鹿児島に逃れようとしていたところを捕まった。

それでも江藤はあきらめず四国に渡るが、結局、逮捕された。

江藤の死

佐賀に連れていかれた江藤は、島と共に裁判に付されたが、裁判は二日間という短期間で結審し、二人は除族の上、斬罪梟首という最も重い罪を言い渡される。本人の陳述もなし、上告も認めないという暗黒裁判だった。

近代的司法制度の確立に邁進した江藤としては、無念の極みだったに違いない。

この時の法廷には大久保も同席していたが、結審した際、発言の機会が与えられないと知った江藤は取り乱し、法廷と大久保を口汚く罵ったという。

大久保は四月十三日の日記に、「江藤、島以下十二人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜躰(醜態)笑止なり」と記した。

さらに大久保は斬罪となった江藤の晒し首の写真を撮らせ、江藤の妾に送り付け、彼女が芸者をしていた新橋の色町にもばらまかせた。よほど江藤が憎かったのだろう。

ところがこの時、政府顕官の暗殺を企てていた島田一郎ら石川県士族六人が、この写真を見て憤激し、後に大久保は暗殺される。それこそは、死せる江藤の強烈なしっぺ返しだったに違いない。

だが、江藤に非はなかったのだろうか。私はそうは思わない。歴史上でも藤原頼長、石田三成、そして江藤に共通しているのは過度な厳格さだ。自分が正しいとなれば、一切の妥協をせず相手を排撃する。落としどころを探らず、100パーセントの勝ちを収めるまで徹底的に相手を追い詰める。こうした人格の行き着く先は常に破滅しかない。

人には様々な考え方がある。それを受け入れ、妥協点を探していかない限り、社会は成り立たない。江藤のように完全無欠の正義漢であっても、それは同じだろう。

100パーセントの勝ちを目指したがゆえに、江藤は敗れ去ったのだ。

かくして江藤は敗者となったが、彼の精神は受け継がれ、以後、司法省の権限は強化され、貪官汚吏のはびこる余地はなくなった。

江藤のおかげで、日本は真の近代国家となった。やはり正義は勝ったのだ。

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幕末敗者烈伝日本史明治明治維新歴史江戸時代

【3分でわかる】江藤新平はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる江藤新平の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「江藤新平」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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正義を貫きすぎた硬骨漢

江藤新平
一八三四年〈天保五年〉~一八七四年〈明治七年〉

どこの世界にも正義漢はいる。ハリウッド映画では、最後には必ず正義が勝ち、悪は敗れ去ることになっている。だが現実社会では悪に敗れる正義も多い。それが歴史の残酷さなのだが、そうした事例があるからこそ、悪に手を染める者は後を絶たない。

日本史上において敗者は様々だ。必ずしも「正義に殉じた」とまでは言いきれない敗者も多い。ところが今回、紹介する男は徹頭徹尾、正義なのだ。しかもその正義とは、新たな国家を築く際に絶対に必要な正義だった。

男の名は江藤新平。

悪を排斥し、正義を執行するために生まれてきた男である。

稀代の正義漢

日本史上において、あらゆる階層の人々が仕事から生活まで様々な分野にわたって大転換を迫られたのは、明治維新だけだろう。

日本を西欧諸国に伍していけるだけの近代国家に変えるべく、維新の元勲たちは矢継ぎ早に多くの改革を行った。

だが人とは変化を嫌う生き物であり、それを他人から強いられれば、反発を招くことになる。とくに江戸時代、無産階級でありながら豊かな生活を享受してきた武士たちにとって、精神と生活の両面で明治政府の改革は耐え難いものだった。

しかも維新で功のあったとされる志士の生き残りたちが、明治政府の顕官の座を独占し、豪邸を建てて女を囲い、政商と癒着して財を成すのだから、これに怒らぬ者はいない。

清貧を愛する西郷隆盛などは、戊辰戦争が終わった後、権力を握ることを嫌い、故郷に帰ってしまったほどだ。

そんな中、最もひどかったのが長州藩閥だ。

長州藩は、吉田松陰の薫陶を受けた俊秀たちが尊王攘夷を旗印に決起し、倒幕の原動力となった藩だ。ところが一流の志士たちは、維新の曙光を見ずに舞台から去り、残ったのは二流以下の者たちだった。

それでも木戸孝允と伊藤博文は一流半で通るが、山県有朋と井上馨に至っては、三流どころか単なる貪官汚吏だろう。

こうした連中を、希代の正義漢・江藤新平が許しておくはずがない。

佐賀藩のために働いた江藤新平

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江藤新平は天保五年(一八三四)、肥前佐賀(鍋島)藩の下級武士の家に生まれた。

西郷より七つ、ライバルとなる大久保利通より四つ、木戸より一つ年下だった。

少年から青年時代の江藤は身なりなど一切構わず、がむしゃらに書物を読み、貪欲に知識を吸収するような日々を送っていたという。

文久二年(一八六二)、二十九歳の時に脱藩して京に上り、志士活動に奔走する。ところが当時、脱藩は重罪であり、捕吏に捕らえられて佐賀に送還され、永蟄居を命じられた。その後、江藤は前藩主・鍋島閑叟の手足となって働き、新政府内における佐賀藩の発言力を確保した。

三十四歳の時に大政奉還があり、江藤は佐賀藩を代表して新政府軍に参加する。

戊辰戦争の折は東征大総督府軍監などを務め、軍事よりも占領地の戦後処理に手腕を発揮した。

公家や志士上がりの素人政治家が多い中、江藤のように万巻の書物に通じ、論理的思考を持ち、なおかつそれを法規として確立できる人材は貴重だった。

しかも江藤は単なる論客というだけではなく、鉄の意志と実行力を持つ「知行合一」を地で行くような男だった。

人は、物事を先達の教えや書物から学ぶ。しかし、それだけでは知識のままだ。それを自らのフィルターを通して仮説として構築し、具現化できる人間は極めて少ない。

言うなれば現代社会の受験戦争は、知識をより多く持っている「頭でっかち」が勝者になる仕組みであり、その後の仮説構築と実践というプロセスがないがしろにされている。それゆえ官僚や役人、また一流と言われる企業の上層部は、創造性と実行力の伴わない人物ばかりで溢れている。

幕末の諸藩にもそうした人物は多かったが、藤田東湖、橋本左内、佐久間象山、横井小楠といった本物を除き、吸収した知識を日本の国情に合わせた思想に昇華し、なおかつ敷衍しようとした者は少ない。それゆえ吉田松陰や宮部鼎蔵ら実践派は「知行合一」を唱え、志士という人種を生み出したのだ。

司法卿就任

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江藤は頭でっかちな学者タイプではなく、典型的な実践派だった。

維新後、まず江藤は文部大輔として文教行政に取り組み、短期間で省内の官制と職掌を定め、「国家が進んで全国に学校を設置して、全国民の教育を行う」という方針に従い、「学制」の原型を作り出す。

続いて江藤は左院に転じ(当時は正院・左院・右院の三院制)、副議長として、立法府の義務や職掌を定義した。

江藤が最も手腕を発揮したのが明治五年(一八七二)四月、司法卿(大臣)になってからだった。

江藤は統一的な国家法体系の樹立と法規に立脚した行政の実現を目指し、これを「国家富強盛衰の根源」だと主張した。

近代民主主義国家の根本である法治主義こそ国家安定のために必須と説いた江藤は、公正にして迅速・簡易な裁判と社会正義の実現を目指した。

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